霞ヶ城址

⇒霞ヶ城への交通
東北自動車道二本松インターより車で約10分
JR二本松駅から徒歩20分
拝観自由/入場料無料

福島県二本松市郭内3

 二本松藩主が十年の歳月をかけて築いた二本松城。春には桜が、城を覆い尽くす霞のように咲くことから、霞ヶ城の別名があります。

 上写真の門は「箕輪門」と呼ばれ、江戸初期の丹羽光重の建造で、城下箕輪村山中の木材を使用した為、この名で呼ばれるようになったものである。
 <大城代 内藤四郎兵衛戦死之地碑>
 箕輪門の手前、石段の左脇に、大城代内藤四郎兵衛正直戦死之地碑がひっそりと建立されている。
 「式部正置より四伝して、戊辰役の当時の四郎兵衛正直に至り、正直時に大城代たり、西軍の城下に来り迫るや、思えらく、『我は城の主将たり、むなしく内に在って死すべきにあらず』と、すなはち武装して、出て戦はんとして塀重門に至って、傷を負い、割腹して邦家に殉じました。享年五十二歳」(『寺院物語』より)
 
 <二本松藩士自刃の地碑>
 霞ヶ城の本丸への中腹にある碑で、家老の丹羽一学・城代の服部久左衛門・小城代の丹羽新十郎の三人が自刃した土蔵奉行役宅であった場所。
 丹羽一学の辞世の句は
  『風に散る 露の我が身は いとはねど 心にかかる 君が行く末』
 介錯は大島成渡で、直後に大島は役宅に火を放って三名の骸を焼き尽した。
 <丹羽和左衛門・安部井又之丞供養碑>
 本丸の天守台脇にある丹羽和左衛門(66)【新十郎養父】・安部井又之丞(65)【磐根父】二人の供養碑。
 二人は本城にて自刃、丹羽和左衛門は蹠に傷付け、床机に腰掛け割腹し、膝上に広げた軍扇の上に内腑を引き出して前屈みになって絶命したという。
 
 <戒石銘>
 二本松藩五代藩主丹羽高寛が藩政改革と綱紀粛正の為、儒臣岩井田昨非の進言より藩士の戒めとして太鼓石に戒石銘を刻ませたもの。
 『爾が俸 爾が録は 民の膏民の脂なり
       下民は虐げ易きも 上天は欺き難し』
 藩士が登城の際、その戒めとするため、藩庁前に置かれた。

 


 

左上より「二本松少年隊像」「霞ヶ城址碑」、左下「二本松少年隊顕彰碑」「二本松少年隊レリーフ」

 

 

成田才次郎戦死之地

 <成田才次郎戦死之地>
 霞ヶ城前の駐車場(箕輪門向かって左側)の斜め向かいの高台にひっそりと建っている「成田才次郎戦死の地」碑。
 才次郎は、木村銃太郎門下の少年隊士の一人で、当時14歳。大壇口の戦いにて負傷した身で、長州隊長白井小四郎を突き殺し、本人もその場で絶命した。その場所である。

 

 

大隣寺

⇒大隣寺への交通
東北自動車道二本松インターより車で約10分
JR二本松駅から徒歩15分
拝観自由/入場料無料
公式HP→
http://www10.ocn.ne.jp/~dairinji/

福島県二本松市成田町1-532

 丹羽家2代長重の開基で、境内には丹羽家累代の墓、お霊屋、二本松少年隊の墓があり、戊辰戦役直後の藩主の謹慎所や藩庁後の仮事務所や藩校にも充てられていました。
 戊辰の役で戦死した二本松少年隊の16名が大隣寺に眠っています、また歴代藩主の墓もあります。
 
 <二本松少年隊 副隊長二階堂衛守・岡山篤次郎戦死之地碑
 
7/29の大壇口の戦いで、少年隊の隊長、木村銃太郎が腰に被弾、二階堂衛守が介錯し、その銃太郎の首を二階堂衛守(33)と岡山篤次郎(13)の二人で頭髪を二分して持ち退却中、大隣寺の前まで来た時、後方からの射撃により、銃太郎の首級を携えていた二階堂と岡山が被弾し二階堂は即死、岡山篤次郎は重傷であったという。残る少年達は退避、岡山篤次郎は敵の隊長が野戦病院に連れて行き介抱するが甲斐なく死亡する。
 <二本松少年隊士供養塔>
 本堂左脇にある死群霊碑と少年隊戦死者16名の供養塔が立ち並ぶ。死群霊碑の脇にある碑には、少年隊士以外の戦死者の名前が刻まれた碑が建立されている。
 
