青葉城址

 

⇒青葉城址への交通
JR仙台駅よりバスで22分バス停「青葉城址」下車、徒歩すぐ
見学自由
入場料:無料(青葉城資料展示館:700円)
宮城県仙台市青葉区川内
青葉山丘陵にある今の仙台城本丸にあたる場所には、国分氏の築いた千代城があった。 しかし国分盛重が政宗と対立して出奔すると、千代城は廃城となった。 政宗は、関ヶ原の戦いの後、家康の許しを得て千代に居城を移すことにした。 慶長5年12月24日に縄張りを始め、地名を仙台と改めた。彼が築いた仙台城は、 本丸と西の丸からなる山城で、天守は持たない。これらの点で時代の流行に背を向けたが、 結果として仙台城は同時代に比類ない堅城となった。
 伊達忠宗が寛永14年に二の丸造営に着手し、 翌年完成させた。本丸と同じく広瀬川の内側にあるが、土地は平坦な場所である。伊達家の当主はここに居住し、 政務もここで執られた。
 戊辰後の明治期には陸軍の東北鎮台が仙台城を司令部にして駐屯した。このとき本丸が破壊され、 石と木が兵舎建設に流用された。






瑞鳳殿

 

⇒瑞鳳殿への交通
JR仙台駅バスで15分、「瑞鳳殿前」下車、徒歩5分、
又は「霊屋橋・瑞鳳殿入口」下車、徒歩5分
営業時間:9時〜16時30分、12・1月は〜16時
見学料:550円

宮城県仙台市青葉区霊屋下23-2

 伊達政宗公が葬られている荘厳華麗な瑞鳳殿は、杉木立の中にある。現在のものは昭和54の再建。
 副葬品などを展示する資料館、2代藩主忠宗公・3代藩主綱宗公の霊廟がある。(写真は3代藩主綱宗の霊廟・善応殿)
 <弔魂碑>
 戊辰戦争の際の仙台藩士の戦死者の弔魂碑。伊達政宗の霊廟「瑞鳳殿」を過ぎ、更に2代・3代藩主の霊廟に行く途中にある。
 
 <西南戦争戦没者慰霊碑>
 西南戦争に参加した藩士の戦死者の慰霊碑。






竜雲院

 

⇒竜雲院への交通
拝観自由/拝観無料

宮城県仙台市青葉区子平町19-5

 龍雲寺は明治40年、からす組として西軍に恐れられた細谷十太夫が住職として没した場所で、この寺は海防論を唱えて幕府によって罰せられた林子平の墓所であったが、その頃は荒廃しており、子平に敬慕していた細谷は、龍雲寺を復興させようとしていたのである。
 山門を潜って左側には、上の写真の像があり、「細谷地蔵」と呼ばれている。
 
 <林子平墓>
 
元文3年6月21日生まれ。高山彦九郎・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の一人で、諱は友直。のちに六無齋主人と号した。
 姉が仙台藩主の側室に上がった縁で兄とともに仙台藩の禄を受ける。 仙台藩で教育や経済政策を進言するも聞き入れられず、禄を返上し兄の部屋住みとなり、全国を放浪する。長崎や江戸で学び、大槻玄沢等と交友し、『海国兵談』『三国通覧図説』などの著作を著す。 老中松平定信の寛政の改革がはじまると幕府に危険人物として目を付けられ『海国兵談』『三国通覧図説』共に発禁処分を下される事になる。最終的に、仙台へと強制的に帰郷させられ禁固刑に処され、寛政5年6月21日そのまま死去する。
 
<仙台藩士 細谷十太夫墓>
 1845年に生まれる。諱は直英、号は鴉仙。五十石の仙台藩大番士、早くに両親を失い、祖父に育てられた。後に鋳銭方、普請方役人。慶応4年春探索方となり、米沢、庄内、白河などの内情を偵察し、戦争が始まると、博徒、猟師等を集め、衝撃隊を編成して指揮し、三十余戦に連戦戦勝、全員が黒装束だったので烏組と呼ばれ「細谷からすに十六ささげ 無けりゃ官軍高枕」と歌われるほど新政府軍に恐れられた。
 功により小姓頭に進み、二百石を加増され、副参謀に抜擢された。
 大赦後、開拓使権少主典、西南戦争では陸軍少尉で活躍、日清戦争にも従軍した。晩年、仏門に入り、龍雲院の住職となり、林子平の墓を守った。
(幕末維新人名事典より)
 
