妙法院

⇒妙法院への交通

拝観不可(通常非公開、時折特別公開が行われる)
京都駅からバス・東山七条下車、または京阪電鉄七条駅下車徒歩5分

京都府京都市東山区妙法院前側町447

 天台宗、南叡山。世界遺産。慶長11年(1606)比叡山延暦寺の別院として、比叡山に創建されていたが、後白河法皇が移築し、南叡山妙法院と号したと伝わる。尊性法親王が入寺して以来、門跡寺院となり天台宗三門跡の1つに数えられ、慶長19年(1614)現在地に移ったといわれている。
 文禄4年(1595)の建立で、豊臣秀吉縁の庫裡は、国宝に指定されており、他にも本尊(秘仏)など多くの重要文化財を所有している。

 また、幕末の八・一八の政変の折には、妙法院の宸殿で七卿都落ちの謀議がされ三条実美ら七名の過激公家は長州へ西下した場所。
 境内に七卿都落ちの碑「七卿西竄記念碑」が建てられています。

 

方広寺

 

⇒方広寺への交通


市バス博物館三十三間堂前から徒歩5分

拝観時間:本殿のみ午前9時〜午後4時
本堂拝観料:大人200円・中学以下100円

京都府京都市東山区大和大路正面

 秀吉が奈良東大寺の大仏殿を模して建てたものです。大仏は奈良の大仏より大きいものであったといわれていますが、地震で破壊され、その後再建されたものも災厄によって失われ、今では大仏も大仏殿もなく、残っているのは豊臣家を滅亡させる口実となった大鐘が残っているのみです。
 「国家安康 君臣豊楽」の鐘

 この鐘は高さ4.5m、口径2.8m、厚さ3cm、重量82.7トンあり、京都三条釜座の釜師、名越三昌の手によって造られ、銘文は東福寺塔頭の天得院住職、文英清韓によって書かれました。

 この大鐘、家康が秀頼と淀君に勧めて再興させた大仏とともに鋳造したものですが、そこに刻まれた「国家安康君臣豊楽」の銘が「家康の名を2分しているのは、家康の首と胴を切り離すつもりで、国安らかに豊臣を君として子孫繁栄を楽しむ」意味だと金地院崇伝の入れ知恵で家康が言い掛かりをつけ、大阪冬の陣が起きるきっかけとなったものです。

 雨の夜には鐘の内側に秀頼を抱いた淀殿の亡霊が白いシミになって現れると言われています。 本堂を拝観すると、鐘楼に入れ、鐘を近くで見ると、問題の銘文が左写真の通り白線によって、囲まれていますので、すぐに発見出来ます。

 

耳塚

 

 「耳塚」

 耳塚とは秀吉による2度目の朝鮮侵略の際に出された「鼻切り令」により、軍功の証として虐殺した朝鮮の人の鼻を削ぎ、塩漬けにして樽に詰められ京都に送られてきたものを埋め塚にして1598年秀吉が命じ、相国寺の西笑承兌が供養の導師として法要を営んだものであるが、西笑承兌たちの供養は明らかに虐構であり「戦勝」の見せしめとして行われたものであるが、実際にはこの無謀、無益且つ無意味な戦争は両国の大きな犠牲と怨恨という深い溝を残したまま、日本軍の敗戦とゆう形で終わっている。

 

戒光寺墓地

 

 
 「高台寺党・油小路の変犠牲者墓」

 戒光寺は1228年(安貞2年)開基曇照が現在の京都市南区八条に南山律宗の戒光寺を建てたのが始まりとされる。
応仁の乱で兵火に焼かれ、一条小川(現同市上京区)に再建。
1645年後水尾上皇の意志で泉涌寺に移されて塔頭となった。
 本堂には運慶、湛慶父子の合作の釈迦如来像があり、首から上の病、胃、腸 等の御祈祷で有名。

 この戒光寺の本堂より下って即成院脇の墓地が戒光寺の墓地で、新撰組より分派し、油小路にて惨殺された伊東甲子太郎等高台寺党の墓がある。左より「毛内有之助・伊東甲子太郎・藤堂平助・服部武雄」と並んでいる。

 

那須与一墓

 

 
 「那須与一墓」

 那須与一は「平家物語」で「扇の的」として有名な、屋島で弓矢で沖にならぶ平家の舟に立てられた扇を打ち落とした源氏方の部将。
 なぜ那須与一の墓が「即成院」にあるのかというと、寺伝によれば与市は出陣する途中病に罹ったが、この即成院にお参りした処、平癒し、屋島の戦いで戦功をたてたので、仏徳を感じて出家し、ここに庵をむすび、没したと伝えられている。

 

一力亭

 

 
 「一力亭」

 八坂神社の傍にある一力亭は、
 もともと万亭という名だったのですが、大石内蔵助が豪遊した場所で、仮名手本忠臣蔵によって「一力亭」という名で紹介された所、「一力亭」という名の方が有名になってしまった為変名した所。

 幕末期にも多くの志士が利用し、新撰組の近藤勇などもよく利用したらしい。

 

月真院
⇒月真院への交通

拝観不可(非公開)
宿泊する事が出来ます。(1泊3500円朝食付)