 <会津藩・仙台藩戊辰役供養所>
 二本松少年隊隊士供養塔の左脇にある『会津藩・仙台藩戊辰役供養所』がある。
 7/29、会津藩は桜井弥一右衛門が朱雀足軽隊を率いて日光口より本宮口に来戦、井深兵之進も又猪苗代隊を率いて本堂方面に奮戦、朱雀隊小隊長小笠原主膳を始め、戦死約30名、負傷数知れず。仙台藩も又戦死44名、負傷34名を出し、この時坂英力は更に二本松を衝こうとするも、兵散乱し果たせず。
 
 <歴代藩主廟>
 ここ大隣寺は丹羽家歴代の菩提寺で、二本松藩歴代の藩主の初代から9代長富までの墓石が並ぶ。(10代長国の墓は東京青山霊園に在り)
 本堂と蔵の間にある石段を登ると左に内室陰墓・家族之墓があり、更にその奥に厳かに並んでいる。
 
 <内室陰墓・家族之墓>
 正室は江戸に住み、側室は領内に暮らした。
 側室は陰の存在として、「内室陰墓」に「家族之墓」と共に並んでいます。(歴代藩主墓手前)
 <成田達寿墓>
 二本松少年隊士の一人で、軍事奉行成田弥格の長男で当時13歳。小野派一刀流に9歳で入門している。(米沢へ行った事になっているが、墓石の脇には「明治元年九月戊辰之役に於て 二本松藩少年隊士行年十三」って刻んで在るんですが…??)  本堂右手の墓域を山の奥の方へ進むと、古い墓が立ち並んでいる。その並び右手の山に入って直ぐの辺りに成田家の墓域がある。
 
 <丹羽和左衛門墓>
 丹羽和左衛門は小城代・丹羽新十郎の養父で、戊辰の際、本城にて安部井又之丞と共に自刃。蹠に傷付け、床机に腰掛け割腹し、膝上に広げた軍扇の上に内腑を引き出して前屈みになって絶命したという。享年66歳。
 
 <内藤隼人正弘墓>
 大城代内藤四郎兵衛の長男で、200石詰番、戊辰の際は銃士副隊長として活躍。弟には大谷志摩隊に所属し29日の白兵戦で戦死した根来梶之助(16)がいる。
 
 <成田才次郎墓>
 少年隊士の一人で、成田外記右衛門の次男で当時14歳。木村銃太郎の門下生で、大壇口で重傷を負った後、才次郎は郭内にて猶戦おうとする処を、叔父篠沢弦之助に会い、再起を図るべしと諭されるが、ただ逃げるには忍びなく、一敵将を倒して後死ぬのみ、と馳せ一ノ丁に至る処へ、偶々長州藩の隊長白井小四郎の一隊と出会う。
 才次郎は、日頃「敵にあったら斬るのでは無く、刺すべし」と教えられた通り、刀を振るい白井に襲いかかるが、白井は憐れみ之を避けようとするが、才次郎の刀が白井の腹部に刺さり白井は倒れる、敵の隊士が才次郎を討ち取ろうとするが、才次郎は応戦するが弾丸にあたり死亡。享年14歳であった。
 <二階堂衛守墓>
 少年隊の副隊長で、大谷信義次男、当時33歳。十人扶持。7/29の大壇口の戦いで、隊長の木村銃太郎が腰に被弾、二階堂が介錯し、その銃太郎の首を二階堂と岡山篤次郎の二人で頭髪を二分して持ち退却中、大隣寺の前まで来た時、後方からの射撃により、銃太郎の首級を携えていた二階堂と岡山が被弾し二階堂は即死、岡山篤次郎は重傷であったという。
 
 <丹羽一学夫妻墓>
 丹羽一学は二本松藩の家老で、主戦論者で、奥羽越列藩同盟締結の立役者でもあった。
 7/27の重臣会議の時点で、大垣藩からの斡旋もあり、降順論に城内はほぼ纏まっていたと言われ、前線から多くの兵が引揚となっているが、27日の深夜、奥羽越列藩同盟に出席していた丹羽一学・丹羽新十郎等が帰藩して藩論は反転、「三春藩の背信は憎むべき事、我等が同じ事をすれば人は何と言おうか。もし西軍に降り、一時社稷を存続しても、東北諸藩を敵にして、どうやって孤城を保てようか。降るも滅び、降らざるもまた滅び、同じ滅びるなら、死んで信義を全うした方が良いだろう」と藩論は纏まった。
 そして、西軍が城下に侵入した7/29には責任者として責任をとり、城の中腹にある
土蔵奉行役宅にて、城代の服部久左衛門・小城代の丹羽新十郎と共に自刃している。

