宝鏡寺

⇒宝鏡寺への交通

拝観期間:春(3月)と秋(11月)のみ拝観可10:00〜16:00
入場料:無料
京都市バス「堀川寺之内」下車すぐ

京都市上京区寺之内通堀川東入
公式HP⇒
http://www.hokyoji.net/index.htm

 景愛寺第六世でありました光厳天皇皇女華林宮惠厳禅尼が宝鏡寺を開山し、後光厳天皇より宝鏡寺の号を賜わり、その後多くの皇女が歴代となり、百々御所という御所号も賜った寺で、室町時代には、あの日野富子と足利義政との間の息女も住職として入り、幕末の頃には、皇女和宮もよく遊びに来ており、又桂御殿普請中はここに桂宮と住まわれた場所。
 その為、日野富子や和宮縁の品が寺に展示されています。

 

 

白峰神宮

⇒白峰神宮への交通
市バス堀川今出川下車すぐ
地下鉄烏丸線今出川駅下車徒歩8分
拝観自由/拝観無料
京都市上京区今出川通り堀川東入る飛鳥井町261番地
公式HP⇒http://www10.ocn.ne.jp/~siramine/index.html
 祭神は崇徳天皇と淳仁天皇。保元の乱で敗れた崇徳上皇は讃岐に流され、後白河朝廷への激しい憎悪を顕わにし「我魔性となり王を奪って下民となし下民をとって王となし、この国に世々乱をなさん」と呪詛したという。兎角、崇徳上皇の死後、大火、妖星出現、源平騒乱、平清盛の怪死など、上皇の呪詛だという噂は絶えず、源頼朝や後白河法皇も怨霊慰撫を繰り返したという。 
 さて、この白峰神宮は幕末、京都の治安が悪化した事を受け、孝明天皇は崇徳上皇が尊攘派に味方しない様白峰神宮建立を幕府に命じたモノの間も無く崩御し、その後明治天皇が戊辰戦争の最中である慶応4年8月に崇徳上皇が旧幕府軍の味方をしない様、改めて建立したものである。 同じ祭神でありながら、建立の目的が当初と真逆になってしまったという逸話の残る神宮。現在はスポーツの、特に球技にご利益がある事で知られる神社でスポーツ選手がよく御参りする神社。

 

 

薩摩藩邸(同志社大学)

 

 
 <同志社大学>
 1875年に同志社英学校として旧安中藩士新島襄が旧会津藩士山本覚馬によって設立されたキリスト系私立学校で、1888年「同志社学院」と改称する。
 当初大阪に設立する予定であったが、権知事の渡辺昇に木戸孝允を通じて頼み込むも、「聖書を教える事」と「外国人宣教師を雇う事」
を反対され、今度は京都の権知事槇村正直と会い、槇村は英学校設立には乗り気であったが、やはり聖書と宣教師は難色を示した。しかし、山本覚馬の協力によって設立出来た。
 この卒業生には徳富蘇峰・徳富蘆花等がおり、新島襄が亡くなった後、山本覚馬が臨時総長ともなっている。
 
 <薩摩藩邸跡>
 この同志社大学の地は、元は薩摩藩邸であった場所で、明治になってから安く売りに出されていたのを山本覚馬が購入した場所で、薩摩藩邸は山本覚馬自身が戊辰の頃幽閉されていた場所であった。
 新島襄に神学校の話を持ちかけられた覚馬は、この旧薩摩藩邸であった自らの土地を新島に提供し、この地に後の同志社大学が建立されたのである。

 京都府京都市上京区烏丸通今出川上る東側(同志社大学西門前)

 

 

相国寺

⇒相国寺への交通
京都市営地下鉄今出川駅1番出口→徒歩7分
拝観時間:境内自由(特別拝観時受付10〜16時)
拝観料:境内無料(特別拝観時/一般800円中高生700円)

京都府京都市上京区今出川通烏丸東入ル相国寺門前町701

 足利義満が1392年に室町幕府の東側に創建。夢窓疎石を開山とし京都五山の第2位となった。何度も火災や戦乱で焼失し、現在の建物は1605年豊臣秀頼の寄進をうけ5度目に再建された建物である。
 この相国寺の墓域には、戊辰戦争での長州藩の戦死者の墓や藤原定家や足利義政・伊藤若冲の墓がある。
 
