二条城

⇒二条城への交通
R京都駅から市バス9・50・101号系統「二条城前」下車
地下鉄東西線「二条城前駅」下車すぐ。
拝観時間:午前8時45分〜午後4時(閉城 午後5時)
拝観料:大人
600円・中高生350円・小学生200円

(本丸御殿⇒通常非公開・毎年秋・冬2回10日程度特別公開)

京都府
京都市中京区二条通堀川西入二条城町541番地
公式HP⇒http://www.city.kyoto.jp/bunshi/nijojo/
 二条城は、慶長8年(1603年)徳川将軍家康が、京都御所の守護と将軍上洛のときの宿泊所として造営し、3代将軍家光により、伏見城の遺構を移すなどして、寛永3年(1626年)完成したものです。豊臣秀吉の残した文禄年間の遺構と家康がたてた慶長年間の建築と家光がつくらせた絵画・彫刻などが総合されて、いわゆる桃山時代様式の全貌を垣間見ることができます。
 また、ここは大政奉還が行われた場所でもあります。
 「二条城本丸御殿」
 創建当時の本丸御殿は、広大な規模をもっており、また、本丸には元伏見城の天守・殿舎が移築され、五層の天守閣があったが、寛延3年落雷と天明8年の大火で天守閣・殿舎ともに焼失。その後永らく再建はならず、幕末に慶喜の住居として、本丸御殿が建てられたが、明治14年撤去された。 
 現在の本丸御殿は、元旧桂宮邸の御殿を、明治27年に移築したもの。 この旧桂宮御殿は京都御所にあった当時、皇女和宮が将軍家茂に嫁ぐ前、約1年8ヶ月にわたって暮した縁の建物で、嘉永7年内裏が炎上したときにも延焼を免れ、孝明天皇の仮皇居に使用された由緒深い建物です。

 

京都所司代屋敷跡

 

 「所司代屋敷跡」

京都所司代は譜代大名から選ばれ、待遇は老中につぐ程重職であった。職務は幕府と並ぶ権威をもつ朝廷の監察を中心に京都・伏見・奈良の奉行等を監督、西国大名の監視も行った。また畿内周辺8カ国の天領の訴訟を聞き,社寺も統括した。

 幕末には、所司代が形式上だけのものとなり、尊王攘夷を名乗る浪士達の天誅等により京都の町の治安が乱れた為、所司代の上に「京都守護職」を新設し、この頃所司代は当初長岡藩であったが、辞任しのち会津藩主容保の実弟松平定敬が藩主である桑名藩が所司代となり明治を迎える。

→丸太町通り沿い

 

京都所司代上屋敷跡

 

 「京都所司代上屋敷跡」

 所司代屋敷はその権威に相応しく広壮であり、また二条城を防衛する様な形で展開している。屋敷は上屋敷と下屋敷に分かれ、上屋敷で執務を行った。

 

京都守護食屋敷門

 

 
 「京都守護職屋敷門」

 二条城前の「国際ホテル」の裏側にひっそりと建つ門がある。
 会津藩が京都守護職を命じられ、文久3年に現在の京都市役所にあたる場所に京都守護職屋敷が建てられた。その守護職屋敷の門が左の門で、特に説明書きや石碑等の類は無く、何故ここに移築されているのかは不明。

 

橋本左内寓居跡

 

 
 「橋本左内寓居跡」
 福井藩士。藩医の家に生まれた、橋本左内は大坂の適塾に入門し、蘭医緒方洪庵のもとで学び、嘉永5年、家督を相続し、また、その知識と才能を認められて、藩主松平春嶽に登用され、側近になり、藩政に従事し、また藩主春嶽の政治活動を助けた。

 松平春嶽の幕政改革運動を受けて、公武合体唱え雄藩・幕閣間と交渉に従事し、将軍継嗣問題で松平春嶽と共に一橋慶喜を推したものの、井伊直弼の安政の大獄により藩主春嶽は隠居、実質的な政治行動を行った左内は死罪となった。

 

福井藩邸跡

 

 
 「福井藩邸跡」

 この一帯には越後の福井藩邸があり、藩邸が造られたのは比較的新しく、天保二年の絵図に描かれている。
 この藩邸には、留守居役が詰め、各藩との連絡を取っていた。福井藩は慶長五年に徳川家康の次男結城秀康が封ぜられたのに始まる雄藩で、最高石高は68万石、江戸中期以降は32万石となり、幕末には松平春嶽が藩主となり、幕末政事の中心に立つ事になる。

