金戒光明寺

 

⇒金戒光明寺への交通

境内自由(現在特別公開にて虎の間や会津藩縁の品を見る事が出来る〜H16年12月15日まで)
JR京都駅から市バス5番・100番で東天王寺町下車徒歩15分

京都府京都市左京区黒谷町121

公式HP⇒http://www.kurodani.jp/top.html

 法然上人がはじめて草庵をむすんだ地で、十五歳で比叡山に登った法然上人が承安5年(1175年)43歳の時、教えを広めるために、山頂の石の上でお念仏をされた時、紫雲全山にみなぎり光明があたりを照らしたことから この地に草庵をむすんだ場所。
 幕末には、会津藩が京都守護職を拝命し、京都での活動する際の本陣として使用された。
 
 「会津藩墓地」

 金戒光明寺墓域を登って行くと、「会津墓地」の案内が出てくるのでそれに従って進むと約三百坪の敷地に『会津藩殉難者墓地』が有り、文久二年〜慶応三年の五年間の死者と鳥羽伏見の戦いの戦死者150人を祀る慰霊碑(明治40年3月建立)がある。
 墓地には武士のみではなく、使役で仕えたと思われる苗字のない者も、婦人も同様に祀られている。会津松平家が神道であった関係で七割ほどの人々が神霊として葬られている。

 
 「会津藩墓地」

 H16年春時点の会津墓地の様子。秋に整備するとの事。
 整備後どのように変化してしまうのかは不明ながら、整備前の状態を写真として残しておきたいと思う。

 
 「会津藩士・柴司墓」

 柴司は元治元年6月10日、池田屋事件の残党狩りという事で、新撰組武田観柳斎等と共に、東山の料亭「明保野亭」に浪士が潜伏しているという情報を元に捕縛に向かい、そこで誤って土佐藩士「麻田時太郎」に傷を負わせてしまい、事を憂慮した容保は藩医を向わせ命に別状はないと云うことであったものの、当の麻田が武士道を立てるため自刃してしまった為、柴司は藩に迷惑をかけまいと責任を負って自刃したもの。

 
 「鳥羽・伏見淀戦死者道志墓」

 慶応4年1月の鳥羽伏見の戦いで戦死した150人の慰霊碑。白井五郎太夫などの名前が奥の石碑に刻み込まれています。

 
 「山崎闇斎墓」

 山崎闇斎は元和4年京都で浪人の子として生まれ、幼くして比叡山に入り妙心寺に移り僧となる。19歳の時土佐の吸江寺に移り、湘南宋化の弟子となり、土佐南学派の谷時中に朱子学を学び、朱子学に傾倒寛永19年還俗し儒者となる。
 寛文5年には会津藩藩祖保科正之の賓師に迎えられ、藩政にも助言者として活躍。また吉川惟足の影響で神道の研究にも力を入れ、その思想は水戸学・国学に大きな影響を与えた。
 会津藩の家訓も、保科正之が起草した草案を山崎闇斎の潤色させたものである。

 

 

平安神宮

 

⇒平安神宮への交通

JR京都駅より市バス5系統他「京都会館・美術館前」下車すぐ。
参拝時間:6時〜18時00分(夏季)
神苑拝観時間:8時30分〜17時30分(夏季)
拝観料無料(神苑拝観料:大人600円・子供300円)
京都府京都市左京区岡崎西天王町
公式HP⇒
http://www.heianjingu.or.jp/
 平安神宮は平安遷都1100年を記念して、明治28年に第50代桓武天皇をご祭神として創建されました。
 その後、皇紀2600年にあたる昭和15年には、平安京有終の天皇、第121代孝明天皇のご神霊が合わせ祀られました。

明治時代の代表的な日本庭園として広く内外に知られている平安神宮神苑は、ご社殿を取り囲むように東・中・西・南の四つの庭からなっており、その作庭は無鄰庵と同じく「植治」の名で知られる「7代目小川治兵衛」です。

 「京都守護職屋敷表門」

 現在の京都市役所にあった会津藩の「京都守護職屋敷」の表門が移築され、平安神宮敷地内の武道館脇に現存しています。現在この門の前は大型バスのバス駐車場となっており、また京都守護職屋敷表門であった事を示す案内板などもありません。

 

無鄰庵

 

⇒無鄰庵への交通

JR京都駅より市バス5系統「神宮道」下車徒歩8分

拝観時間:9:00〜16:30
入場料/350円 (+300円で庭園を眺めながら抹茶を頂ける)

京都府京都市左京区草川町

 明治27〜29年に旧長州藩士山県有朋によって造られた別荘で、無鄰庵の名の由来は有朋が長州に建てた草菴が隣家のない閑静な場所であったところから、名付けられました。

 明治36年4月21日には、日露戦争直前の外交方針を決める「無鄰庵会議」が行われた場所でもあります。

 

 
 「無鄰庵庭園」

 無鄰庵の庭は、平安神宮の神苑と同じく7代目小川治兵衛の作で、東山を借景に池泉回遊式庭園が広がっています。有朋がこよなく愛したこの広大な庭園は有朋自ら設計・監督を行ったものです。
 また、この庭園は明治時代の名園として国の「名勝」にも指定されており、心が清々しくなる素晴らしい庭園です。

 
 「無鄰庵会議の部屋」

 明治36年(1903)4月21日、元老・山形有朋、政友会総裁・伊藤博文、総理大臣・桂太郎、外務大臣・小林寿太郎等の錚々たるメンバーにより、日露開戦直前の外交方針を決める「無鄰庵会議」がここで開かれました。
 現在その部屋には、今なお花鳥文様の格天井、椅子、テーブルなどがそのまま残されており、当時の様子を図り知る事が出来ます。