不動堂

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福島県喜多方市岩月町入田付沼尻

 飯盛山で自害した後、蘇生した飯沼貞吉が印出ハツ等に助けられ、隠れ住んだ場所。
 とにかく、畑のあぜ道のようなところを進んだ奥にひっそりとあります。夏に行く時には、虫除けが必須です。
 
<蘇生白虎隊士飯沼貞吉ゆかりの地碑>

 99年に貞吉の孫一浩氏らによって建立された碑。
 貞吉は、飯盛山で蘇生した後、渡部佐平と長男の嫁ムメにより援けられ、佐平は同じ岩屋にいた印出ハツに後を頼む。
 そのうち、塩川に入り治療を受けるが、危なくなってきたので更に喜多方の不動堂に移り、ここで開城を迎える。

拝観自由/拝観無料


 左上から時計回りに「不動堂への風景(奥の建物が不動堂の入り口門)」「不動堂内部」「不動堂裏の瀧」「不動堂から門への道」の写真となっています。

 

熊倉杉の下墓地

⇒杉の下墓地への交通

拝観自由/入場料無料

福島県喜多方市熊倉町熊倉

 畑のど真ん中に突如として広がる墓地。この大きな木の下で会津藩士中根米七が自害したという場所。
 また、中根米七の墓以外に、小栗上野介の家臣で佐藤銀十郎の墓もあり。
 <中根米七墓>

 文政3年生。三百石取りの中根源五右衛門忠愛の五男。
 1876年の思案橋事件に参加し、捕らえられずに逃亡、明治11年にこの杉の下墓地にて自刃。享年58歳。

拝観自由/拝観無料
 
<小栗上野介家臣 佐藤銀十郎墓>

拝観自由/拝観無料

 

長福寺

⇒長福寺への交通

拝観自由/入場料無料

福島県喜多方市岩月町下岩崎

 この寺は、天福元年(1233)飯島筑後守開基、密侶看信の開山した飯島山長福寺といいます。
 慶長17年若松徒之町一乗寺の僧良讃が再興して浄土宗となりました。
 慶応4年24世世良得上人が遷化された後無住となっております。 本堂・庫裏合わせて42坪の大きさでしたが、老巧化が進んだため、昭和56年現在の堂宇に再建されました。本尊は阿弥陀妙来。
 <佐川官兵衛夫妻墓>
 戊辰戦争の際、佐川官兵衛の家族は、ここ長福寺に避難しており、官兵衛は明治10年の西南の役に従軍して、阿蘇山中で壮烈な戦死をとげましたが、本籍地は、「大都村」となっております。官兵衛は妻をこよなく愛し、死んだら妻の側に埋葬して欲しいと申しておりました。この寺を本籍地にしたのかもしれません。その願いが最近になってようやくかない、熊本にある官兵衛のお墓の土を妻の墓石の側に移し墓石を建てたのです。
 
<瓜生岩子刀自裁縫教授所跡>
 瓜生岩子が、小田付の幼学校跡が手狭になったため、明治12年この寺を借り受け、貧困者を住まわせ仕事を世話し、また、「裁縫教授所」を開設して近隣の農家の娘に、裁縫や礼儀作法を教え、僧侶の法話などを聞かせ教育しました。同20年福島に出る迄の8年間、村の人々の協力を得て事業を進めました。岩子が会津だけでなく広くその事業の必要性を痛感し、県都での活躍を計画したのはこの寺であったわけです。

 

 

満福寺

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拝観自由/入場料無料

福島県喜多方市字馬場2459

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 <日向家代々之墓>
 本堂裏の、大きな木の根元辺りにひっそりと建っている「日向代々之墓」で、白虎隊士中二番隊隊長であった日向内記の墓とするものの、内記自信が埋葬されているという証拠はないという。
 
<長州藩士村川源之助墓>
 長州藩士村川源之助は戊辰の際、越後口から小荒井へ進出した西軍兵士の一人で、9/11小田付の激戦で戦死を遂げた。享年18歳。
 前ノ原墓地に埋葬されていたが、このたび墓地移転にあたり、この満福寺境内に改葬したもの。本堂左脇。