大垣城

⇒大垣城への交通
JR大垣駅より徒歩7分
拝観時間:9〜17時(入場は〜16時30分)
入場料:大人100円、小・中学生50円
休館日:火曜日(祝日の場合は翌日)、祝日の翌日、年末年始。

岐阜県大垣市郭町2-52
 大垣城は古くは応仁年間に東大寺城とよび、当時の城主は大井荘の石包名という地域の代官をしていた大垣氏で、その為大垣城と呼ばれるようになった。天文4年宮川安定が城郭を築き、永禄2年大垣城主氏家卜全が城郭の建築工事を行った。
 天正13年秀吉は一柳直末を城主とし天守閣の造営を命じ、同16年四層四階の天守閣として完成。その後石川氏、松平氏、岡部氏を経て寛永12年から戸田氏が城主となり、幕末には幕府方の雄藩として禁門の変などで活躍するが、鳥羽伏見の戦いで破れると、藩老小原鉄心は藩論を勤皇に纏め新政府軍に恭順、以後戊辰戦争では最前線にて転戦した。
 城内は資料館になっていて、関が原の戦い等の史料等が展示されています。

 

 
 <戊辰の役顕彰碑>
 天守閣裏に存在する碑で、現在屋根の瓦の落下により危険であるということで天守閣裏側一帯が柵に覆われてしまっていて、天守閣入口から少し遠いが見ることしか出来ない。
 碑文には「明治維新に当り大垣藩主戸田氏共公は家老小原鉄心の意を採り戊辰の役にその進路を誤らしめなかった。本年戊辰の年を期に大垣城跡に記念碑を建立しその偉業を顕彰する」としている。…まあ実際の処鳥羽伏見の戦いでは東軍で戦っていて、幕府方が敗れたから新政府軍に恭順しただけの事なのですが…、これまで幕府方として最前線で戦って来たっていう手前もあって、大垣藩は結構東北攻めには最前線に駆り出され多くの死者を出していますので、まあ…なんというか…。
 
 <贈正五位鉄心小原是水君碑>
 小原忠寛、号を鉄心という。ペリー来航に際しては藩兵を率いて浦賀奉行戸田氏栄を助けた
 小原鉄心は、文久三年(1863)の禁門の変では伏見において福原越後率いる長州藩兵を駆逐した。大垣藩は勤皇派に藩論が流れていたにも係わらず、藩論を纏めきれず鳥羽伏見の戦いの際には幕府軍として出陣、しかし幕府軍が敗れると、小原鉄心は大垣藩藩老としていち早く藩論を恭順に纏め新政府軍に恭順した。維新後は新政府に出仕し、大垣藩大参事を務めるが、病に掛かって辞職し明治五年に52歳にて没。

 

 

全昌寺

⇒全昌寺への交通
JR大垣駅南口(5)のりばから発車の近鉄バスに乗車、
「船町港跡」下車
拝観自由/拝観無料

岐阜県大垣市船町2丁目21

 新撰組隊士市村辰之助、鉄之助兄弟と、大垣藩家老小原鉄心の墓がある事で知られるお寺。境内には鉄心の別荘を移築した建物もあるそうです。また、帰ってきてから知ったのは、同じ墓地内に「鳥羽伏見・東征での戦死者62名の墓」があった事を知りました…。

 

 
 <市村辰之助・鉄之助墓>
 言わずと知れた新撰組隊士であった市村鉄之助とその兄市村辰之助の墓です。場所は本堂右にある墓地の中程右端に新しい墓で存在します。写真には写ってませんが脇には墓と同じ位のサイズの観音様(?)が建ってますので、それを目当てに探してみてください。
 辰之助の戒名が『有隣院一官宗徳居士』、明治5年2月7日没。
 
 <小原鉄心墓>
 大垣藩藩老、小原鉄心の墓。墓地に入って直ぐ右にあるので解り易いとおもいます。また境内には、林町にあった別荘無何有荘を移築した建物もあるそうです(未見ですが/汗)
 鉄心の子兵部は鳥羽伏見では兵を率いて幕軍として参戦、この時新政府の参与となっていた鉄心は、家臣の菱田海鷗に兵部に対する帰順の説得を命じ、「もし聴かなければ兵部を斬れ」とまで命じたという。