明治戊辰戦遺蹟

⇒明治戊辰戦遺蹟の交通
JR長岡駅大手口よりバス25分長岡市大黒町(大黒古戦場パーク内)
拝観自由/入場料無料

新潟県長岡市四ツ屋町(西照寺脇)

 長岡城を奪われた河井継之助は、長岡城北部に広がる沼地である八丁沖を縦断し城に迫る作戦を立て、7/24夜見附から八丁沖北端の四ツ屋に前進した長岡藩兵700名は夜半になって静かに八丁沖に足を踏み入れた。
 
 上の明治戊辰戦遺蹟碑脇にある「東軍戊辰之役福井村デノ戦死戦没者名簿」で、長岡藩8名、会津藩2名(多賀谷時之進・橋爪清助)、米沢藩7名の名前が記されている。

拝観自由/拝観無料

 

八丁沖

 

 
 当時長岡の北東約8キロ付近には八丁沖と呼ばれる、約4キロ四方にわたる広大な沼地が広がっていた場所で、この八丁沖は底無し沼で通行不可能と言われていた場所でした。
 河井はこの八丁沖を、日頃漁をして慣れ親しんだ鬼頭熊次郎に前もって、浅瀬に棹を立て道標とし、深い所には板橋を渡すなどして、4夜かけて攻撃ルートを構築し、長岡藩士はこのルートを通って長岡城へ近づき、八丁堀は渡行不可であると思っていた西軍の裏をかき長岡城を回復した。
 現在は美田として生まれ変っている。

拝観自由/拝観無料

 

大黒古古戦場

 

 
 大黒町の新組小学校前にあるコミュニティーセンター前に「大黒戊辰戦蹟記念m碑」の案内石柱があり、その案内にしたがって、下の農道を700m程進むと舗装された通りに行き当たり、そこに右に砲台跡碑が建っている。

長岡市大黒町
拝観自由/拝観無料

 新組小学校前コミュニティーセンター前の案内石柱にしたがって大黒戊辰戦蹟記念碑へ向う途中に通る道。(道じゃないだろう…農道?)

拝観自由/拝観無料

 上の道を進み、更に砲台跡も過ぎて更に進むと大黒古戦場跡に建つ山本五十六揮毫の「戊辰戦蹟記念碑」。
 慶応4年(1868)の夏、このあたりは北越戊辰戦争最大の激戦地となり、長岡、会津、米沢藩兵らの奥羽越同盟軍と薩摩、長州藩兵らの新政府軍との間で幾度も激闘がかわされた場所で、付近の人びとは、その勇戦を讃え碑を建てました。

JR長岡駅大手口よりバス25分長岡市大黒町(大黒古戦場パーク内)
拝観自由/拝観無料

 

八丁沖古戦場碑

 

 八丁沖は長岡の東北郊外、百束、大黒あたりから、南は富島、亀貝にいたる南北約5キロ東西約3キロにわたる大沼沢地で、河井継之助は、長岡城奪回のため、この八丁沖を密かに渡り、一気に城下へ突入することを計画。

 そして慶応4年(1868)7月24日午後7時ごろ行動を開始し、全軍600余名声をひそめて潜行し、7月25日未明に富島へたどり着き、大激戦のすえ宮下の西軍前線基地を占領しました。さらに、全軍を4手に分け、長岡城をめざして猛進撃に移りました。不意を突かれた西軍は、必死に防戦したが昼すぎには勝敗は明らかとなり、長岡城の奪回に成功しました。余りにも突然の攻撃に驚いた山県有朋は西園寺公望と錦旗を関原の本営に送り、干城隊隊長前原一誠に退却を促し、自らも軍を立て直す暇なく退却した。

 現在は小さな公園になっていて、私が行った時には近所のお年寄りがゲートボールをやっていました(笑)

JR長岡駅大手口よりバス25分長岡市富島町
拝観自由/拝観無料

 

日光神社(鬼頭熊次郎碑)

 

 上の八丁沖古戦場パークから直ぐ近くの日光神社に、大正4年に建立された八丁沖渡河の立役者であった鬼頭熊次郎の碑がある。

 八丁沖で漁をしていて八丁沖をよく熟知していて、4夜かけて攻撃ルートを構築し、長岡城回復に貢献、敵陣に斬り込んだ熊次郎は銃撃に倒れ、その遺体は兄嫁が曲がった足によって確認したという。長岡市民は城に戻ってきた藩士達に道路に酒樽を持ち出し兵に振舞い喜んだという。

JR長岡駅大手口よりバス25分長岡市富島町
拝観自由/拝観無料

 

