東林寺

 

⇒東林寺への交通
交通/京浜急行「浦賀駅」よりバス「新町」バス停下車徒歩5分
境内自由/拝観無料

神奈川県横須賀市東浦賀町2丁目29

 お寺周辺の道路はかなり道幅も狭く、入り組んでいるので解りづらいです。・゚゚・(>_<;)・゚゚・。境内には幕末の幕臣中島三郎助父子の墓もあります。墓所は、境内はいると直ぐ左に墓地があり、案内板があるので、すぐ解りやすいです。
 
 <中島三郎助墓>
 文政4年〜明治2年5月16日
 浦賀奉行所与力を勤めていた嘉永6年6月にペリーが浦賀に来航。
 浦賀奉行所重役に代わって、米国使者の応対をした言われている。 安政2年江戸幕府が新設した長崎海軍伝習所に第一期生として入所、安政5年に築地軍艦操練所教授方を任せられ、後、軍艦操練所頭取ともなった。
 慶応4年正月戊辰戦争が勃発すると、8月19日に榎本武揚等と江戸を脱走、蝦夷地へ渡った。蝦夷共和国では箱館奉行並となる。
 千代ヶ岡陣屋で奮戦、新政府軍より降伏勧告を受けるもこれを拒否し明治2年5月16日、長男恒太郎・次男英次郎と共に戦死。享年49。
 
 <中島英次郎墓>
 三郎助次男。房次郎ともいう。
 明治2年5月16日千代ヶ岡にて戦死。享年19才。
 
 <中島恒太郎墓>
 三郎助長男。明治2年5月16日千代ヶ岡にて戦死。享年22歳

 

 之を戍る主長中嶋三郎助(砲兵頭並)性剛直にして確乎たる老人なる故に、死を以て守しに因り、今敵の襲撃するを見ると雖ども更に動ぜず盛んに発砲し、敵中へ散弾を打込多く殪すと雖ども、渠れ降参兵を先にして四方より壁を破りて込入血戦数刻にして三郎助遂に丸に当り斃る
 是に於て其二子恒太郎、房次郎の二名も敵中に入て戦死す。其他死傷数人あり。又、元浦賀奉行組同心柴田伸助と云老人あり、三郎助へ附属して此処に在しが終に一歩も退かずして死す【麦叢録/小杉雅之進】

 

 

 

乗誓寺

 

⇒乗誓寺への交通
京浜急行「浦賀駅」よりバス「新町」下車
拝観時間/境内自由
拝観料/無し

神奈川県横須賀市東浦賀町1丁目77

 新町の交差点過ぎて直ぐの通り沿いなので、比較的わかりやすいお寺です。境内には会津藩士杉浦成忠の墓もある。

 杉浦成忠の墓、ちょっと解りづらいです。境内の右脇にある墓地ではなく、本堂の脇にある階段を登ると山の斜面に墓地が並び、更に階段を登っていくと、開けた処に出るのですが、その正面に杉浦家の墓所があり、成忠は下写真の一族の墓に同葬されています。この墓石は近年古い墓石を新しくしたものだそうです。

 

 <杉浦成忠墓>
 会津藩士、通称佐伯、杉浦藤八郎(400石)の分家に生まれる。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、正月の鳥羽・伏見戦で白井大砲隊にあって奮戦、以後、越後〜一ノ堰を転戦する。
 戦後は越後高田にて謹慎、斗南藩試補官庶務掛となり、西南戦争では第二少警部として従軍。戦後陸軍憲兵中尉まで進む。
 謹慎中に記した『戊辰戦記結草録』は鳥羽伏見の戦いから塩川謹慎までを詳細にしるした従軍戦記として有名。

 

 

 

能満寺

 

⇒高徳院(鎌倉大仏)への交通
京浜急行「浦賀駅」よりバス「脇方」下車徒歩5分。
境内自由/拝観無料

神奈川県横須賀市鴨居2丁目24-1
 明応6年の創建で、慶長14年に曹洞宗に改宗。
 境内には、三浦半島湾岸警備にあたっていた会津藩士とその家族の墓が建立されている。
 
 <会津藩士墓>
 無縁仏の墓石と一緒になってしまっているので、解りづらいが会津藩士の墓10基と、川越藩士の墓が1基ある。

 

 

 

西徳寺(境外会津墓地)

 

⇒西徳寺境外会津墓地への交通
京浜急行「浦賀駅」よりバス「鴨居」下車。
境内自由/拝観自由

神奈川県横須賀市鴨居2丁目20

 「西徳寺の会津墓地」とはいうものの、西徳寺の境内ではなく、裏山の中にひっそりと建立されています。
 西徳寺の境内本堂左手の鐘楼の前を右折,江戸時代のものと思われる無縁仏が並ぶゆるい坂道を最奥部まで進み,左折して階段を道なりに登っていくと裏山へいく事が出来るが、
 能満寺側から上の台中学校脇のロータリーにフェンスが途切れている処があり、そこから山に入って直ぐ左折して更に少し登ると、上の「会津藩士の墓」という案内板が見えてきます。
 
