桑名城址(九華公園)

⇒九華公園(桑名城址)への交通

JR関西本線・近鉄名古屋線桑名駅東口より
三交バス市内循環A10分、本町より徒歩5分

入園
無料/園内自由

三重県桑名市吉之丸

 現在この九華公園に城の遺構としては、辰巳櫓を含め櫓が数箇所残されている程度で、完全に公園となっていて殆ど当時を偲ぶ遺構は残っていません。淋しい…。どうやら了順寺に城門が移築されているそうですがまだ未見です"o(-_-;*) 

 

 
 <桑名城址>
 関が原の戦いの翌年1601年に徳川四天王の一人本多忠勝によって築かれ、揖斐川を利用した水城であったという。天守閣は四重六層の勇壮なものであったが、1701年の大火で焼失、以後は再建されなかった。
 桑名藩は旧幕府方に付き、藩主松平定敬は東北地方を転戦し、最後は五稜郭で降伏しました。その間に国元は新政府軍に降伏し、無血開城して市内は兵火を免れました。その後明治4年に桑名城は取り壊され、石垣は四日市築港の資材とされました。
 
 <精忠苦節碑>
 明治23年に建立された森陳明の忠魂碑。
 戊辰戦争の責任を負って自害した藩士。(詳しくは十念寺にて☆)
鎮国守国神社の前の植込み内にあるので、ちょっと解りづらいです。その直ぐ脇に上写真の「桑名城跡」の碑が。
 
 <戊辰殉難招魂碑>
 鎮国守国神社境内の裏手にある「戊辰殉難招魂碑」結構草ボウボウの道を歩いて、天守閣跡の石垣(どうやら石垣は当時のモノではないらしいです)の上にこっそり立ってます。
 撰文は幕末藩主松平定敬で、建立は明治20年。碑文は
 「忠哉義哉桑名王民守節取義各殉其難郷党追慕建碑招魂/
   嗚呼忠節永照千春明治二十年十二月 正四位松平定敬撰并書」
 
 <辰巳櫓の大砲>
 辰巳櫓は桑名城の東南隅にあり、三重櫓であった。元禄14年天守閣が焼失し、再建されなかった為、以後はこの辰巳櫓が桑名城のシンボル的存在であったという。
其の為、戊辰の際には新政府軍に桑名城落城のしるしとして焼き払われました。
 辰巳櫓の上に現在ある、←写真の大砲は由来不明。
 
 <鎮国守国神社>
 天明4年白河城内に松平定綱を祀ったのが始まりで、文政6年白河より桑名へ移封されるに伴って桑名城本丸に移った。のち松平定信をも祀り、明治維新後暫く本丸の外に移っていたものの、明治40年に本丸跡の現在地に移った。
 大正8年に現拝殿が完成し、昭和9年に楽翁公百年祭記念宝物館が完成したもの。
 現在の『鎮国守国神社』の石鳥居は、高木貞作の寄進によるもの。






食事処 「柿安グルメプラザ」

 
 <柿安>
九華公園北口脇にある柿安グルメプラザ内レストラン。
柿安は全国に店舗を持つ精肉チェーン店で桑名はその本拠地、この店舗は柿安のスーパー内に併設されたレストランで、比較的安価で美味しい料理が頂けます☆
右写真は黒毛国産和牛すきやき。他にも桑名名物の蛤を使った「蛤ラーメン」や珍しい「しゃぶしゃぶラーメン」等もあります。
公式HP⇒http://www.kakiyasuhonten.co.jp/


食事処 「はまぐりプラザ」

⇒はまぐりプラザへの交通
桑名駅より
桑名市内循環バスで「赤須賀バス停」下車徒歩1分

営業時間 11:30〜13:30(昼のみ)

三重県桑名市大字赤須賀86−21
 
 <はまぐりプラザ>
 地元漁業組合の営業する『はまぐりプラザ』で、『桑名の焼蛤』は江戸時代から焼蛤で知られており、『本朝食鑑』(1697)には、桑名の蛤は上質で味がよいとあります。また、「その手は桑名の焼蛤」ということわざは、「その手はくわない」をしゃれていったものです。 リーズナブルに美味しい蛤が堪能できるオススメのお店。
公式HP⇒http://www.intsurf.ne.jp/~hamaguri/



