松山城址(現:歴史公園)
『松森胤保』 文政8年(1825)庄内藩士長坂家の長男として、鶴岡二百人町に生まれ、38歳で家督を継いだ胤保は翌年には松山藩付家老職を命じられ、一族とともに松山に移り住んだ。 慶応3年、薩摩藩邸焼打ちの松山藩の総大将として活躍。 また、戌辰戦争時には松山藩1番隊の隊長として、また庄内藩兵の参謀として、秋田角館まで転戦、大活躍した。藩主酒井忠良は、松山を守った胤保に感謝を込め、松山を守るという意味の「松守」の姓を贈るも、それを固辞し「松森」姓を名乗った。 明治になってからも県会議員や戸長を務め、明治18年、全ての公職を離れ、これまでの研究や著書のまとめに没頭。明治25年、鶴岡宝町にて死去。享年68歳。墓所は鶴岡市禅源寺にある。 天才、大博物学者、百科全書的人物などと評され、高い評価を受けている人物である。
松山城馬出跡土塁