長岡城跡

 

 長岡城は現在JR長岡駅のある場所で、駅前にある「厚生会館」の脇に長岡城二の丸碑が建てられている。

 7/25朝長岡城を回復するが、正午頃見回りをしていた河井は左膝に銃撃を受け、指揮官を失った長岡藩は4日後の29日に西軍の再攻撃によって再度落城し、城下はことごとく灰燼に帰し、同盟軍諸藩も翌8/1一斉に撤退を始めた。

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長興寺

 

 
 明治17年に長岡に生まれた高野五十六は、大正5年その優秀さから戊辰戦で戦死した長岡藩家老山本帯刀の養子となり、大正7年に旧会津藩士三橋康守三女礼子と結婚。
 航空の重要さを説き、また太平洋戦争開戦に反対し「この身滅ぼすべし、この志奪うべからず」とわが身の危険を顧みず、日独伊三国同盟に断固反対、しかし反対むなしく太平洋戦争開戦され、山本五十六は意に反し、連合艦隊指令長官として未曾有の大戦争の指揮をとり、昭和18年ブーゲンビル島で戦死。
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 代々家老職を務める山本家に養子入りし、慶応3年家督を継ぎ、藩政改革・軍制改革に尽力し、河井継之助を登用する。
 戊辰戦争では長岡藩大隊長として活躍、長岡城落城後も抵抗を続け、八十里を越えて会津に入るが、早朝の濃霧の中飯寺河原で友軍と見間違え新政府軍に包囲される。西軍隊長は山本帯刀の人物に惚れ、降伏するよう勧めるが、帯刀は「藩主からそのような命は受けていない」と拒絶し、斬首された。

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悠久山公園

 

⇒悠久山公園への交通
JR長岡駅東口からバス15分
拝観自由/入場料無料

新潟県長岡市悠久町

 悠久山公園内にある「蒼紫神社」には戊辰戦争・西南戦争の戦死者を祀った招魂社があり、また他にも多くの戊辰戦争関係者の碑などが残されている。 下の写真の碑以外にも小林虎三郎の碑や河井継之助の歌碑なども残っていて、郷土資料館もあり、資料館には河井の遺品やガトリングガンの複製なども展示されている。

 悠久山公園は、この地をこよなく愛した長岡藩3代藩主牧野忠辰が佐渡の杉苗をはじめ、松や桜などを植えて育てられたのが始まりと言われています。さらに9代藩主牧野忠精が、この地に蒼柴神社を造営。

<招魂社>
 北越戊辰戦争と西南の役の旧長岡藩士犠牲者を祭祀しています。北越戊辰戦争では、軍事総督河井継之助、大隊長山本帯刀をはじめ、三百余名の藩士が戦死しました。西南の役では、徴募に応じ、殉じた一等少警部池田九十郎ら18名が慰霊されています。
 この招魂社は、明治7年6月に造営され、現社殿は明治45年9月に改築されたもの。

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<河井継之助と山本帯刀の墓>
 上の写真左奥に墓が二基あり、河井継之助と山本帯刀の墓が左写真の通り並んで建立されている。

拝観自由/拝観無料

 
<歴代藩主の墓>
 長岡藩主牧野氏歴代の墓碑群で蒼柴神社脇にあり、2代藩主忠成から11代藩主忠恭までの間17基の墓碑が建っています。
 この墓碑群は、昭和58年東京三田の旧長岡藩の菩提寺であった済海寺から悠久史蹟保存会によって移されたものです。
 (東京/港区を参照)

拝観自由/拝観無料

<刀隊・槍隊の碑>
 北越戦争で戦没した藩士のうち、刀隊・槍隊に属した隊士の追念碑。
 刀隊・槍隊は近代的装備をした長岡藩において刀と槍で戦った藩士たちの小隊で、戦闘ではつねに最前線で戦い長岡武士の面目を高めた。

 刀隊の碑は長岡藩大参事小林虎三郎が撰文を寄せた。

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<山本帯刀碑>
 山本帯刀は長岡藩士安田家に生まれ、長岡藩家老山本家の名跡を継いだ。幼い頃から読書を好み、号を竹塘とした。 豪気英邁・槍刀弓馬何れも練達の武士で、戊辰の役では河井に従い、常に先陣を務め、また殿軍の大隊長として奮戦した。 会津の飯寺で濃霧の為判断を誤り、西軍に捕らえられたが降伏を拒み、家臣渡辺豹吉と共に斬首された。時に帯刀24歳、豹吉27歳であった。
 碑は篆額は榎本武揚、撰文は三島中洲。
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