 <細谷地蔵>
 入口入って直ぐの
右の座像は細谷十太夫の姿であり、台座には見えずらいものの「細谷地蔵」と刻まれています。






飯沼貞吉終焉の地

 

飯沼貞吉終焉之地への交通
境内自由/拝観無料

宮城県仙台市青葉区錦町

 アパートの裏庭にひっそりと建立している「飯沼貞吉終焉之地碑」ここは飯沼家が後年幼稚園を経営していた場所で、現在は転居されアパートになっていますが、この碑だけがひっそりと存在しています。

 

 上記アパートの右側を抜けた裏側奥






仙岳院

 

⇒仙岳院への交通
JR仙山線「
東照宮駅」下車、徒歩3分
市バス仙台駅前より「南光台・旭ヶ丘」行「宮町五丁目」徒歩3分

拝観自由/拝観無料
公式HP⇒
http://homepage2.nifty.com/sengakuin/

宮城県仙台市青葉区東照宮1丁目1−16

 1654年に仙台藩2代藩主伊達忠宗が、徳川幕府に願って東照宮を勧請し、その別当寺として康国寺を創建、仙岳院はこの康国寺の塔頭寺院でしたが、藩政当時から康国寺を仙岳院と呼び習わしていたという。平泉中尊寺別当等を兼ね、仙台藩の一門格筆頭寺院として明治の神仏分離により東照宮や清浄光院などと分かれたものである。
 
 <本堂/輪王寺宮公現親王御座所>
 戊辰戦争の際、輪王寺宮(孝明天皇の弟)が上野戦争の難を避けてこの仙台に来ており、問う羽越列藩同盟の盟主として3ヶ月ほど滞在し、ここから京都に向ったと言うことである。






東照宮

 

⇒東照宮への交通
JR仙山線「
東照宮駅」下車、徒歩3分
市バス仙台駅前より「南光台・旭ヶ丘」行「宮町五丁目」徒歩3分

拝観自由/拝観無料
 
公式HP⇒http://sendai-toshogu.or.jp/

宮城県仙台市青葉区東照宮1−6−1
 仙台藩2代藩主伊達忠宗公が徳川幕府への尊崇・感謝の標として、1649年、三代将軍徳川家光公に東照大権現の仙台勧請を願い出て許しを受け建立されたもので、この地は玉手崎と呼ばれ、1591年10月、徳川家康が藩祖正宗と宿陣した場所で、家康に縁の場所として社地に選ばれたといい、元々この地にあった天神社は東隣に移され、1667年、榴ヶ岡に移されれ、現在の榴ヶ岡天満宮となったモノ。
 戊辰戦争の際に、額兵隊隊長となった星恂太郎は、この東照宮の宮司の息子である。






清浄光院

 

⇒清浄光院への交通
JR仙山線「
東照宮駅」下車、徒歩3分
市バス仙台駅前より「南光台・旭ヶ丘」行「宮町五丁目」徒歩5分

拝観自由/拝観無料

宮城県仙台市青葉区宮町5丁目1−11

 現在の本堂は弘化3年の火災により焼失後に再建されたもので、弘化4年もの。仙岳院の末寺であった寺院で昭和に独立、一万日ごとに大供養塔を建てたことから万日堂と称し、願行寺、常念寺とともに仙台三回向寺の一つである。
 仙岳院が東照宮の別当康国寺の塔頭寺院であった関係で、東照宮宮司の子息であった星恂太郎の墓があります。(明治の神仏分離政策で東照宮と分かれた為現在は独立。
 <星恂太郎墓>
 仙台東照宮六供の星家に天保十一年十月四日誕生した。父の名は道栄と云い、母は洞口氏の出で名をまつという。恂太郎は諱を忠狂、字は士狷、無外と号した。小嶋友治の養子となり名を孝治と称し、剣を狭川喜多之助、天文を村田喜治郎、西洋兵式を真田喜平太に学んだが、庖厨事に従事するのを嫌い小島家を出て、生家に戻った。当初は攘夷を唱え金成善左衛門等と共に大槻磐溪、但木土佐等の暗殺を計るが未遂に終わり、但木等の説得により、元治元年、脱藩し江戸へ行き、西洋砲術家に洋式の銃隊編制調練等を学ぶ。
 横浜で兵学砲術を研究、諸藩士に兵学砲術を教授するまでとなる。仙台藩に会津征討が命じられると恂太郎は藩へ呼び戻され、慶応4年閏4月、東照宮宮司星半齋養兄として、西洋流銃術指南役で仙台藩に召し出され、戦況が押し迫ると次男三男などで構成した洋式軍隊「額兵隊」を組織、藩の恭順が決まると藩を脱走し榎本艦隊と共に箱館に向かう。
 
