三春城(舞鶴城)跡

 

⇒三春城への交通
JR三春駅より「三春清水」行で10分「三春町役場」下車徒歩15分
保健センター脇の坂道を登った上にある。
見学自由/入城無料

福島県田村郡三春町字大町

 標高410mの大志多山の山頂一帯が城跡で、1504年、豪族田村義顕が築城したといわれる。その後、田村氏・松下氏の居城となり、1645年に秋田俊季が五万五千石で入城し、三春藩の本拠地となる。建物は戊辰後に解体、本丸跡が公園として残る。

 メチャメチャ山城で、本丸は頂付近になります。公園散策というより、ハイキング気分かも??

 
 <愛姫誕生の地>
 二ノ門跡脇にある「愛姫誕生の地碑」、三春城主田村清顕の一人娘愛(めご)は、本丸上の段に生まれ、四面楚歌に陥った田村家九歳の絆として、天正7年米沢城の伊達政宗に十二歳で嫁いだ。清顕の死後、甥の宗顕が跡を継いだが、豊臣秀吉の奥州仕置によって改易となった。
 田村家再興を願う愛姫は子の仙台ニ代藩主忠宗の側室房が身ごもったのを夢で知り、夢想の書付を残した。
 愛姫は孫による田村家再興を忠宗に遺言し86歳でこの世を去った。孫は岩沼城主田村宗良、その子は一関藩祖田村建顕である。

 

 

左上より「ニ之門跡」「揚土門跡」、左下「大門跡」「本丸跡」(他にも「三之門跡」「裏門跡」「矢倉跡」などの碑も残る)

 

 

藩校 明徳堂表門

 

明徳堂表門への交通
JR三春駅より「三春清水」行で10分「三春町役場」下車徒歩15分
「JAみはる」の右脇、「三春小学校」の校門として使用されています。
見学自由/見学無料

福島県田村郡三春町字大町

 三春藩の藩校明徳堂は七代藩主秋田倩季によって天明期に創設され、武家子弟の学問武芸の教授にあたった。
 明治4年、講所廃止後は中学校や師範学校、また民権運動家を育成した正道館などに転用された。
 この表門は、寛永年間の建築で、暫く公会堂の門として使用されたが、昭和22年、現在の地に移築し、三春小学校の校門として現在も使用されている。

 

 

紫雲寺

 

⇒紫雲寺への交通
JR磐越東線三春駅よりバス7分。
磐越自動車道郡山東インターチェンジから4.5km
境内自由/拝観無料

福島県田村郡三春町字大町184

 自由民権運動の総帥だった「河野広中」の遺髪を収めた塚があり、大正末期に政府要人が奉納した灯籠が並んでいます。また、三春藩のお家騒動にまつわる滋野多兵衛の墓や切腹の場を示す「はらきり梅」の古木や碑があります。
 <河野広中遺髪塔>
 旧三春藩士で、自由民権家として活躍した河野広中の遺髪塔。
 1849年7月7日三春藩郷士河野広可の三男として生まれる。川前紫渓に儒学を学び、その影響で尊皇攘夷論を唱えるようになった。戊辰戦争の際は、三春藩は、当初、奥羽越列藩同盟に加盟していたが、河野は、明治政府への帰順を工作し、東山道先鋒総督府参謀であった板垣退助に会見した。藩が帰順した後、土佐藩兵に合流し、先鋒を願い二本松藩攻略、会津戦争等に参加した。
 明治維新後は、地元で若松県権少属、区長などを歴任後、自由民権運動に傾倒、石陽社を設立し、東北地方の自由民権運動の先駆けとなった。明治15年福島事件がおきると、河野は、同志田母野等と連判状を取り交わしていたため、12月に検挙され、明治16年高等法院において軽禁獄7年の刑を宣告された。明治22年の大日本帝国憲法発布に伴う恩赦によって出獄を許された。後大正4年第二次大隈重信内閣の農商務大臣などにも就任している。
 
 <官軍墓>
 本堂左脇にある無縁仏の墓石を纏めている最全面に5つ並んで「官軍墓」がある。土佐藩のものが4つと、大村藩のものが1つ。
 土佐藩士近藤正道、土佐藩士井上弥太右衛門、土佐軍夫、土佐藩士江口精馬重條、大村藩士夫平新兵衛の墓。