和田塚

 

 <和田塚/和田一族戦没地碑>
 
鎌倉幕府開府に尽力した和田義盛だったが、1213年北条義時との戦い(和田合戦)に破れ義盛は破れ自刃。
 明治25年の新道開設工事の際に多くの人骨が発掘され、和田合戦で戦死した和田一族の遺骨として弔ったものが和田塚。
 敷地内には焼く20基の五輪塔が並んでいるが、明治中期までは無常堂塚として向原古墳群の一つとして考えられていた。(実際の戦闘は若宮大路あたりで行われ、一族もそこで戦死したと考えられる事等から、和田一族の墓とする説に疑問の声もある)
⇒和田塚への交通
江ノ島電鉄和田塚駅下車徒歩2分
拝観時間/敷地内自由

神奈川県鎌倉市由比ガ浜3-19

和田駅の改札を出てすぐ右に進むと左に一段上がった敷地があり、そこに和田一族戦没碑や五輪塔が立ち並ぶ。

 

 

由比ガ浜

 

⇒由比ヶ浜への交通
交通/江ノ電「由比ヶ浜駅」下車
神奈川県鎌倉市由比ヶ浜

 広くは相模湾に面する稲村ガ崎から飯島崎までの浜を指すが、今は滑川から稲瀬川までを呼ぶのが一般的。
 鎌倉時代には流鏑馬・小笠懸等の武技鍛錬の場として、罪人処刑や葬送の地として使用されていた。
 義経と静御前の間に生まれた男の子が、この由比ヶ浜に生まれてすぐに沈められた。

 

 

甘縄神明社

 

⇒甘縄神明社への交通
江ノ島電鉄長谷駅より徒歩12分
拝観時間/境内自由
拝観料/無し

神奈川県鎌倉市長谷1-12-1

 和銅年間(708〜715)に、豪族染谷太郎時忠が創建した鎌倉最古といわれる神社。
 祭神は源義家の持護といわれる天照大御神。境内はうっそうとした樹木に包まれ、現在は長谷地区の氏神様として親しまれている。
 この辺りは安達盛長の屋敷跡で、五代執権時頼母、八代執権時宗妻、九代執権貞時妻、十四代執権高時妻等は全て安達一族で縁組を背景に勢力を拡大したが、宗景の代に(※)霜月騒動によって平頼綱に殺害される。

 

 <北条時宗公産湯の井>
 時宗は安達邸で生まれ育ったといわれ、石段左下には「北条時宗公産湯の井」がある。

 

※【霜月騒動】
 霜月騒動は、5代執権・北条時宗が得宗家の独裁政治を始めた頃から、得宗の直属家臣(御内人)である平頼綱と御家人筆頭・安達泰盛との間で起こった騒乱で、得宗家の権力が大きくなるにつれ、御内人の権勢も強くなっていった。時宗が亡くなると嫡男貞時が14歳で九代執権となるが、頼綱の妻が貞時の乳母であった事から、平頼綱が内官僚として御内人の筆頭となり権力を握った。
 平頼綱にとって、実権を握ろうとするのに北条の縁戚として,権威を保っている安達泰盛が目障りであった為、頼綱は、幼い貞時に「安達秦盛の嫡男・宗景が源氏姓を名のり、将軍になろうと陰謀を企てている」と嘘を吹き込み、まだ分別もつかない当時15才の貞時の承諾をとりつけ、1285年11月頼綱は安達一族に対して兵を差し向け、安達一族は頼綱軍を迎え撃つが、結局安達一族は敗北し、安達秦盛、宗景は殺され、幕府創立期時代からの有力御家人の安達一族は滅亡した。
 そして頼綱は安達氏と関係のある多くの御家人を徹底的に粛清。その数500名と言われている。その影響は地方にも及んだ。この騒動は霜月(11月)に起こったので霜月騒動と言われる。
 その後、御家人の政治勢力は完全に押さえられ、権力を握った平頼綱は一族や与党を重用して専制政治を行うが、のち成長した貞時により1293年4月平禅門の乱で平頼綱、次男資宗は滅ぼされ、長男・宗綱は佐渡に配流された。

 

 

高徳寺

 

⇒高徳院(鎌倉大仏)への交通
江ノ島電鉄長谷駅より徒歩10分
拝観時間/7〜18時(10〜3月は〜17時30分)
拝観料/拝観200円(胎内20円)
神奈川県鎌倉市長谷4-2-28

 長谷の駅を出て右に真っ直ぐ賑やかな土産物屋などが並ぶ道を進むと右前方に高徳院が見えてくる。鎌倉の大仏は、鶴岡八幡宮と並んで鎌倉を代表する名所で、観光客が絶えない。大仏の座高はおよそ11m、拝観料20円を払うと胎内に入って大仏内を見学する事が出来る。
 浄光という僧が諸国を勧進して浄財を集め歩き、1238年に大仏殿を建て始め、5年後1243年に大仏の開眼供養が行われている。しかし、この当時の大仏は木像で、4年後暴風雨の為倒壊し、1252年改めて金銅の仏像が鋳造され始めた。この頃は露座ではなく、大仏殿に収められていたが、1334年中先代の乱の時、時行の軍が暴風を避ける為大仏殿に入った際倒壊し、500人余りが死んだという。その後も何度も天災を受け1498年の大津波で倒壊した後は大仏殿は無くなったが、現在その礎石だけが残り、当時の大仏殿の大きさを物語っている。