 <長藩士戦亡霊塔>
 
元治元年7月19日に禁門の変において鷹司邸附近で戦い、破れた長州藩士の戦死者約200余名のうち,湯川庄蔵,有川常槌ら20数名がこの地に葬られた。
 この墓(碑)は明治40年9月に建立されたものである。
 
 <藤原定家・足利義政・伊藤若冲墓>
 藤原定家は1162年に藤原道長の玄孫、藤原俊成の子として生まれた。歌道家として名を馳せ、『新古今和歌集』、『新勅撰和歌集』を撰進した事でも有名。
 足利義政は室町幕府八代将軍で、正妻に悪女と云われる日野富子がいる。この義政と富子との間に生まれた義尚
時期将軍にと望む日野富子が山名氏に協力を頼み、義政の弟義視が細川氏に協力を頼んだ事で応仁の乱が起こった。また、義政は銀閣寺を建立した事でも知られる。
 伊藤若冲は1716年京都の青物問屋に生まれ、23歳で跡を継ぐが、絵を描く事以外まったく興味を持たず、40歳で家督を弟に譲り絵画三昧の日々を送り、数々の名作を残している。

 

薩摩藩戦死者墓

 

 
 <甲子役・戊辰役 薩藩戦死者墓>
 
相国寺塔頭林光院の墓所。
 禁門の変や及び鳥羽伏見の戦などで戦死した薩摩藩士72名が葬られている。この墓石は栃木や白河・会津などと同型であり、土台の石には、戦死した藩士の名前が記載されている。

 

 

蛤御門

⇒蛤御門への交通
地下鉄烏丸線、丸太町駅あるいは今出川駅下車。
市バス、烏丸丸田町あるいは烏丸一条で下車。
拝観自由/見学無料

京都市上京区京都御苑
 <蛤御門>
 御苑の周りには、九門と呼ばれた公家町と市中の境界であった九つの御門があり、この蛤御門は、もとは新在家御門と呼ばれ常に閉ざされていましたが、宝永の大火の際に初めて開門されたことから「焼けて口開く蛤」にたとえられ「蛤御門」と呼ばれるようになった。
 文久3年8月18日にあった八・一八の政変を不服とした長州藩士達が池田屋事件をきっかけに京へ大軍を進軍させ文久4年7月19日御所を守備する会津藩・薩摩藩等と戦闘になった、中でも一番の激戦であったのがこの蛤御門であった事から、後に『蛤御門の変』とも呼ばれた。この蛤御門は一瀬伝五郎が守備していた。

 

蛤御門扉の残る銃弾の跡

 

 

堺町御門

 

 
 <堺町御門>
 元々この堺町御門は、長州藩が九門警備で担当していた所であったが、八・一八の政変によりその担当を外された。
 蛤御門の変の際には「越前藩」が受持っていた。
 蛤御門の戦いの際、上京してきた井深隊と交代して、留守隊であった生駒直道が黒谷から応援に出陣し、直道はこの堺町御門より凝華洞前に集結し、蛤御門の応援に駆けつけた。
 この堺町御門でも久坂等と会津・桑名藩等との激戦が行われた。

 

 

鷹司邸跡

 

 
 <鷹司邸跡>
 蛤御門の戦いの際、堺町御門で激戦を行っていた久坂玄瑞等と会津・桑名・薩摩藩等と激戦が行われ、負傷した久坂や寺島忠三郎は近くにあった鷹司邸に逃げ込み自害して果てたのである。そして此処から放たれた火は京都の町の半分近くを焼き尽くしたのである。

 

 

学習院跡

 

 
 <学習院跡>
 
孝明天皇は、1847年にこの地に学問所を建て、40歳以下の公卿や、御所に勤めている役人及びその子弟を集めて学問を教える事にしまし、学習院と呼ばれるようになりました。
 国学や歴史が教えられ、幕末期には、長州派公家達と、桂小五郎や久坂玄瑞、高杉晋作、平野国臣等尊攘派の志士と面会する場となっていった。

 

 

建春門

 