 

休務寺
⇒休務寺への交通

京都府京都市中京区錦小路通大宮西入ル

 浄土宗のお寺で、境内の墓地には新撰組の屯所となった前川家の当主の墓がある。

 

六角獄舎跡

 

 
 「六角獄舎跡(殉難勤皇志士忠霊塔)」

 「六角獄舎」は二条城の南、東西の町奉行所を 越えた辺りにあった獄舎。 獄舎をいま風に云えば刑務所で、 平安時代には左獄、右獄の二つがあったそうですが、右獄は早くに廃され、左獄のみが維持され、秀吉の命により二条城の東に移されるが、 宝永五年の大火類焼によって二条城の南へ移されます。
 六角獄舎では幕末の頃には多くの志士が囚われの身となっていて、その中に
平野国臣もおりました。平野国臣は西郷隆盛と肩を並べる尊皇攘夷論者として知られる人物で、生野義挙の際捕われ、この六角獄舎に繋がれました。
 しかし、元治元年の禁門の変の大火の際に、当時の町奉行、滝川播磨守具和は獄舎に対して、「火が堀川に及ぶことあらば、重罪人はすべて切り捨てよ」と命じ、その犠牲となった中には平野国臣や古高俊太郎ら池田屋事件の際の捕縛者なども多数いました。

 現在は、この六角獄舎跡はマンションとなり碑のみが残され(マンション建設前は首洗い井戸なども残っていたらしいですが)ています。

 

光縁寺
⇒光縁寺への交通
京都駅より市バス・京都バス四条大宮で下車徒歩3分
阪急電鉄「阪急大宮」下車徒歩3分
拝観料:供養料として100円
拝観時間:9時〜17時

京都府京都市下京区綾小路大宮西入四条大宮町37

 創建は、慶長18年(1613)頃で、天明の大火により焼失した堂宇は再建されて現在に至っている。本堂には本尊として阿弥陀如来像をお祀りしており、浄土宗、知恩院の末寺にあたる。

 家紋が山南と同じ「丸に右離れ三つ葉立ち葵」であり、また屯所からも近かった事から、境内墓地奥には山南敬介をはじめ、多くの新撰組隊士が眠る、 また、「沖田氏縁者墓」も有り。

 
 「山南敬介墓」

 光縁寺の本堂裏の墓地の奥隅にあり、かなり損壊が烈しいく文字を読み取るのも一苦労。

 新撰組のもと副長でのち総長となり禁門の変の後、新撰組を脱走し、隊規違反により切腹して死亡した人物。未だに謎も多く残る人物です。

 
 「新撰組隊士墓」

山南の墓の脇にある合祀墓。
新撰組から分裂した高台寺党との間に交わされた、隊士の移動を許さないという決まりに違反したとして、殺害されたとも自刃したとも言われる茨木司等数名や心中したとも言われる松原忠司等が葬られてます。

 
 「沖田氏縁者墓」

 墓地の隅には沖田氏縁者の墓があり、沖田総司と関係のあった女性ではないかと言われています。戒名は「真明院照誉貞相大姉」。

 
 「大石造酒蔵墓」

 山南や合祀墓の傍に建つ大石造酒蔵の墓。大石造酒蔵は新撰組隊士ではないが兄弟の大石鍬次郎が隊士で、造酒蔵は新撰組隊士と口論になり、
殺害されたものである。
 それが縁で新撰組墓域に建てられていると思われる。

 

新徳寺

 

 
 「新徳寺」(非公開)

 ここは新撰組の前身「江戸浪士隊」が京都について最初に集合した場所で現在も清河八郎が演説した大広間が残されているとのこと。しかし、正月以外非公開だとのこと。

京都府京都市中京区壬生賀陽御所町48
京都駅より京都市バス「四条坊城前」下車5分

 

前川邸

 

⇒旧前川邸への交通
京都駅より京都市バス 四条坊城前下車5分
非公開(入口売店のみ可)

京都府京都市中京区壬生賀陽御所町49

 新撰組の最初の屯所となった場所で、山南啓介が切腹した部屋などが残ります。非公開ですが、屋敷入口の売店で内部の様子を撮した絵はがきを買う事が出来ます。
 当時のままの佇まいを残す長屋門のある建物で現在は(株)田野製袋所となっています。近藤勇ら幹部は前川邸を屯所とし、八木邸は主として平隊士の宿舎となっていたようです。
 旧前川邸の中には、近藤勇の落書きした雨戸、古高俊太郎を拷問したとされる土蔵、山南敬介が切腹した部屋などが残ります。

