養賢堂門(泰心院)

 

⇒養賢堂門(泰心院)への交通
愛宕橋駅より徒歩8分
五橋駅より徒歩9分
境内自由/拝観無料

宮城県仙台市若林区南鍛冶町100(地図

 養賢堂は仙台藩が藩の子弟を教育するために、元文元年(1736)に開設した学問所を前身として、安永元年(1772)に創設されました。その後藩内各所にも学問所等が開設され、仙台藩は諸藩と比べても極めて高い教育水準を持つこととなり、養賢堂からは、林子平、大槻玄沢、高野長英など多くの時代のさきがけを輩出しました。戊辰後の明治には、養賢堂は宮城県庁として使用されていましたが、太平洋戦争で焼失、現在その跡地には現代的な県庁舎が建っています。
 そして僅かに消失を免れた正門は移築され、泰心院の山門として現存しています。






保春院

 

⇒保春院への交通
JJR東北本線 仙台駅より市バス「若林区役所」下車
境内自由/拝観無料

宮城県仙台市若林区保春院前丁50

 寛永12年(1635)伊達政宗が母義姫(保春院)の十三回忌にあたり菩提を弔うため保春院を創建した。保春院は寺格一門に列し堂塔伽藍広壮であったが、宝暦2年(1757)の「宝暦の大火」のため灰燼に帰してしまう。その後再建されるも、創建当時の頃には遠く及ばなかった。
 ここには、戊辰戦争の際に切腹させられた仙台藩士玉虫左太夫の墓所がある。
 <玉虫左太夫墓>
 本堂向って左側に墓地が広がり、本堂に沿って奥に進むと通り左側に「玉虫家之墓」があり、その脇に小さく右写真の墓石が同じ墓域内に建てられている。この墓石が玉虫左太夫の墓である。
 諱は諠茂。字は子發、幼名勇八、後左太夫。拙斎又は東海と号する。
 文政6年仙台に生まれ、三歳で父を失い、兄勇蔵に育てられ、藩校養賢堂に学び、24歳の時江戸に出て大学頭林棰宇に就いて学び其の塾長となる。安政の初め仙台に戻り藩士達に教授する。 安政三年函館奉行堀織部正に従って蝦夷地に赴き風土習慣を視察しその所見を「蝦夷紀行」と名づけて記録した。万延元年には幕府使節外国奉行新見豊前守に扈従しアメリカへ行き帰朝、即日新禄を加え大藩士に列し御小姓組並を命じる。文久元年春外国並びに江戸諸藩の形勢を探索し、仙台に会津追討が命じられると但木土佐の推挙により会津に正使として赴き、奥羽越列藩同盟締結に尽力する。 しかし、藩論が一変すると捕えられ切腹を命じられる。明治2年4月14日享年47歳。






榴ヶ岡天満宮

 

榴岡天満宮への交通
JR仙石線榴ヶ岡駅下車、約500m
仙台駅より徒歩25分
境内自由/拝観無料
公式HP⇒
http://www.tutujigaoka.org/

宮城県仙台市宮城野区榴ケ岡23

 藤原基衡の臣、佐藤小太郎基春が国分荘の領主となったとき、柴田郡川内から小俵邑玉手崎に遷した神社であったが、慶安3年東照宮建立に際してここに遷された。
慶安三年徳川幕府の命令により東照宮建立に際してその境内地東側に御遷座された。寛文7年三代藩主綱宗公が改築した。
寛政7年、丹塗りの唐門を残して社殿を焼失。今の社殿はその頃の再建である。
 祭神は菅原道真公であり、学問・政事の主祭神である。
 <額兵隊見国隊戦死弔魂碑>
 榴岡天満宮の鳥居右脇にひっそりと建立されている「額兵隊見国隊戦死弔魂碑」。

 額兵隊の隊長は星恂太郎、見国隊の隊長は二関源治。共に戊辰戦争の際に、藩士の次男三男等の有志で結成され、榎本艦隊に身を投じ、蝦夷地に渡り箱館戦争まで戦い抜いた隊である。

 
 <二関源治君碑>
 鳥居の右脇の上の「額兵隊見国隊戦死弔魂碑」の隣に建っている。

 容貌婦人の如くと雖も、沈勇果決人を屈服せしむ。戊辰の変が起こると猪狩兵左衛門と越後口に出征し奮戦。帰国すると額兵隊に入り半隊司令使となる。同盟軍の惰弱なのに憤り、藩論が降伏に傾くと、同士を募り見国隊を結成し、榎本脱走艦隊に身を投じ箱館戦争に戦い、明治2年5月12日戦死する。享年34歳。(墓は大郷町の糟川寺)

〜辞世の句〜
  「君の為め千尋の海に沈むとも  何かいとはん長き恵に」







大和神社

 

大和神社への交通 
JR仙山線「中野栄駅」より車で7分
三陸道仙台港北ICより車で6分
仙台東部道路仙台東ICより車で9分

境内自由/拝観無料
宮城県仙台市宮城野区蒲生西屋敷添3丁目
 (蒲生西屋敷公園内奥)(地図
 1661年(延宝年代)に蒲生領主和田織部房長は舟入堀の完成を期に、多賀城より家臣30名と共にこの地に移り住み、館内に氏神として京都伏見稲荷神社の分霊を勧請し祭ったのがこの神社の由来で、和田氏の出身が大和であった為、大和神社と称したものである。
 この辺りは、二代仙台藩主伊達忠宗の時代に和田因幡為頼が開墾した土地であった為、和田新田とも呼ばれている。
 <和田織部碑>
 『義義義 知證院殿和田織部為泰之碑』と正面に刻まれ、側面には『戊辰之役義死 明治二年旧四月十四日卒 御年三十八歳』と刻まれた碑で、大和神社本殿左奥にひっそりと建立されています。 これは、和田区家臣が和田織部為泰の遺徳を称えて建立した慰霊碑である。

 和田織部為泰は伊達家一門宮床城主伊達六郎宗規の次男として生まれ、13歳にて蒲生城主の和田氏の養子となる。
 戊辰の役には参謀として出陣、宮戸島に砲台を築いて海の備えを固め、戊辰敗戦後、重臣が次々捕らえられ混乱の中、最後の国老として迎えられ戦後処理に当たり、その処理振りは果断、気力が人を圧したといわれる。こうしたことから反対派から「洋人、浮浪の徒を集め謀反を企てている」と明治政府に密告され、明治2年4月14日切腹させられた。
 享年38歳。

 

 

東北歴史博物館

 

東北歴史博物館への交通 
JR東北本線「国府多賀城駅」下車徒歩約1分
JR仙石線「多賀城駅」下車徒歩約25分又は車で約10分
東北自動車道泉ICより車で約30分
仙台東部道路仙台港北ICより車で約20分
開館時間:AM9:30〜PM5:00迄 (最終入場PM4:30迄)
休館日:毎週月曜日(祝日除く) 年末年始(12/29〜1/3迄)
入館料:常設展のみ大人400円
公式サイト⇒
http://www.thm.pref.miyagi.jp/

宮城県多賀城市高崎1-22-1
 その名の通り、東北地方の歴史を扱う博物館です。
 しかし、戊辰戦争関係の展示は殆どありません。(上写真の細谷十太夫陣羽織(復元品)と列藩同盟旗(復元品)とパネル程度)展示の中心は古墳時代等の古代のものが中心です。
 しかし、3Fには「図書情報室」があり、ここには東北各市町村の郷土史が多く置いてあります。これだけでも行く価値有り。