法盛寺

⇒法盛寺への交通
桑名駅より「法盛寺前」バス停下車
拝観自由/入場料無料

三重県桑名市萱町93

 本堂左の墓地を一生懸命探してたんですが、古い所有者不明墓石ばかりで諦めかけていたら、本堂右側にある囲いの内に近年の墓石が並んでいる奥に古めの墓がある箇所があり、その近くの一段高い場所に高木家の墓域があり、その中でも新しい「高木家之墓」が貞作の墓。墓石脇には「貞作 八十六才 昭和八年一月十四日歿」と記されています。
 <高木貞作墓>
1848年11月23日に桑名で生まれ、桑名藩家老の服部半蔵と酒井孫八郎の従兄弟。慶応4年時21歳。同年閏4月3日に、桑名藩家老であった吉村権左衛門を山脇隼太郎と共に越後柏崎で暗殺。 暗殺後は姿を隠し、高木は神戸四郎と変名し、衝鉾隊に入隊会津で桑名軍に合流し、一旦庄内で降伏するが、 桑名へ戻れば暗殺した吉村家から仇討ちに逢うかも知れない事を案じ、山脇と共に僧侶の姿をして、箱館にいる定敬を訪ねる為脱走。 しかし箱館に着くものの、既に定敬は箱館を出た後で、 二人は新選組に属して、箱館戦争に参戦。 降伏後、東京へ護送され、身柄を桑名藩に引き渡された。その後、桑名には戻らず、明治3年渡米。帰国後は後森有礼等と共に、商法講習所(現、一橋大学)の創立に参加、明治11年には東京の第十五国立銀行(現、三井住友銀行)に入り、同15年には横浜正金銀行(現、三菱東京UFJ銀行)へ移り、同25年から27年までニューヨーク出張所主任等を歴任し、明治31年1月に依願退職し、昭和8年1月14日に86歳で東京府玉川村で亡くなりました。






十念寺

⇒十念寺への交通
桑名駅より「法盛寺前」バス停下車、徒歩約3分
拝観無料/境内自由

三重県桑名市伝馬町53番地
 慶長の町割によって、現在地に移転。道路を隔てた西側の墓地には、森陳明(常吉)の墓がある。
 本堂左に墓地が広がっているが、その中ではなく、更に其の奥の出口を出て、道挟んだ向かいの墓地に入って直ぐ右に森家の墓域があり、案内板が出ているので解りやすいです。寺の門前にも大きく「桑名義士森陳明翁墓所」との(上写真)石柱が立っています。
 <森陳明(常吉)墓>
 文政9年〜明治2年11月13日。諱は陳明。弥一左衛門とも。桑名藩士小河内殷秋の長男として生まれ、伯父の森陳功に嫡子が無かった為養子となり森家を継ぐ。万延元年には大目付に進み、松平定敬の京都所司代就任により公用人一席となり、慶應4年1月の鳥羽伏見の戦いを経て江戸に帰還し、5月の彰義隊の戦いに藩士を率いて参戦するが敗走し、仙台に向かって定敬と出会う。
 9月中旬に脱藩し森常吉と変名し新撰組に入隊し、蝦夷渡航直後の明治元年10月24日の七重村の戦いで負傷する。明治2年4月頃の編成で頭取改役になる。新撰組の隊長格として奮戦し、5月15日弁天台場で降伏。弘前の薬王院に収容されたのち東京へ護送され、10月17日入牢。11月13日に桑名藩へ引き渡され、深川の藩邸で主戦派藩士の責任を負って自刃する。享年44歳。 辞世の句は、
  「うれしさよ つくす心の あらわれて 君にかわれる 死出の旅立」
 「なかなかに おしき命に ありなから 君のためには なにいとふべき」






顕本寺

⇒顕本寺への交通
桑名駅より「萱町」下車徒歩3分
拝観自由/境内無料

三重県桑名市萱町2248

 服部半蔵正義の墓がある寺。
 顕本寺本堂右脇に墓地が広がり、その奥に無縁仏の墓石が纏められている箇所があり、其の中に服部正義の墓が独立して建立されています。
 
 <服部半蔵正義墓>
 忍者で有名な「服部半蔵」の子孫で、十二代目正義は
弘化2年9月29日に生まれ。服部半蔵正綏の長男で、酒井孫八郎の異母兄。慶応元年、21歳にして家督を継ぎ、桑名藩家老となる。 京都所司代であった為、京都にあって藩主を補佐した。そして慶応3年の藩政改革で軍事総裁となりました。慶応4年1月、鳥羽伏見の戦いに参戦、敗戦後江戸を経て、越後柏崎に行き、柏崎で軍制の立て直しがなされ、改めて御軍事総裁となり、桑名軍全体を指揮。その後長岡、会津を転戦。9月26日に庄内で降伏。東京へ護送された後、明治2年4月5日に桑名に戻り十念寺にて謹慎。明治2年8月桑名藩の再興が許され、12月には半蔵たちの謹慎も解か、その後桑名藩大参事や第三大区長などを務め、明治19年に桑名にて歿する。享年42歳。