榎本武揚艦隊集結の地(折浜)

 

⇒折浜への交通
石巻線「石巻駅」より車で30分
三陸道「石巻河南IC」より車で35分
境内自由/拝観無料

宮城県石巻市折浜字折浜

 石巻市外を離れ、風越トンネルを過ぎて少し走り、右に入る道を入って下っていくと、開けた漁港に出ます。
 その漁港の真ん中にポツンと下記写真の『榎本武揚艦隊集結の地』という碑が建立されています。
(風越峠頂上付近にも同じ碑があるそうなのですが、現在は作業道となってしまっていて、立ち入り禁止となってしまっているので見る事が出来ません)周囲を山に囲まれていて、中心部より離れているので、ひっそりと新政府軍に隠れて入港するには適した場所だったかもしれません。
 <榎本武揚艦隊集結の地碑>
 明治元年10月9日、江戸を脱走した榎本武揚率いる旧幕府軍を乗せた艦隊は、松島から、この折浜へ移動し、新撰組や、仙台藩士の見国隊・額兵隊等や会津藩士の安部井政治、諏訪常吉、西郷頼母等を乗せて一路蝦夷地目指して12日に出帆した。
 十月九日東名浜を抜錨し(是より先庄内勢援の為、千代田、長崎の二隻を同所酒田港に出す)、折の浜と唱る場所へ泊をかえ(東名浜より十三里)開陽艦楫の修理を急ぎ加うるの間、我党の蝦夷地に赴かんとするの趣旨を官家奥羽の鎮将四条殿へ書を以て報知す(この時仙台藩額兵隊星恂太郎を始め二百余名我隊へ合兵し開回の二隻に乗込む)。同十二日諸船悉く折の浜を出帆し(以下略) 【麦叢録/小杉雅之進】





洞仙寺

 

⇒洞仙寺への交通
石巻線渡波駅より車で20分
三陸道石巻河南ICより車で40分
境内自由/拝観無料

宮城県石巻市桃浦字寺下6

 墓域に入って、奥に大きな遭難者の碑などが建立された、一段高くなった場所があり、その大きな碑の裏に位置した場所にひっそりと開陽丸の乗組員で、この地で病死した中井初次郎の墓が建立されています。
 <中井初次郎墓>
 この地で亡くなった開陽丸乗組員、中井初次郎の墓で、中井は塩飽諸島の広島(現香川県丸亀市広島)出身の水主で優秀な働きをしたため滞剣を許されています。(丸亀市広島に顕彰碑が建立されている)






西光寺

 

西光寺への交通
JR石巻線「石巻駅」より車で5分
三陸道石巻河南ICより車で11分
境内自由/拝観無料

宮城県石巻市門脇町2丁目5-7

 石巻駅周辺は一方通行ばかりで本当に苦労しました。
 <真田喜平太墓>
 仙台藩の名士だからさぞや立派な取り扱いかと思って墓地を探していても全然見つからず、本堂前にある納経塔の裏、更に竹垣との間の狭いスペースにひっそりと建立されていました。兎に角狭くて、納経塔の方からは入れず、墓地のほうから狭いスペースを通り抜けて入る感じ。全体像を写真に収めるのすら困難なほどでした。
 真田喜平太は仙台藩士で、その先祖は真田幸村である。その九代にあたる真田喜平太幸歓は、西洋砲術他の知識を修め、仙台藩参政として仙台藩の軍制を改革、藩の存続をかけて勤王を唱えた人物。
 戊辰戦争には、官軍の要請に答え、洋式軍隊を率いて土湯口に出兵、会津を攻撃をするが、藩論が救会に傾くと、但木土佐等と七ヶ宿での会談に赴き、会津藩家老梶原平馬を一喝し奥羽列藩同盟締結に尽力した人物。







大聖不動明王



⇒大聖不動明王への交通
JR石巻線「石巻駅」より徒歩15分
三陸道石巻河南ICより車で8分
羽黒山公園内公園内自由

宮城県石巻市羽黒町1丁目1(地図

 <細谷十太夫碑>
 榎本艦隊の新政府軍への攻撃を中止させ、石巻を戦火から救い、明治十二年、細谷は宮城県五等属となり、自ら立案した宮城郡居沢、愛子石巻門脇大街道の荒地開拓事業に取り組み、一度辞令により北海道に渡ったが、日清戦争後、再び石巻に住みつき石巻門脇大街道開拓事業を指導しつつ、数年を経て明治36年5月、石巻を離れるとき歌を残した。
 弓矢とる むかしの身には
 ひきかへて 牡鹿の原を 引き去りにける






鋳銭場跡

 

鋳銭場跡への交通 
JR石巻線「石巻駅」より徒歩2分

宮城県石巻市鋳銭場
地図
 石巻駅近くの「鋳銭場跡」は、現在小さな祠が残るのみですが、脇には仙台藩の鋳銭場であった事を示す説明版が建立されています。
 仙台藩では、享保年間以降領内の銭貨不足により、度々幕府に鋳銭を願い出て許可され、多くの銭を鋳造した。
 幕末の慶応年間には、あの烏組で有名な細谷十太夫がこの鋳銭場で鋳銭役人として働いた場所でもあります。