一心寺


⇒一心寺への交通
市営地下鉄谷町線「天王寺駅」より徒歩15分

開館時間:9:00〜16:00/入場無料

大阪府大阪市天王寺区逢阪2丁目8-69

 天王寺公園内にある寺。門の異様さに驚きます。正式名は坂松山高岳院一心寺、浄土宗の寺で、開基は文治元年(1185年)。 大坂冬・夏の陣では徳川家康が本陣としたともいう。
 この寺は、10年目ごとに納骨された骨にて「お骨佛」が造立されるという「お骨佛の寺」ある。
 境内の墓地には、著名人の墓も多く点在し、大阪夏の陣によって戦死した本多忠朝の墓の他、鳥羽伏見の戦いによって戦死した会津藩士の墓もある。
 <会津藩士墓地>
 山門入って、すぐ左に行くと「酒封じ本多出雲守忠朝」の大きな墓所があり、その丁度裏手に、ひっそりと鳥羽伏見の戦いで戦死した会津藩士達の墓がある。白井五郎太夫、原源右衛門俊秀、小池勝吉、高橋金兵衛、山本慶助、木本左門、野田清次郎、三瓶鉄蔵勝直、有賀武次郎、黒河内只四郎等の墓がある。
 史料にも次ぎのような記述が残されている。 「六日大坂着、此夜、
白井隊長小池組頭の遺体を大坂一心寺本堂正面の慶長元和大坂陣の戦死者を葬りありし傍らに、他の我が藩の戦死者と共に葬る。」(会津藩大砲隊戊辰戦記より) 「此の夜元白井隊士等白井五郎太夫、小池勝吉の遺骸を大阪寺町一心寺に葬る。」(会津戊辰戦史より)
 
  <白井五郎太夫墓>
 会津藩士達の墓の中で、一際大きいのが砲兵隊隊長白井五郎太夫の墓である。禄高は500石。名は胤忠。「鳥羽伏見の戦い」で大砲隊隊長として鳥羽街道を進み、奮戦するが1月5日負傷し、淀で死去。享年37歳。

 史料には次ぎのようにある。
 「続て
(白井)隊長も丸に当り重傷を負うも猶口に進め懸れの声を絶たす。」(会津藩大砲隊戦記より) 「五郎太夫既に傷を蒙るも顧みず、自ら砲を発して衆を励まし遂に重傷を負う。」(会津戊辰戦史より)
 <小池勝吉墓>
 会津藩大砲隊白井隊組頭であった小池勝吉の墓。
 遊撃隊隊長として戸ノ口原にて戦死した小池繁次郎(500石)の倅。
 鳥羽伏見の戦い1月5日の戦いで奮戦の後、弾丸に当り戦死。享年23歳。史料には、
 「『此を敗られて誰に面を合わすべき、此を死所とし戦うべし』と組頭小池勝吉衆に挺て奮闘するに面々之に励まされ苦戦中小池組頭弾丸に当って斃れる。」(会津藩大砲隊戊辰戦記より) 「組頭小池勝吉突進して斃れ、海老名郡冶亦傷つく」(会津戊辰戦争より)