京都府京都市東山区高台寺下河原町

 新撰組からの分派を画策した伊東甲子太郎等は、慶応3年3月に御陵衛士を拝命し、6月からここ月真院を屯所した。
 月真院は高台寺の宿坊であることから、御陵衛士の一派を「高台寺党」と呼ぶ事もあります。慶応3年11月の油小路の変により伊東甲子太郎等が惨殺され、御陵衛士は事実上の壊滅に追い込まれ、薩摩藩邸などに庇護を求め、油小路の変ののち、新撰組はここ月真院に来て遺留品などを全て持っていったとの事。
 月真院は椿の名所としても知られ、境内に「有楽椿」と呼ばれる銘木があり、現在も宿坊として営業しています。

 

 
 「月真院本堂」

 新撰組から分離した伊東甲子太郎等御陵衛士(高台寺党)が屯所として使用した場所で、高台寺の宿坊である。

現在も当時のまま残されており、宿としても安い値段で泊まる事が出来る。(但しクーラーなどは無し)

 

左上より「伊東甲子太郎居住の部屋」「藤堂等居住の部屋」、
下「1階の土間への窓」(新撰組が襲って来た時に逃げられるようにらしい…)

 

明保野亭跡

 

 
 「明保野亭跡」

 清水寺に続く産年坂にある阪口の丁度裏手にあたるここら辺が明保野亭跡になります。

 池田屋事件の跡、浪士探索に当たっていた武田観柳斎と会津藩士が踏み込んだ際、逃げ出した浪士に会津藩士柴司が斬りつけた所、土佐藩士であった事が判明し、被害者の麻田が自害した為に、責任をとり柴司も自害してしまった事件の現場。

 

月真院
⇒翠紅館跡への交通
JR京都駅より206番バスで15分東山安井下車。徒歩5分
霊山護国神社への「維新の道」沿い右側

懐石「胡廬庵」 26,250円(税込・サービス別)
松花堂15,000円(昼膳) 京舞8,000円(昼膳)・・・他

京都府京都市東山区高台寺南門通り 
公式HP⇒
http://www.kyoyamato.com/index.html

 天保年間に、公家の鷲尾中納言が「翠紅館」と命名、居住し、その後、西本願寺に寄進、しばらくは西本願寺の別邸として使用された。

 そして文久3年1月27日、武市半平太、井上聞多、久坂玄瑞ら多数が集まり、さらに6月17日には桂小五郎、真木和泉守ら各藩の代表者が集まり、攘夷や討幕などの具体的方策を検討。これが世に言う「翠紅館会議」です。 太平洋戦争で全てを焼失、昭和21年に大和屋を再開し、昭和24年に「京大和」を開業し、京料亭として現在も営業しています。

 

正法寺

 

 「正法寺本堂」

 平安遷都の頃の延暦年間に最澄が創建。当時は霊山寺と号していた。室町時代に入って、国阿上人が入山して正法寺と改めた。往時は数十の塔頭が並ぶ大寺院であったが、現在は本堂などわずかな建物を残すのみである。

市バス 80、202、206、特206、207系統「東山安井」「清水道」よりそれぞれ徒歩10分。霊山護国神社を過ぎた「維新の道」を登りきった左の石段上。(境内自由)

 
 「品川弥二郎墓」

 本堂脇を抜けて、奥の墓地の中頃左にひっそりと妻の墓と共にある品川弥二郎の墓。
 天保14年閏9月29日〜明治33年2月26日足軽の子に生まれ、吉田松陰の松下村塾に入門する。禁門の変には八幡隊を率いて戦い、8月には山田等と御楯隊を結成。元治元年の功山寺の挙兵に参加し小郡代官を大田・山田等と急襲し、更に庄屋同盟を結成させクーデターを援ける。戊辰戦争では奥州・箱館を転戦した。 「宮さん宮さん〜」のトンヤレ節の作詞者でもある(らしい)。
 戊辰後は仏英独を遊歴して9年帰朝する。内務少輔・農商務大輔・駅逓総管兼任後 、ドイツ駐在特命全権公使、宮中顧問官、第一次松方内閣内務大臣となるが、翌年選挙干渉を非難されて辞任。枢密顧問官となる。その後は信用組合の設立の尽力した。

 

 

霊山護国神社

 

 創立は明治元年、嘉永6年以降の志半ばに斃れた維新志士の慰霊の為に、彼等を祀って創立された神社で、祭神は現在73011柱であって、古くは天誅組の中山忠光卿を始めとし、梅田雲浜、来島又兵衛、久坂玄瑞、寺島忠三郎、入江九市、坂本竜馬、中岡慎太郎、吉村寅太郎、平野国臣、宮部鼎蔵等であり、のち日清、日露、満州、支那、大東亜の各戦役の戦没者を合祀し今日に至る。

JR京都駅、京阪四条駅、阪急河原町駅より市バス祇園方面「東山安井」下車徒歩10分

京都市東山区清閑寺霊山町1

公式HP⇒
http://www.gokoku.or.jp/

 

 
 「坂本竜馬・中岡慎太郎墓」

 

左「池田屋事件殉難者墓」/右「古高俊太郎墓」

 

左「宮部鼎蔵墓」/右「松田重助墓」

 

左「入江九一墓」/右「寺嶋忠三郎墓」

 

左「久坂義助墓」/右「来嶋又兵衛・高杉晋作墓」

 

左「岡田半蔵墓」/右「徳蔵(河上弥一従者)墓」

 

左「吉村寅太郎墓」/右梅田雲濱墓」

 

左「天誅組隊士墓」/右「中井正五郎墓」

 

左「横井小楠墓」/右「河上彦斎墓」

 

左「木戸孝允(桂小五郎)墓」/右「幾松墓」

 

左「元治元年七月十九日戦死者埋骨塚」/
右「大村益次郎(村田蔵六)墓」