 <建春門>
 この建春門前では文久3年7月30日に
会津藩が天覧馬揃を行っています。当初は28日の予定で「雨天ならば順延せよ」との勅命であったが、28日から雨が降り止まず、30日になっても降り止まない事から順延の伺いをたてると、伝奏衆より「旧の出陣の時は時日を選ばず、雨や雪、夜間であっても躊躇すべきではない」と達しがあり、急遽決行する事となり、藩主容保は命を下し黒谷を出発し、御所の西北を巡り建春門の北数十歩の練兵場に出た。高所に帝・公卿・諸侯が左右に分かれて天覧所を設けていたが、その頃には既に日は暮れ、松明を焚いていたが、暗さと雨で見えづらく、日を改める事となった。
 尚、翌日帝より「馬揃え叡覧の儀、雨天に候わば日送りのはずに候ところ、俄かに御覧あそばさるべき旨仰せ出され、いささかの差し支えもなく大軍火急に差し出し候段、かねて武備充実、行届き候段、深く叡感思し召され、じつに御頼母しく思し召し候。よって目録の通り下賜候事。
  御目録 大和錦二巻 白銀ニ百枚」
という恩賜を拝した。

 容保は謹んでこれを拝戴し、賜った銀を士卒に分け与えた。
 そして、8月5日に改めて馬揃を催して天覧に供した。その儀は全て30日の時と同じである。その際、容保は前日に賜った大和錦を陣羽織に仕立てたモノを着て軍隊を指揮したのである。

 また、蛤御門の変の際は、容保の暗殺を狙う長州藩士が唐門に銃手を潜ませていたが、容保はこの日建春門、北穴門から参内した為難を逃れたのである。
 <京都守護職始末より>

 

 

和宮誕生の地

 

 
 <皇女和宮誕生の地>
 
御所の東の松林の中に『皇女和宮生誕の地の碑』がひっそりと建っている。
 和宮は父が仁孝天皇、母は橋本経子で、孝明天皇の妹として弘化3年にこの地で生まれた。ここは和宮の実家である大納言橋本実久の屋敷跡である。
 松林の奥にひっそりとあるので、見落とし勝ちなので注意。

 

 

猿ヶ辻

 

 <猿ヶ辻>
 御所の東北東の角を猿ヶ辻という。東北東の方角は風水でいう鬼門である。その為、あえて一角を削って入隅を作っているのである。 文久3年5月20日、この猿ヶ辻で姉小路公知が暗殺された。 姉小路は元々は急進的な攘夷論者で三条実美と共に長州派公家の代表的存在であってが、文久3年4月幕府の順動丸に乗船し勝海舟の接待を受け海防の説明を受け、坂本竜馬から蒸気船の模型を貰うなどし、猪突猛進な攘夷論ではいけないと悟る。その為過激攘夷論者からは「裏切り者」と目されていた。現場に残されていた刀と下駄で、下手人は薩摩藩の人斬り田中新兵衛と目されたが、田中新兵衛
沈黙のまま自害して果てた為真相は闇に葬られた。

 

 

祐井

 

 
 <祐井>
 
京区京都御苑東北隅に立つ。京都御所東北隅,いわゆる猿ケ辻の斜め向いに板塀で囲まれた一画があり,その東半部に碑と「祐井」と命名された井戸がある。
 この地は明治天皇の生母一位局の実家中山家の跡地で,嘉永6年夏の日照りの際に井戸を掘ったところ清水が涌き出た。
 前年に生れ中山邸で養育されていた明治天皇の幼名である「祐宮」から孝明天皇が井戸を「祐井」と命名したものである。
 この井を明治天皇産湯の井と諸書に記すのは碑文による限り誤りである。

 

 

清浄華院

 

⇒清浄華院への交通
京阪・叡電 出町柳駅より徒歩10分
JR京都駅・京阪 三条駅よりより市バス
拝観自由/見学無料

京都市上京区寺町通広小路上ル北之辺町395

 清浄華院は、一般には浄華院と呼ばれ、浄土宗7大本山の1つで、貞観2年、時の天皇である清和天皇の勅願により、天台宗の慈覚大師円仁が京都御所内に禁裏内道場として建立したのが始まりである。
 墓地には、御陽成・後水尾・孝明天皇等の皇子・皇女の墓があり、玉松操や姉小路公知の墓などもある。
 
