松山城址(現:歴史公園)

⇒松山城址への交通
酒田駅よりバス「地見興屋」行きで30分、「松嶺本町」下車、徒歩5分
見学自由/拝観料無料
(資料館)
開館時間:午前9時〜午後4時30分
休館日:月曜日(祝祭日の場合は翌日)12月28日〜1月4日
一般 350円、大学・高校生 250円

山形県飽海郡松山町字新屋敷36−2
 松山藩は庄内藩の支藩で、戊辰戦争では本藩庄内藩と行動を共にし進軍した。代々本藩庄内藩より家老を派遣されており、当時の家老は頭脳明敏として名高い「松森胤保」であった。
 現在、松山城は歴史公園となっており、松山町立歴史資料館と併設されていて、公園内に松山城の城門が保存されており、上の写真がその城門である。大手門は天明二年(1782)建造され、寛政二年落雷のため焼失したものの、寛政四年に酒田の家の寄進により再建されたものです。

 

松森胤保
 文政8年(1825)庄内藩士長坂家の長男として、鶴岡二百人町に生まれ、38歳で家督を継いだ胤保は翌年には松山藩付家老職を命じられ、一族とともに松山に移り住んだ。
 慶応3年、薩摩藩邸焼打ちの松山藩の総大将として活躍。
 また、戌辰戦争時には松山藩1番隊の隊長として、また庄内藩兵の参謀として、秋田角館まで転戦、大活躍した。藩主酒井忠良は、松山を守った胤保に感謝を込め、松山を守るという意味の「松守」の姓を贈るも、それを固辞し「松森」姓を名乗った。
 明治になってからも県会議員や戸長を務め、明治18年、全ての公職を離れ、これまでの研究や著書のまとめに没頭。明治25年、鶴岡宝町にて死去。享年68歳。墓所は鶴岡市禅源寺にある。
 天才、大博物学者、百科全書的人物などと評され、高い評価を受けている人物である。

 

松山城馬出跡土塁