 

 

小沢幾弥戦死之地

⇒小沢幾弥戦死之地碑への交通
東北自動車道二本松インターより車で約10分
JR二本松駅から徒歩5分
拝観自由/入場料無料

福島県二本松市本町1丁目60-1

 歴史資料館・市立図書館の向かい、商工会議所の前に二本松少年隊士小沢幾弥の戦死之地碑が建立されている。
 小沢幾弥は朝河八太夫の門下生で、供中口の戦いで砲撃を浴び負傷、重傷を負った八太夫を背負い退却、坂下門傍に八太夫の骸を葬った後、久保丁坂の中腹で倒れている幾弥を薩摩藩隊長伊藤仙太夫が発見、伊藤が励ましの声を掛けると朦朧とした意識の下から「敵か味方か?」と問うと、伊藤は「味方だ」と言って「遺言は無いか?」と聞くと、介錯を求めるしぐさをした為、伊藤は助かる望みが無い少年に介錯するのも武士の情けと介錯をしてやった。

 

 

坂下門跡

⇒坂下門跡への交通
東北自動車道二本松インターより車で約10分
JR二本松駅から徒歩5分
拝観自由/入場料無料

福島県二本松市本町1丁目60-1

 歴史資料館・市立図書館の向かい、商工会議所の前に坂下門跡が残されている。
 坂下門は久保丁入口に築造された大手門の事であり、通称坂下門と呼ばれていた。九代藩主長富の治世天保3年に幕府の許可を得て着工された。二本松藩の大手門であり、厳しい規制の元にあった城普請であったが、当工事は幕末期二本松藩家老の傑物家老として天下に知られた丹羽久米介貴明の構想で、絵図面構想以上の堂々たる大手門が完成したと伝えられる。
 この坂下門の堀の傍に幾弥は八太夫の骸を埋めた、数日後掘り出してみると、掘り出された土塊は血で固まっていたという。

 

 

蓮華寺

⇒蓮華寺への交通
東北自動車道二本松インターより車で約10分
JR二本松駅から徒歩10分
拝観自由/入場料無料

福島県二本松市亀谷1丁目3

 ほんのり中華風な門構えの蓮華寺。ここには二本松少年隊士の岡山篤次郎の墓があります。
 篤次郎の墓は、本堂左の墓地の更に左側に黄色い手すりがある階段が在り、その手すりの先の左側にひっそりと建立されている。
 <岡山篤次郎墓> 
 岡山篤次郎(13)は木村銃太郎の門下生で、戦死した銃太郎の首級を副隊長の二階堂衛守と頭髪を二分して持っていたが、大隣寺前で狙撃され重傷を負い、野戦病院で介抱されるが、うわごとで「銃をよこせ 弾をもっと・・・」と呟き、介抱にあたった西軍隊長・土佐藩士の広田弘道は『是非回復させ養子に貰い受けたい』と言っていたそうだが、介抱の甲斐もなく死亡。 広田はこの勇敢な少年に対して「今敦盛」と呼び、反感状を送ったといい、その内容は墓石に刻まれている…そうだが風化してしまっていて読み取れなかったデス…。

 

 

大壇口古戦場

⇒ニ勇士の碑(大壇口古戦場)への交通
東北自動車道二本松インターより車で約10分
JR二本松駅から
拝観自由/入場料無料
福島県二本松市
 大壇口は奥羽街道に面し、藩史には「大壇は城東第一の要地にして、奥羽街道を扼し、左右は樹木鬱蒼たり。坂峻く地険に、我が兵胸壁を繞らして之を守る」とあり、二本松藩の奥羽街道よりの要所であった。慶応4年7月29日、午前7時ごろ供中口で戦闘が始まり、奥羽街道の小川隊が守る尼子台に板垣率いる軍勢が攻めるが苦戦、本宮の臼砲隊に応援を求め、先鋒が尼子台の小川隊を引き付け、本隊は村落の東端に散開し、丹羽右近の守る大壇口を包囲。
 この大壇口には丹羽右近隊三小隊と木村銃太郎率いる少年隊との約百名が守備、午前9時ごろ開戦、激戦を極めた。高田口から援軍に駆けつけた奥田午之助(15)が戦死、他にも多数の負傷者を出し、隊長である木村銃太郎も重傷を負い、二階堂守衛が介錯している。
 <ニ勇士の碑> 
 大壇口の番所の前で、青山助之亟(21)、山岡栄治(26)が、城下侵入の為隊伍を組んで進軍していた薩摩藩兵に対し、二本松兵の退却の援護も兼ね、苛烈な切り込みを行い二人は9名程を矢継ぎ早に切り倒し、薩摩藩兵はその勢いに兵の多少も判断しかね一度退却まで行い、その為に薩摩藩兵は二本松攻撃に遅れたほどであり、二人は遂に壮烈にも斬死する。
 当初、この両青年の最期は二本松の人々には知られていなかったが、明治31年に野津大将が語った事で始めて知られる事となったという。農民の話では、青山は銃弾、山岡は袈裟斬りで戦死していたいという。
 