<星恂太郎碑>
(上続き)蝦夷共和国では陸軍歩兵頭並に挙げられ、松前城占領戦に活躍、
明治3年5月、弁天台場での謹慎放免後、恂太郎は他の仙台藩士等と共に、北海道の仙台藩開拓方へ送られ開拓作業に従事、約一ヶ月後の7月9日、開拓方は解散となる。翌年の明治4年3月7日、開拓使十五等出仕を拝命し、岩内郡掘株製塩場詰となったが、業績不振で明治5年11月に製塩所が閉鎖となり、恂太郎は責任をとって開拓使免職。
明治9年7月27日、仙台にて没。享年37才。

 墓は、本堂左側に墓地があり、その墓地を本堂にそってちょと進んで左折して直ぐ右側角に星家の墓所があります。
 また、碑は門入って直ぐ左の石碑(墓石)群の中にひっそりと建立されているので見落としがちかも。







日浄寺

 

⇒日浄寺への交通

拝観自由/拝観無料

宮城県仙台市青葉区堤町2丁目2-1

 本堂向って左の墓地入って直ぐ右側にある坂家墓地に仙台藩国老で戊辰戦争の首謀者として処刑された坂英力の墓があります。当初品川の東禅寺に埋葬されたのですが、平成9年11月に菩提寺であるここ日浄寺に移転されました。
 その坂家の墓域の斜め左奥に更に坂家の墓域があり、そちらには新しい坂家の墓があり、その脇に建立されている墓誌には、坂家始祖からの名前と略歴が刻まれ、坂英力の名前と略歴も刻まれています。
 本堂脇には藤原相之助による坂英力の碑も建立されている。
 <坂英力墓>
 仙台藩御一族磐井郡黄海郷の邑主、天保4年9月14日仙台に生まれ、諱を時秀、考を能登保定と云う。
 元治元年に禁門の変が起こると、京師へ赴く。慶応2年に国老に挙げられ世子に従い江戸に赴き、その際将軍より密かに召され「祖先以来伊達氏を措いて他に頼むべきなし、汝宜しく此の意を主君に告げ我が徳川家を助けよ」との言葉に感激する。 慶応4年に白石にて同僚但木土佐と共に会津藩恭順を九条総督に嘆願するが許されず、これに於いて奥羽越列藩同盟締結の議が起り白石城にて会議を開き列藩同盟が締結される。
 藩主伊達慶邦の代理として諸軍を指揮するが、藩論一変し但木土佐と共に捕えられ江戸に送られ首謀者として明治二年5月19日処される。
 享年37歳。辞世の句は
 「桃花乍散春風憾  亦発明年雨露恩
  人世栄枯何可意  冀安分際順乾坤」
 
 <仙台藩国老坂英力君碑>
 「仙台戊辰史」の著者として知られる藤原相之助の手による坂英力の碑。
 本堂脇の木陰にひっそりと建てられています。風化により三面に刻まれた碑文を全文を解読するのはかなり困難です。






輪王寺

 

⇒輪王寺への交通
仙台駅より車で15分
仙台駅「中山ニュータウン」「北山廻り子平町」行バス「輪王寺前」下車
拝観自由/拝観無料
公式HP⇒
http://www.rinno-ji.or.jp/

宮城県仙台市青葉区北山1丁目14-1

 伊達政宗の夫人、蘭庭明玉禅尼の所願により、福島県梁川に創建され、政宗の領地が変わるのに従って米沢を経て仙台に移ったお供寺である。
 <飯沼貞吉墓>
 もう今更詳しい説明も不要かと思いますが、白虎隊士中二番隊自刃隊士の生き残り飯沼貞吉の墓です。斜面に作られた墓地の水場正面の階段をかなり上まで登って行くと右手にあります。
 戊辰戦争後は貞雄と改名。逓信省で電気技師として各地で勤務にあたり、明治
38年には札幌に郵便局工務課長として赴任。明治40年の札幌大火の復旧工事などに尽力し、仙台逓信局工務部長の地位で退職。
 昭和6年に仙台で七十八歳で歿。

 

 

北山霊園(若生文十郎墓)

 