 <会津藩士墓>
 お寺の裏山中にひっそりと、三浦半島警備の任期中に没した藩士やその家族の墓11基が建立されています。
 下の二基の他に解ったのは「林重敬墓」知行500石、文政3年2月に嫡男重徳が重敬死去の為五百石の知行を継いでいるので、その頃没したものだと思われる。また、東京の三田実相寺には、重敬の父林重遙の墓がある。

 

   (左)「大廣院深應浄遠居士」墓 / (右)「光顔院浄誉明鏡大姉」墓
 一説には、白虎隊士中二番隊士間瀬源七郎の叔父と祖母であるという。

 ・・・で、諸士系譜と墓石脇の碑文で照らし合わせて調べた所、解る事は左写真の「大廣院〜」は「間瀬利民」寛政11年(1799年)3月25日生、父は利光、母は日向氏女。間瀬源七郎の父「間瀬利貞」は享和2年(1802年)12月5日生、母が日向氏女なので、この「大廣院〜」は間瀬源七郎の正しくは「伯父」になるようです。
 「光顔院〜」は萱野長久の娘で、寛延2年(1749年)生となると、ちょっと利民、利貞兄弟の義母としても年齢的に厳しいし、また碑文にも『孺人既荓而嫁間瀬利為事舅姑孝奉其夫貞有四男二女咸純行也利為君先没而…』となっているので、漢文が苦手な私には意味がイマイチ…なんですが、どっちかというと、利民兄弟の祖父利為の妻なのか??…としたら曾祖母にあたるのかしら??

 

 

 

円照寺

 

⇒円照寺への交通
京急馬堀海岸駅よりバス「走水神社」下車
拝観時間/境内自由
拝観料/
無料

神奈川県横須賀市走水2丁目9-9

 室町時代初期の応永五年日海上人によって創建されたお寺で、境内には会津藩士の墓5基と、川越藩士の墓1基が建立されています。
 
 <会津藩士墓>
 境内奥の無縁仏の墓と一緒になっています。右奥の一角に僅かに「會津」の文字が見えます。
 『會津 和田賢〜』『會津 和田平〜』しか見えないので、はっきりとは解りませんが、多分『會津 和田賢〜』は知行3石2人扶持の「和田賢温妻の墓』ではないかな?とか…。和田賢温自身が文化12年7月に観音崎常詰番頭物書御雇勤を命じられていて、先妻の松田喜兵衛信安女が病死しているので…。他の「和田平〜」も同じ家系だとは思うのですが…。

 

 

 

会津藩士墓地(腰越/三昧堂)

 

⇒会津藩士墓地(腰越/三昧堂)への交通
京急浦賀駅よりバス「腰越」下車
見学自由/見学無料

神奈川県横須賀市

 鴨居バス停から観音崎方面へ県道209号を歩き、県道から京急ニュータウンに通じる左側に「会津藩士墓地」の案内板があり、それに従い軽自動車1台がギリギリ通れる程の道を進むと左に上写真の案内が見えるので、この入口を奥に登って行くと、左側に開けた下の会津藩墓地が見える。
 この場所は、会津藩が文化8年、三浦半島湾岸警備の為陣屋を置いた場所で、その敷地は八千百十坪余あったという。また、陣屋内には「養正館」という藩校まで設けられたというが、天保13年川越藩の管轄となり、明治2年撤去された。
 
 <会津藩士墓>
 腰越墓地には会津藩士及び家族の墓23基が存在する。入口には「田中興休妻墓」10石2人扶持、沢野久左衛門城成女(病死)があり、中には、「在竹平助隆明女墓」知行200石(隆明自身は文化11年相州観音崎常詰物頭を命じられている)など計23基がある。

 

 

 

愛宕山公園

 

⇒愛宕山公園への交通
急本線浦賀駅より京急バス久里浜行5分、紺屋町より徒歩10分
見学自由/見学無料

神奈川県横須賀市西浦賀1-23

 明治24年に開園した市内で一番古い公園で、ペリー来港の際浦賀奉行所与力として交渉にあたった中島三郎助の招魂碑を明治26年に建立した際に、公園として整備されたもの。
 また、太平洋横断に成功した最初の日本船である咸臨丸の出航記念碑もその側に建てられています。

 本当に公園への入口(上写真)見つけづらいです。・゚゚・(>_<;)・゚゚・。
 奥に見える階段を少し登ると、完全に山の中になり、不安定な階段を登って行くと碑が見えてくる。

 

「咸臨丸出航の碑」