 

 

長谷寺

 

⇒長谷寺への交通
江ノ島電鉄長谷駅より徒歩5分
営業時間/8時〜17時30分(10〜2月は〜16時30分)
拝観料/300円

神奈川県鎌倉市長谷3-11-2

 藤原不比等の子藤原房前が、736年に徳道上人を開山として創建したと伝えられる浄土宗系の単立寺院で正しくは「海光山慈照院長谷寺」といい本尊の十一面観音像は高さ11mもあって日本有数の木像である。俗に「長谷観音」の名で知られている。
 室町期には足利氏によって本堂の再建や本尊の大修理が行われるなど、代々の権力者の保護を受けてきた。広い境内には、本尊の十一面観音像を安置する観音堂をはじめ阿弥陀堂、大黒堂、地蔵堂など6つの堂宇が立つほか、観音堂南側の見晴台からの景色はすばらしく、由比ケ浜をはじめ、鎌倉の町を一望できる。
 境内には美しい庭園が広がり、山門をくぐると右手に八作弁天の洞窟がある。

 

(左上)弁天窟入口 (右上)弁天窟内・・・岩肌に石像が安置され、蝋燭を石像の前に置いて行く。
(下)弁天窟内通路・・・写真のような狭い通路で色々な部屋が繋がれ迷路のようになっている。

 

長谷寺で買えるお守り(身代わり鈴)・・・持ち主に何かあった時に割れて身代わりになってくれるお守り

 

 

御霊神社

 

⇒御霊神社への交通
江ノ島電鉄長谷駅より徒歩3分
拝観時間/境内自由
拝観料/
無料

神奈川県鎌倉市坂ノ下3-17

 江ノ電線路沿いにある御霊神社。こんな風景が鎌倉らしい。
 もとは関東平氏五家の霊を祭る五霊神社だったが、後に後三年の役で活躍した武将鎌倉権五郎景政を祭ったことから権五郎神社の名もある。境内にはイチョウの大木や樹齢400年のタブの巨木が生い茂り、静寂そのもの。景政が軽々と持ち上げたという105kgもある手玉石も残る。
 拝観の際には電車に注意しよう。

 

 

極楽寺

 

⇒極楽寺への交通
江ノ島電鉄極楽寺駅より徒歩2分
拝観時間/9時〜16時(宝物殿は10時〜)
拝観料/無料(宝物殿300円)

神奈川県鎌倉市極楽寺3-6-7

 貧者救済や病人の治療に尽くしたことで知られる忍性が、1259年に創建した真言律宗の寺。本堂前には忍性の使用と伝わる石臼や薬鉢がある。往時は七堂伽藍をはじめ49もの塔頭があり、施薬院や施療院などもあったが度重なる火災や戦乱で大半が焼失。
 現在は山門や本堂などが山かげにひっりと立っているのみである。
 奥の院には高さ約4mの忍性の墓(史跡)が立つ。
 極楽寺へ続く道は「極楽坂切通し」と呼ばれ忍性が切り拓いたと伝えられ江ノ島方面からの重要な道であったが、新田義貞が鎌倉に攻め入った際、大仏貞直が守った。当時の切通しは人一人通れる程の広さしかなく、新田方の大館宗氏を討ち取る程善戦している。当時の切通しはもっと今より高い位置にあり、成就院の門前を通っていたと云われ、江戸時代に掘り下げ幅を広げたと思われる。

 

 

満福寺

 

⇒満福寺への交通
江ノ島電鉄腰越駅より徒歩3分
拝観時間/9時〜17時
拝観料/志納

神奈川県鎌倉市腰越2-4-8
公式HP⇒http://www10.ocn.ne.jp/~mnpk/

 腰越駅を降りて鎌倉方面に少し戻って左側の路地を上がると線路脇に石段が続き、その上に腰越状で知られる満福寺がある。
 1185年、壇ノ浦で平家を滅ぼした源義経は京都から鎌倉に入ろうとした際に、頼朝に拒まれてこの寺に留め置かれた。
 義経は謀反の気持ちのないことを綴った書状を頼朝の家臣大江広元に送った。これが有名な義経腰越状で、寺にはその下書きといわれるものが残っている。
 境内には家来の弁慶が腰をおろした腰掛け石などもあり、また、本堂の襖絵は義経の生涯を鎌倉彫で描かれた漆画で見る価値有り。心落ち着くお寺です。

 

 
 <義経手洗い井戸>

 

 
 <弁慶腰掛石>