 <木越安綱歌碑>
 上で紹介したニ勇士を讃えて当時西軍の隊長であった野津道貫と陸軍大将従二位木越安綱の歌碑がある(…というが、野津の歌碑は解りませんでした…どれだったんだろう…)
 野津道貫
 『うつ人も うたるる人もあわれなり ともにみくにの 民とおもえば』
 木越安綱
 『色かへぬ 松間の桜散りぬとも 香りは千代に 残りけるかな』
 <木村銃太郎戦死の地碑> 
 木村銃太郎は、藩公の命により、江戸に出て江川太郎左衛門の門に入り洋式の砲術を学び帰藩、父貫治の開く武衛流砲術道場にて西洋流砲術を教えており、この時共に戦った少年達の大半は銃太郎の門下生であった。
 大壇口の戦いの最中、左腕を銃弾が貫通、退却する為少年達を集め訓示しようとした際に、銃弾が腰部に狙撃され、自らこの傷では動けまいと悟り、介錯を頼み、副隊長の二階堂守衛が介錯、遺体を少年達は泣きながら埋葬し、首級は岡山篤次郎と二階堂守衛が頭髪を二分して持ち退却したが、二人も大隣寺前にて狙撃され二階堂守衛は戦死、岡山篤次郎も重傷を負い、病院にて没する。

 

ニ勇士の碑の向かい側の高台。
本当の古戦場は、この向かい側の高台にあり、画面右脇に見える橋桁の下に旧奥羽街道が通っており、
西軍は朝もやの中を奥羽街道を進軍、木村隊はこの奥州街道に正対するこの高台に陣をはり攻撃を行ったという。
しかし、写真に写っているようにバイパスを走らせるため、反対側の現在の位置に移された。

 

 

供中口古戦場

⇒供中口古戦場への交通
東北自動車道二本松インターより車で約10分
JR二本松駅から
拝観自由/入場料無料

福島県二本松市

 二本松藩では、上ノ内より引上げてきた樽井隊に兵力を補充して、この供中口に派兵した。供中を樽井隊、高根隊に高田口を、後方の愛宕山には朝河八太夫と門下の小沢幾彌(17)と農兵達が、三森丁には上田隊と来援の会津藩兵五個小隊があったという。
 <供中口古戦場> 
 この供中口では、慶応4年7月29日午前7時ごろ開戦、二本松藩は樽井隊を中心に陣を張っていたが、樽井隊が破られ西軍は更に進軍、後陣の愛宕山に陣を張る朝河八太夫と小沢幾彌が大砲にて応戦、西軍を悩ませるが、戦況不利となり、八太夫は農兵に金子を与え帰宅させる。その後近くで破裂弾が破裂し八太夫は瀕死の重傷を負い、幾彌も重傷を負った。幾彌は八太夫の命令で大砲の目釘を抜き、八太夫を背負って退却、その後大手門の前で力尽き倒れていた幾彌を西軍の隊長が発見し、乞われて介錯をしている。
 
 <三浦義彰戦死之地碑>
 三浦権太夫義彰は丹羽丹波へ「人材を登用し、能吏に任じて兵制を改革し、軍備を充実すべし。また冗費を節約すべし。さらに費用が続かねば、三百石以上の重臣の俸給を半減すべし。」という藩政刷新を説いた建白書を送り付け、その結果、重臣たちの反感を買い、投獄処分となったが、戊辰戦争が始まると許され、藩命により農兵を率いて藩境の杉沢村に出陣、のち後退し供中口を防備する。
 しかし、勤皇の志篤かった義彰は出陣姿は烏帽子に直垂、また鏃をはずした矢で西軍と応戦し、農兵を退却させた後、自刃して果てた。
 辞世の句は「あす散るも色は変わりじ山桜」
で、大正7年、東軍では唯一靖国神社に合祀された人物である。

 

脇に建っている「三浦権太夫義彰戦死の地」の看板

 

 