 <玉松操墓>
 幕末期の国学者で、公卿山本公弘の二男として生まれる。幼くして醍醐無量寿院に入るが、1839年還俗して玉松操となる。慶応元年頃から岩倉具視と結びついて王政復古工作を画策し、王政復古詔勅案を作成した。(俗に錦の御旗もこの玉松の図案によるという)維新政権成立後は、
明治3年3月、東京へ出て、大学中博士兼侍讀となる。
 同10月中博士を辞職し京都へ帰り、政界より引退する。
 
 <姉小路公知墓>
 姉小路について詳しくは上の猿ヶ辻の項で述べてしまったのですが…"o(-_-;*) 墓石自体はかなり老朽化が進んでます。しかし、上の玉松の案内板は石柱なのに、何故姉小路は木板…結構目立たないので探しました。

 

 

山崎闇斎邸跡

 

 
  <山崎闇斎邸>

 元和4年(1619年)12月〜天和2年(1682年)9月
 京都で浪人の子として生まれ、幼くして比叡山に入り後妙心寺に移り僧となる。19歳の時に土佐の吸江寺に移り土佐南学派谷時中から朱子学を学び朱子学に傾倒するようになり、1642年還俗する。
 
1665年に会津藩主保科正之によって迎えられ、藩政への助言者としても活躍、正之は山崎闇斎の大きな影響を受け、神儒一致を唱え、朱子学を批判した山鹿素行が赤穂藩に追放される事となった。
 
会津藩の「家訓」も、正之が起草し、山崎闇斎が潤色して定めた。

京都府京都市上京区葭屋町通下立売上る東側

 

 

長遠寺

 

⇒長遠寺への交通
JR京都駅から市バス206番で千本出水下車、出水通を西へ約6分

京都府京都市上京区出水通千本西入尼ケ崎横町371(地図

 古高の墓のある福勝寺のすぐ近くにある長遠寺。脇の扉を開けるとチャイムが鳴ってビックリΣ(|||▽||| )ここには人見勝太郎の墓があるお寺です。
 
 <人見勝太郎墓>
 天保14年に幕臣である人見勝之丞の長男に生まれた勝太郎(寧)はと鳥羽伏見の戦いの起こる直前の慶応3年12月遊撃隊士となり鳥羽伏見の戦いに従軍。その後東帰した前将軍慶喜を警護。慶喜が水戸に移る際に伊庭八郎等と共に脱走し、その後請西藩主林忠嵩等と共に抗戦を続け、榎本脱走艦隊と共に箱館入り。推されて松前奉行となるが、箱館戦争で敗北し降伏。
 赦免後は、西郷隆盛の知己を得て明治政府に出仕し、茨城県令となった後、民間に下り「利根運河株式会社」を設立した。(千葉県流山市に今も利根運河の名残として運河水辺公園がある)

 

 

福勝寺

⇒福勝寺への交通
JR京都駅から市バス206番で千本出水下車、出水通を西へ約6分
拝観自由/見学無料

京都府京都市上京区出水通千本西入七番町323-1

 竹林山と号する真言宗の寺で、はじめ河内国にあったが、鎌倉時代に中興開山覚済上人によって現在地に移された。歴代皇室よりの信仰厚く、後西天皇は左近の桜を分栽されたので、桜寺とよぶ。

 ここには新撰組ファンには馴染み深い「古高俊太郎」の墓がある。

 
 <古高俊太郎墓>
 墓域の中程にある小さめの墓石。新撰組の書籍に必ずと言っても良いほど名前の出てくる人物の割に墓石はこじんまりとしていて案内板も無い。墓石の背面には「元治元子年七月十九日」と刻まれている。

 古高は近江国古高村出身で、攘夷志士として長州間者として情報収集と武器調達に暗躍したが、元治元年6月5日に潜伏していた枡屋に新撰組が踏み込み捕縛され、新撰組の屯所であった前川邸の土蔵で拷問を受け自白。これが池田屋事件に繋がるのである。
 そして、禁門の変の起こった7月20日に六角獄舎にて斬首される。