慈眼寺

⇒慈眼寺への交通
JR上越線小千谷駅よりバスで小千谷本町西バス停下車徒歩7分。
拝観自由/拝観無料
HP⇒
http://www7a.biglobe.ne.jp/~jigenji/index.htm

新潟県小千谷市平成2-3-35

 河井継之助と岩村精一郎との会談で有名な慈眼寺。
 もしこの会談で岩村が長岡藩の中立を認めていたら、全然違う歴史を辿っていたかもしれません。

 
本堂左に寺務所があるので、そちらにお願いすると内部を見学させて貰う事が出来ます。(※お寺に迷惑にならないようにお願いします)
 
 <岩村軍監河井総督会見記念之碑>

 本堂前にある「岩村軍監河井総督会見記念の碑」ドラマでも有名な河井継之助が岩村精一郎と長岡藩の中立と、会津藩の降伏斡旋を会談した事を記念して昭和14年、慈眼寺住職船岡芳快の発願によって建立されたもので、碑文は徳富蘇峰の撰である。
 
 <岩村河井会見の間>
 本堂向かって右側にある会見が行われた間。
 岩村精一郎は、土佐藩士で、北越追討山道軍軍監で当時23才、一方、河井継之助は長岡藩家老上席軍務総督で当時42才の名宰相であった。

 長岡藩は新政府軍と会津藩との板ばさみで苦慮し、河井継之助は「中立」という立場をとり、長岡藩を救おうと考え、岩村に嘆願書を差し出すが、岩村は認めず、その後交渉の決裂した河井は越後諸藩と共に奥羽越列藩同盟に加入し、新政府軍に烈しく抵抗したのである。

 この会見の間の脇の廊下には、戊辰戦争に関係した資料や縁の品が展示されている。

 

 

船岡公園(官軍墓地)

 

 上の慈眼寺から約徒歩20分程度の所にある公園で、気持ち「船岡山公園」というべきでは?とか思うほどの小丘になっていて、山全体が公園となっており、官軍墓地はその頂上にありました。(春には桜の綺麗な公園だそうです)

 この官軍墓地には小出・小千谷での西軍の戦没者が葬られ、199基の墓がならんでいます。

拝観自由/拝観無料

 
 官軍墓地の中に山県有朋の撰文による「時山直八君之碑」が建立されている。慈眼寺での交渉決裂の後、岩村に代わって指揮を仮参謀の時山直八がとるが、朝日山の戦いで桑名藩雷神隊の三木重左衛門狙撃されて戦死。 時山と山県は共に下級武士の出身で、同じ31歳。共に吉田松陰門下生で奇兵隊の盟友であった。この時山県は有名な「あだ守る砦のかかり影ふけて夏も身にしむ越の山風」という歌を詠んだ。

拝観自由/拝観無料


雪峠

⇒雪峠への交通
関越道越後川口ICより車で15分

新潟県小千谷市池ヶ原の南(地図

 慶応4年閏4月26日、小千谷の南方にあるこの雪峠にて陣を敷いていた今井信郎等率いる衝鋒隊の中隊80名が、侵攻してきた新政府軍約八千の大軍相手に地の利を生かし、一時は押し返したが、結局、夕方となり勝敗は付かず、夜半に敵の別働隊の迫り来るを知り、衝鋒隊は撤退し、この雪峠の地は新政府軍に奪われたのである。

 碑の裏側に「昔戦場 今農場」と刻まれた文字が印象的でした。



浦柄神社

 

 朝日山古戦場への麓にある浦柄神社内にある「戊辰戦蹟記念碑」は山本五十六の書で昭和16年に建立されたものである。

長岡市大黒町
拝観自由/拝観無料

<朝日山殉難者墓碑>

 慶応4年5月11日から長岡藩の最前線として烈しいが激戦行われ、長岡・会津藩等同盟軍が朝日山を奪取すると、13日には新政府軍が再奪取せんと奇兵隊を中心に早朝より激戦が始まり、参謀時山直八等多くの兵が戦死した。
 戦後、東軍の遺体は西軍により埋葬を禁じられ、各地に朽ちるに任せられた。そして、昭和28年に戦死の地に墓標を建て、遺体を手厚く葬ると同時に22基の石碑を建てて英霊を祀った。
 墓碑(墓標)に
会津藩の少年で新国英之助(16歳)があり、これは戦後二十数年を経て父が遺体を探し当て建立したものである。

 浦柄神社の境内脇の墓地にある会津藩などの死者22人の墓碑が並んでいる。

 

朝日山古戦場

⇒朝日山古戦場の交通
県道291号線沿いに朝日山古戦場入り口の案内がある。
拝観自由/入場料無料

新潟県小千谷市浦柄

 慈眼寺での交渉が決裂した河井は抗戦を決意。奪われた要所朝日山を奪回すべく時山直八率いる西軍と激戦が行われ、西軍を敗退させる。この戦いで西軍は仮参謀時山直八が戦死した。

 現在、頂上まで軽自動車なら楽に登れる道が出来ている…が、軽でも運転技術が覚束ないと崖下へまっさかさまなので、車で行く際は運転慣れしている人の運転が良いでしょう。



 

朝日山の頂上までの道と頂上で合計5箇所(他にもあったかも?)ある東軍兵士の墓のうちの4つ。

 

 朝日山頂上にある東軍構築のフランス式塹壕跡。今でもはっきり残されている。
 
 朝日山山頂にある東軍野営地跡。
 朝日山山頂にある時山直八戦死の地。慶応4年5月13日未明、濃霧の中時山直八率いる200名が朝日山に奇襲作戦を慣行するも、時山直八は桑名藩雷神隊の三木重左衛門狙撃されてこの地より80m先で戦死する。
 余りの激戦に西軍兵士は時山の遺体を収容する暇もなく、首級だけ携えて退却した。
 
 同じく山頂にある「第一砲塁の地」跡。