観世寺

⇒観世寺への交通
東北自動車道二本松インターより車で約10分
JR二本松駅から
拝観自由/入場料無料

福島県二本松市

 鬼婆伝説の黒塚で有名なお寺。
 安達が原の鬼婆伝説は下で紹介させて頂きますが、後に調べた所、この安達が原の鬼婆伝説、実は蓑笠庵梨一によって江戸時代に書かれ、今でも芭蕉の「おくのほそ道」の第一の注釈として名高い「奥細道菅菰抄」によると、安達が原は二本松の安達が原ではなく、本来は現在の埼玉県の大宮(旧武州足立郡大宮)の『あだちが原』であるという。・・・まさかこんなトコで埼玉が出てくるとは思いませんでしたが。
 でも、やっぱり私のイメージは二本松の安達が原が良いです…。
 <三浦権太夫墓> 
 三浦権太夫は、農兵を逃した後、阿武隈川の渡しの船頭に頼み、自らの遺体は阿武隈川の近くに葬って欲しいと頼み、実際に戦死の地に近い、観世寺に埋葬された。
 観世寺の境内内ではなく、門を過ぎた脇の道をちょっと入ったところに、三浦権太夫の墓の案内板があり、その階段を登った先に三浦家の墓域がある。
 
 <鬼婆(岩手)の住処とした岩屋>
 昔、あるお姫様の乳母をしていた「岩手」という老女が、ある日世話していた姫君が病に掛かり、『妊婦の腹の中にいる赤子の生き肝を飲ませるしかない』と陰陽師に宣告された。
 岩手は安達が原に住み着き、左写真の岩屋に棲み家をつくり、ある日旅の妊婦の夫婦が宿を求めてやってきた、その日の晩、妊婦は産気づき、亭主は産婆を呼びに出かけ、岩手は千載一遇と妊婦を襲い赤子の生き胆を手に入れる、
 しかし、その妊婦が、実は生き別れた自分の娘恋衣であった事をしった岩手は気が狂い、以来旅人を襲っては喰うという鬼婆となり、後に行脚僧・祐慶が退治したといわれています。

 

 

真行寺

⇒真行寺への交通
東北自動車道二本松インターより車で約10分
JR二本松駅から
拝観自由/入場料無料

福島県二本松市

 真行寺には、長州藩士白井小四郎の墓がある。
 白井小四郎の墓は、山門入って左の墓域入ってすぐにあり、案内板も出ているので、容易くたどり着く事が出来ます。
 <白井小四郎墓> 
 白井小四郎は長州藩隊長であったが、二本松城下戦の際に、重傷を負った二本松少年隊士の一人成田才次郎(14)に行き逢い、少年だからと油断し見逃そうとしたところ、才次郎は予てより『斬らずに突け』と教えられたとおり白井小四郎を刺す。
 白井は自らの油断が招いた事として、才次郎の勇敢さを讃え、兵には「殺してはならない」と言うが、怒り狂った兵たちの耳には届かず才次郎は銃殺される。
 才次郎の父は、息子の墓参の前に白井小四郎の墓に行き、香華を手向けたと言われている。

 

 

台運寺

 
 <少年隊士/中村久次郎墓>
 中村久次郎は10人扶持中村幾馬の弟で当時17歳。
 慶応4年7月27日の上(城)之内の戦い【白沢村の頁を参照】に、同じ少年隊士岩本清次郎(17)等と参戦し、岩本・中村の両名は迫り来る西軍と最期まで銃戦に当たり戦死した。後に、両名は上之内の二銃士と讃えられたという。

 墓は、本堂向かって左の墓域入口に地蔵堂がありその脇の道を墓息内に向かって直進、焼却炉の更に先に小さくひっそりと建立されている。

 
 <少年隊士/奥田午之助墓> 
 奥田午之助は100石奥田権之助長男で、当時15歳。
 慶応4年7月29日、供中口に高根隊の一員として西崎銀蔵(14)等とともに配属され守備についていたが、供中口が破れると、同じ少年隊の仲間のいる大壇口に走り、大壇口の戦いに参戦、被弾し戦死している。

 中村久次郎の墓近くの焼却炉脇の道を登っていき、頂上近くの右脇に奥田氏代々之墓として建立され、墓石裏面には午之助の名前が刻まれている。

⇒台運寺への交通
東北自動車道二本松インターより車で約10分
JR二本松駅から
拝観自由/入場料無料

福島県二本松市

 郵便局の脇の道を直進すると、山門が見えてくる。
 他にも青山助之丞や上崎鉄蔵等の墓もある(…ハズなんですが、今回は時間が無くて発見出来ませんでした。・゚゚・(>_<;)・゚゚・。次回リベンジ)