寿福寺

 

⇒寿福寺への交通
JR鎌倉駅下車徒歩10分
拝観不可(但し参道と墓地だけ拝観自由)
拝観料/無料

神奈川県鎌倉市扇ガ谷1-17-7

 小町通りの鶴岡八幡宮側の出口近くを駅から向って左に折れ、200m程直進、踏み切りを渡った正面突き当たりが寿福寺。
 臨済宗建長寺派の寺で、鎌倉五山の第三位。
 源頼朝が亡くなった翌1200年に、妻の政子が栄西を開山として創建したもので、もともとはここには源義朝の館があった。最初頼朝が鎌倉入りした時、父の故地に館を構えようとしたものの、あまりに狭いので大蔵の地に幕府を設けたのである。
 総門をくぐると50mほどの石畳の参道が一直線に続く。山門左手の道を行き突き当りを左折、更に突き当たりを右折し境内墓地の奥を右に進んだところに北条政子、源実朝の墓と伝わるやぐらがある。

 

 
 <北条政子墓>
 本堂裏山の崖に幾つかあるやぐらの一番奥まっている処にあるのが北条政子と実朝の墓といわれるやぐらである。
 北条政子は源頼朝の妻で尼将軍として息子の頼家・実朝の後見役を果たした人物。

 

 
 <源実朝墓>
 実朝は、頼朝の次男で、兄頼家が追放された後を継いで三大将軍となっているが、実権は執権の北条氏が握っていた為、実朝は早くから和歌や管弦・蹴鞠を好み、藤原定家の弟子となり金塊和歌集を残した。
 また、宋(中国)に渡る計画を立て海に船を浮かべようとしたが、遠浅のため船が大きすぎて船底が砂につかえ動かず、とうとう船を浮かべることができなかったという逸話も残している人物。
 1219年、頼家の子である公暁に正月拝賀の際、鶴岡八幡宮で暗殺される。

 

 

 

上杉管領屋敷跡

 

 
 <上杉管領屋敷跡>
 英勝寺前の踏み切り側に扇谷上杉氏屋敷跡の碑が建っている。
 六代将軍宗尊親王に従って鎌倉に下った勧修寺重房が上杉氏の祖で、やがてその子孫が扇谷・託間・犬懸・山内の四家に分かれるが、託間は山内家に吸収され、犬懸は禅秀の乱で滅び、山内家と扇谷家で対立した。扇谷定正の家宰太田道灌の登場で、扇谷氏が勢いづくと、山内顕定は扇谷定正をそそのかし、道灌が主家を乗っ取ろうとしていると嘘を吹き込み、間に受けた定正は1486年に道灌を謀殺する。扇谷氏は道灌の死後急速に衰えて行ったのである。

 

 

 

岩船地蔵堂

 

 
 <岩船地蔵堂>
 寿福寺前の踏切を小町通り側に再度戻り、線路沿いの細い道を進み道なりに行くと横須賀線ガード近くの右手に右の写真のお堂が見える。 堂内には、頼朝の長女大姫の守り本尊という銘札を胎内に納めた地蔵菩薩が祭られている。

 大姫は6歳の時、木曽義仲の11歳になる嫡男義高が人質代わりとして大姫の婚約者として定められ仲睦まじく暮らしていたが、義仲が討たれると義高の身を護る為、大姫と政子は義高を逃がすが、頼朝の追っ手に捕らえられ処刑される。義高の死を知った大姫は悲しみの余り寝込んでしまい、20歳で衰弱死してしまったのである。

 

 

 

海蔵寺

 

⇒海蔵寺への交通
JR鎌倉駅下車徒歩20分
拝観時間/9時30分〜16時
拝観料/境内志納(十六ノ井拝観100円)

神奈川県鎌倉市扇ガ谷4-18-8

 足利氏満[うじみつ]の命を受けた上杉氏定が、玄翁空外を開山として1394年に再建した臨済宗の寺。
 本尊は薬師像だが、俗に「啼き薬師」と呼ばれ、寺の裏山で夜な夜な子供の泣き声がするので玄翁和尚が掘ってみたところ薬師の頭部が出て来たので、そこで新たに薬師如来像を彫り、胎内にその頭部を納めたと伝えられる。
 扇ケ谷の静かな住宅街にあり、萩など花の寺としても名高い。
 山門前右手には鎌倉十井のひとつ底脱ノ井、左手奥の崖下に十六ノ井がなどがある。

 

 
 <十六ノ井>
 本堂脇の道から入って崖沿いの道を進んでいくと、右手に広さ八畳程の広さの穴が崖にあり、そこには十六個の穴が水を湛えている。
 元々は納骨の為に掘った穴であるが、それが地下水の水脈にぶつかり、水が湧き出るようになったものらしい。

 

浄光明寺

 

⇒浄光明寺への交通
JR鎌倉駅下車徒歩16分
拝観時間/
仏像拝観は木・土・日・祝日の10〜12時、13〜16時(8月と雨天中止)
拝観料/無料(仏像拝観200円)

神奈川県鎌倉市扇ガ谷2-12-1

 1251年、6代執権北条長時が真阿上人を開山として創建した寺。元々は文覚上人の建てた草庵が始まりといわれる。小さな山門を入ると、正面に白壁も美しい客殿が立つ。収蔵庫にある本尊の阿弥陀三尊像は、国の重文に指定されており、また客殿に安置されている地蔵尊は「矢拾い地蔵」と呼ばれ、足利尊氏の弟、直義の守り本尊だといわれる。
 この寺は、北条高時の遺児時行が挙兵し鎌倉へ攻め入った乱「中先代の乱」の際、足利尊氏が後醍醐天皇の許しを得ずに鎌倉へ向かった為、後醍醐天皇は激怒し尊氏を賊軍として討伐軍を送った。此の時、側近2〜3人と籠って応戦か恭順かを悩んだ場所。(ここで後醍醐天皇に反旗を翻す事を決め挙兵した)

 

 

銭洗弁財天(宇賀福神社)

 

⇒銭洗弁財天(宇賀福神社)への交通
JR鎌倉駅西口より徒歩20分
拝観時間/8〜17時
拝観料/無料

神奈川県鎌倉市佐助2-25-16

 鎌倉駅西口を直進し、右手に紀伊国屋を見ながら更に直進し、案内に従って右折し、段々緩やかな上り坂になり暫くすると急な上り坂に。
 登り坂の途中にある岩肌をくりぬいた洞窟のようなトンネルをくぐると鳥居が林立する境内に出る。
 本殿左手の洞窟内に奥宮があり、鎌倉五名水のひとつ銭洗水が湧いている。かつて巳の年の巳の月、巳の日の夜、頼朝の夢枕に宇賀福神が現れ「西北の谷に岩間から湧く神泉がある、そこは真神極秘の霊泉である、この水を汲んで用いれば天下はたちまち豊穣の栄えを見せるであろう」と告げられ、頼朝はこれに従って社を建てて祭ったという。1257年北条時頼が巳月の仲秋にこの泉で銭を洗った。以来、この霊水で銭を洗うと何倍にもなるという信仰が広まり、今もザルにお札や小銭を入れて洗う参拝者が絶えない。