 

 

「前川邸蔵内部」
左「古高俊太郎拷問に使用された縄」左「縄を吊り下げている滑車」
※共に非公開です。(特別に御縁あって拝見させて頂いたものなので、見学を強制しないようお願いします)

 

八木邸

 

⇒八木邸への交通
京都駅より京都市バス 四条坊城前下車5分
公開時間: 9時〜17時
見学料 :600円(拝観のみ)1000円(お抹茶・京菓子つき)
京都府
京都市中京区坊城通り綾小路下ル
 新撰組の最初の屯所となった場所で、前は非公開だったのですが、現在は内部を一部公開してます。浪士隊のうち近藤・芹沢等は、清川が反旗を翻した事により幕府は浪士隊に江戸帰還を命じるが、将軍守護の初志貫徹を理由に京に止まり、浪士隊の時に割り当てられた八木邸をそのまま宿舎とし、京都守護職預かりとなり、新選組となった後も、慶応元年に新選組が西本願寺へ移転するまで、ここと前川邸を屯所としています。

 芹沢暗殺の部屋やその時についた刀傷や文机なども見学する事が出来ます。また入場券とセットになっている屯所餅と抹茶のセットも美味ですvv屯所餅(餅に壬生菜が練り込んである)甘すぎずちょうど良い甘さvv

 

壬生寺

 

⇒壬生寺への交通
JR京都駅から市バス26・28系統「壬生寺道」下車
公開時間 :境内自由(壬生塚のみ8時30分〜16時30分)
拝観料:境内無料(壬生塚のみ200円/資料館200円)
公式HP⇒
http://www.kyoto.zaq.ne.jp/mibu/

京都府京都市中京区壬生梛ノ宮町

 屯所である八木邸や前川邸から近く、新撰組初期の頃からの墓があり、芹沢鴨等の墓がある。
 また、兵法調練場としても使用され、大砲の音に悩まされたという逸話もあり新撰組と縁の深い寺です。
<壬生寺歴史資料館>
仏像や天皇からの拝領品などの寺宝や、壬生狂言や新選組についての解説をパネルや写真で展示。
(展示物合計約30点の内、新選組関連資料は3点です。)
 
 「芹沢鴨・平山五郎墓」

 新撰組創立当初からのメンバーで八・一八の政変の後、日ごろの素行の悪さから、文久3年(1863) 9月18日に角屋で酒宴を催したのち土方等によって深夜泥酔して寝込んでいる所を暗殺された人物。
(暗殺は、秘密裏に会津藩侯松平容保より示唆があったとする説もあり)
 
 「新撰組隊士墓」

 埋葬されているのは、新撰組初期の頃からの戦死・病死・粛清によって死亡した隊士の合祀墓で、「阿比留栄三郎」「田中伊織」「野口健司」「奥沢栄助」「安藤早太郎」「新田革左衛門」「葛山武八郎」で奥沢・安藤・新田は共に池田屋事件の際、討死、或は重傷の後死亡。野口・葛山は共に隊規違反による粛清。阿比留は病死とも暗殺とも。田中は不明ながら局長であった新見錦の変名という説有り。

 
 「河合耆三郎墓」

河合耆三郎は新撰組会計方で、ある日隊費が合わない事に気づき、実家に頼んで不足分を補おうとしたのですが、実家から届くより先に、土方等の知るところとなり、責任をとって切腹させられた隊士です。
その後、親が不足分を持って屯所に現れ、死んだことを知らされ怒った両親は、親族一同で屯所周りでうるさく騒ぎまわり嫌がらせをした挙句、隊士の墓のある壬生寺境内に豪華な墓を建てたのでした。

 他隊士の墓より一際立派なのは、豪商だった両親が建てたものであったからです。新撰組は、光縁寺に河合耆三郎を埋葬したので、光縁寺の過去帖にも河合耆三郎の名が記されてます。

 

壬生共同墓地

 

 
 「八木為三郎墓」

 壬生寺境内ではなく、境内から外れた所に壬生共同墓地があり、そこに八木為三郎の墓がある。ちょっと共同墓地自体が解りづらいです。

 八木家は新撰組の最初の屯所となった家で、現在でも、当時の建物が残されているが、為三郎は当時はまだ幼い子供であった。
 沖田などによく懐いていたようである。