北山霊園への交通
境内自由/拝観無料
宮城県仙台市青葉区北山2丁目10-1

 北山霊園内の寺院墓地にある仙台藩士若生文十郎の墓。若生は慶応4年仙台藩が会津征討を命じられると御近習に抜擢され、4月には玉虫左太夫と共に副使として会津に出張、後日正使として会津に行き容保と共に対談。会津藩恭順や奥羽越列藩同盟締結に尽力。後に近習兼郡奉行、更に近習番頭格軍事参謀に挙げられる。
 仙台藩降伏するに至り、文十郎は戊辰の乱は藩主の罪にあらず文十郎等が国事を誤った為、とする建白書を作り提出するが斥けられ、その後和田織部よりの密命で、函館へ旧幕府脱走兵の動向を視察。明治二年一月降伏の結果削減された封土を返還するに際し郡奉行応接役を命じられ尽力。しかし和田等と共に逮捕され、明治二年4月14日切腹を命じられる。享年28歳。

 
 <小池繁次郎/小池勝吉墓>
 北山霊園の「に」区画にある小池家の墓所。
 この墓所の墓誌には、会津藩士の戸ノ口原の戦いで戦死した小池繁次郎や鳥羽伏見の戦いで23歳で戦死した砲兵隊士小池勝吉の名前を見ることが出来る。

 

 

東昌寺

 

⇒東昌寺への交通

拝観自由/拝観無料

宮城県仙台市青葉区北山1丁目14-1

 本堂右側に墓地が並ぶが、塀沿いに奥に進むと、最奥の一角に和田家の墓域が広がり、その左奥に和田織部の墓がある。
 和田織部為泰は戊辰戦争の時執政として活躍、その為降伏後保守派によって玉虫左太夫や若生文十郎等と共に切腹を命じられた人物である。
 
 <和田織部墓>
 仙台藩二番着座各にして宮城郡蒲生の邑主。食禄は1600石余。
 諱は為泰、字は直恒豹堂と号し、一門黒川郡宮床の邑主伊達六郎の次男で、13歳の時和田家を相続する。
 慶応4年、参謀となり登米勢を率いて出征、又、海岸に砲台を築き防備を厳にする。後、執政に進み大いに盡す。
 藩論一変し降伏する事と決まった後額兵隊が脱走を企てると、織部は鎮撫として石巻に出張し隊中脱走を欲せさる者九十名余を受取り福田町雲洞院に召集させる。増田歴治等の悪む所となり遂に斥けられ、明治2年4月14日に切腹。 享年38歳。
〜辞世の句〜「君の為荷ふ命は惜しまねと  こゝろにかゝる國の行末」

 

 

充国寺

 

⇒充国寺への交通
仙台駅より車で15分
仙台駅「中山ニュータウン」「北山廻り子平町」行バス「輪王寺前」下車徒歩8分。
北仙台駅より徒歩35分
拝観自由/拝観無料

宮城県仙台市青葉区新坂町17-1

 輪王寺から歩いても僅か10分弱の所にある充国寺。このお寺には鶴ヶ城を私財を擲って払受け、松平家に寄贈した遠藤敬止の墓がある。
 
 <遠藤敬止墓>
 充国寺の本堂裏手に遠藤家の墓所があり、その最奥に鶴ヶ城を私財を擲って購入し松平家に寄贈した遠藤敬止の墓があります。

 嘉永4年、会津藩士遠藤清直の長男として江戸に生まれる。若くして才能を認められ、幕府の開成所に入学し英語を学ぶ。
 戊辰戦争の際には、歴戦し、鶴ヶ城の籠城戦に加わり、江戸にて謹慎した後、生活のため、英語教師として勤めながら独力で勉強に励み、さらに、慶応義塾に入学し、簿記や経済学を学ぶ。大蔵省銀行事務講習所が創立されると、敬止は簿記の講師となり、明治11年仙台に第七十七銀行が設立されると、敬止はその頭取となる。明治23年に鶴ヶ城の払下げが決定すると敬止は、募金を集めて私財を擲ち2,500円で鶴ヶ城は払下げられ、旧藩主松平家に寄贈された。明治37年に死去。享年55歳。
 
 <遠藤嘉龍二墓>
 同じ遠藤家の墓域にある敬止の弟の嘉龍二の墓。墓石には嘉龍二の略歴が刻まれ、其の中に「通称嘉龍二」という文章があるので見つけやすいと思います。(飯盛山の白虎隊墓所にも墓があり)

 諱は清臣。通称嘉龍二。遠藤敬止の弟。
 戊辰戦争が起ると、白虎隊寄合一番隊に配属され、津川口〜舟渡と歴戦し、慶応4年9月11日の熊倉の戦いにて戦死。享年15歳。