明治戊辰仙台藩松山隊勇戦之地碑



⇒明治戊辰仙台藩松山隊勇戦之地碑への交通

交通⇒
JR常磐線新地駅より車で3分(徒歩40分)
見学自由

福島県相馬郡新地町

 県道38号線沿い御殿岬近くにある仙台藩松山隊の碑。
 戊辰戦争の際、7月初旬になると磐城方面の応援の為二小隊が派遣され、8月には松山隊全軍が相馬口の出動を命じられた。
 慶応4年8月20日の奪還戦で仙台藩松山(現在の宮城県志田郡松山町)隊が勇戦の末、新地町南端の御殿岬に追い詰められ、逃げ場を失った27名が崖から海に身を投げるなどして戦死した場所。
 結局、仙台藩はこの地を奪還する事が出来ずに、終戦を迎えたのである。そして松山隊の小隊長鈴木市郎左衛門は、大敗の責任を感じたのか、大戸浜の観音寺で自刃したのである。






戦死塚(今泉薬師堂)



⇒今泉薬師堂への交通
交通⇒JR常磐線新地駅より車で4分
拝観自由/入場無料

福島県相馬郡新地町

 その昔、泉長者といわれる人が悪党に追われ、守り本尊を背負って新地の今泉に落ち着き、堂を建てたと伝えられるお堂。

 裏の墓地には戊辰戦争戦死塚が建立されている。
 松山隊勇戦之地碑近く。碑より南西に進んだ路地内。

 
 <戦死塚>
 新地は仙台藩と新政府軍との最後の戦いの地となった場所で、仙台藩は、山手は駒ヶ嶺城を中心に菅谷、高田から丸森の旗巻峠、浜手は今泉今神方面一帯に警備を固めた。
 慶応4年8月7日より戦闘が行われ、11日に新政府軍の手に陥落。
 その後奪還作戦が行われ、浜手では亘理隊と松山隊は積極的に前進し戦ったが、折からの雨もあり、戦況は不利となり、多くの戦死者を出したのである。

 薬師堂裏の墓地入り口に説明版と共に建立されている。




仙台藩士戊辰戦没之碑



⇒仙台藩士戊辰戦没之碑への交通
交通⇒JR常磐線駒ヶ嶺駅より車で3分。

福島県相馬郡新地町

 駒ヶ嶺城より南、国道6号線の一本西側に、6号線と平行して南北に走る道があり、その道の西側に少し引っ込んだ広場があり、その奥に左写真のような碑が建立されています。
 また、この碑の裏(一段高台になっている場所)には戦死者の名前が刻まれた碑と戦没者墓があります。


 
 <戦死塚>
 この駒ヶ嶺の戦いで戦死した仙台藩士の戦死塚。
 上記写真の碑の裏、高台の端にひっそりと雑草に埋もれながら建っています。すぐ左隣には戦死者の名前が刻まれた碑が建立されています。
 <戊辰戦没者碑>
 この駒ヶ嶺の戦いで戦死した仙台藩士の名前が一人ひとり刻まれた板碑です。だいぶ風化が激しくなってきていますが、なんとか名前を読み取る事が出来ます。

 この駒ヶ嶺は、仙台藩にとって相馬口の最前線となるべき場所で、仙台藩士をこの場所に総督石田正親を筆頭に二千人を派遣。駒ヶ嶺領主宮内長十郎の手勢も防戦に努めたが、激戦むなしく新政府軍にこの駒ヶ嶺を奪われてしまう。この戦いでの戦死者60名以上、負傷者も80名以上という大敗であった。






駒ヶ嶺城(臥牛城)



⇒駒ヶ嶺城への交通
交通⇒JR常磐線駒ヶ嶺駅より車で4分。
拝観自由/入場無料

福島県相馬郡新地町駒ヶ嶺字舘

 上の写真のように牛が寝ている姿に見える為、別名「臥牛城」とも呼ばれる駒ヶ嶺城。
 戊辰戦争の際には仙台藩の相馬口の最前線となった場所で、領主は宮内長十郎。8月11日に激戦が始まり多くの戦死者を出して仙台藩はこの地を新政府軍に奪われ、その後16・20日と奪還戦に出るも多くの戦死者を出したが、奪い返す事が出来ないまま終戦を迎えた。
 しかし、この戦いの裏で仙台藩首脳陣の間では降伏する方向で動いており、この駒ヶ嶺・旗巻峠の戦いは無駄な戦いであったと言わざる得ないものであった。
 
 <駒ヶ嶺城(臥牛城)>
 細い山道(右写真のような)を登っていくと、開けた場所に出ます。そこが本丸跡で、そこには説明版と宮内氏の碑が建立されています。途中途中には堀跡などが残されて居たりします。







旗巻峠

 

⇒旗巻峠への交通
JR常磐線相馬駅より車で20分

福島県相馬市/宮城県伊具郡丸森町
 福島・宮城県道228号線は、福島県相馬市から宮城県丸森町まで走る県道で、途中に「旗巻峠」という峠があり、ここは戊辰戦争の際に激戦が行われた古戦場です。
 現在は古戦場公園として整備され、碑や戦死墓・砲台等が点在しています。

 公園内には、この付近の戊辰戦争関係の史跡(戦死墓)や古戦場跡、本陣跡などをしるした大きな地図看板があるので、戦死墓を廻るときには地図看板を参照にしよう。

 <旗巻峠>
 現在旗巻峠は整備されていて、綺麗な公園となっています。
 広い駐車場に車を置いて、上に少し上がると広場があり、そこにいくつかの碑が立っています。
 
 <明治戊辰戦死者供養碑>
 この旗巻峠は仙台藩の相馬口の最前線として、総督に鮎貝太郎平を筆頭に二千人が陣をはり、16日駒ヶ嶺口の石田勢と連携して相馬の中村城を攻める予定であったが、当日細谷十太夫の隊は旗巻峠を出発したが、途中敵軍に阻まれ連携に失敗。19日、20日の戦いでやはり旗巻峠口も大敗を期し、戦死70名以上、負傷者百数十名を出した。
 しかし、この戦いの裏で仙台藩首脳は降伏に傾いており、いわば無駄な戦いであったというべき戦いであった。
 <旗巻古戦場之碑>
 「旗巻古戦場之碑」文字は「からす組」で有名な細谷十太夫の筆。
 佐藤宮内率いる小斎勢が相馬領に攻め入って奮戦した。
 
 <旗巻古戦場仙台藩士戦死塚>
 ある本では左写真を「庄内藩戦死者墓」と記してますが、この墓の案内板には「戦死塚には記録によると、明治元年戊辰戦争時の仙台藩の戦死者が埋葬されている。庄内藩との係わりについては確認されるものはない」としているので、庄内藩戦死者の墓かどうかは不明。
 <旗巻古戦場仙台藩士戦死塚
 右写真の戦死塚には、戊辰戦争の旗巻峠の戦いで戦死した仙台藩士15名が埋葬されているものである。



 

左「南砲台跡」、右「北砲台跡」