来迎寺

 

⇒来迎寺への交通
JR鎌倉駅よりバス「九品寺循環」行き「五所神社」下車徒歩5分
拝観時間/境内自由
拝観料/無料

神奈川県鎌倉市材木座2-9-19

 五所神社前の道を左折すると右手に来迎寺がある。ここは源頼朝が三浦大輔義明・多々良四郎義春親子の菩提を弔う為に1194年に建てた真言宗の能蔵寺があったが、開山の音阿上人が時宗に改宗した為、来迎寺に改めたという。
 本堂には義明の守護仏であった阿弥陀三尊と子育て観音とも言われる聖観音像が安置されている。境内には義明の木像が安置されている廟所の他、三浦義明と多々良四郎義春の分骨塔と伝わる大きな五輪塔もある。

 

 

 <三浦大輔義明家臣の墓>
 
三浦義明は衣笠城を本拠として三浦半島に君臨した豪族だったが、1180年頼朝が伊豆で挙兵すると、直ちに子の義澄・義春らを派遣したが、義澄らが途中で頼朝の敗報を聞き、引き揚げるところを平家方の軍勢と鎌倉の小坪で衝突し、この戦闘で義春は17歳で戦死。また、義明も衣笠城に平家の軍勢を迎え撃って討死した。
 この時の戦闘での死者の供養塔が、本堂裏手にある。

 

九品寺

 

⇒九品寺への交通
JR鎌倉駅より京浜急行バス「小坪経由新逗子駅行き」または「九品寺循環」で8分、「九品寺」下車すぐ
拝観時間/9時〜16時
拝観料/無し

神奈川県鎌倉市材木座5-13-14

 1333年の鎌倉攻めの際の北条方の戦死者を弔うため、1336年に新田義貞が創建した浄土宗の寺(開山は風航順西)。
 山門と本堂に掲かっている『内裏山』と『九品寺』の扁額の文字は、義貞自筆と伝えられる。鎌倉で唯一の新田義貞ゆかりの寺だ。
 ここは、義貞が鎌倉攻めの本陣をはった場所のひとつとして知られる。

 

 <九品寺の扁額>
 新田義貞自筆の文字の写しである本堂に掲げられている扁額。(直筆と伝えられる額は本堂に保存されている)

 

 

補陀洛寺

 

 <補陀洛寺>
 九品寺の前の道をまっすぐ南に走り、材木座海岸に出る手前を左に曲がり、さらにすぐに左に入ってまっすぐ行くと、一見農家のような小さな寺に出る。
 この補陀洛寺は、1181年頼朝が(※)文覚上人に対する恩に報いる為に文覚上人を開山として建てた寺。(頼朝挙兵の翌年である)創建当時は七堂伽藍を完備した堂々たる大寺院だったというが、のちに火災や竜巻などの難に遭いその殆どを失ってしまい、現在は本堂と庫裏を残すのみである。
 寺宝として、不動明王・薬師如来・日光・月光菩薩などの他に壇ノ浦で平家より分捕った赤旗が残されているという。

神奈川県鎌倉市材木座6-7-31
JR鎌倉駅より京浜急行バス「小坪経由逗子駅行き」で「材木座」下車、徒歩1分 境内自由

 

※【文覚上人】
 俗名を遠藤盛遠といい、元は北面の武者。18歳の時、源渡の妻の袈裟御前に想いを寄せ、源渡を殺そうとした際に誤って袈裟御前を斬り殺してしまい、その事を深く悔いて出家。
 治承の頃高雄山にのぼり、荒廃した神護寺の再興を志し、 後白河上皇の離宮を騒がしたため伊豆国に流されたが、この地で源頼朝と接触し、頼朝に挙兵を促し助力する。平家滅亡後には平維盛の嫡男六代の助命をする。(六代は文覚が流罪さるのと前後して庇護を失い捕らえられ処刑される)のち頼朝の援助で神護寺を復興。 また、東寺を修理。頼朝没後、源通親の謀議に加わり佐渡国に流され、のち対馬に流された。