大龍寺

⇒大龍寺への交通
東北自動車道白河ICより車で16分。
拝観自由/拝観無料

福島県西白河郡西郷村大字羽太字狸屋敷164
 戊辰の際、この下羽太の地で激戦が行われ、上総飯野藩森要蔵とその子息虎尾(16)を含む飯野藩士と会津藩士・仙台兵等が戦死、飯野藩士は28名が来援していたが、要蔵を含め22名が死傷し失っている。
 <戊辰役戦死墓>
 7月1日の下羽太戸の内の戦いで戦死した人々の供養塔である。  森要蔵は、かつて剣術を千葉周作に学び、江戸に教授し門弟1千余人に及んだ。その門弟に土佐藩士の川久保南皚という人物がおり、戊辰の折白河に宿陣していた。その折、土佐藩が斬獲した首3つあり、よく見ると師・森要蔵とその子虎尾、門弟花澤金八郎であった。南皚は要蔵は宗家の危急を援けて此に至るのだろうと察し、「武士の殉義誠に哀しむべきなり」と隊中にいた要蔵の門弟に今日の顛末を告げ、厚く三士の首級を白河寺町の某寺に埋葬せしめたという。
 此の日我が兵、仙台、二本松、棚倉の兵は大平口を発し、下羽太より下柏葉野村に至り、左右の壘壁に兵を置き友平新三郎、東海林貞之進をして金勝寺山上より野戦四斤砲を発射して白河城を攻撃せしむ、砲弾命中し西兵大に散乱す、上田八郎右衛門、蜷川友次郎、赤埴平八、仙台の大立目武蔵、細谷十太夫等各ゝ兵を率いて中山及び雷神山より進み、急に古天神の西兵を撃つ、西兵敗走して立石山に退く、二本松の兵立石山下に進みて之を追撃す。
 原田主馬、土屋鐡之助等連りに進んで激戦すること良ゝ久し、西兵別軍を以て東軍の背後に出で、
火を上羽太、下羽太、関屋等の民家に放つ、総督原田対馬は山口次郎の兵及び上総飯野藩の兵三十六人を率いて柏葉野逢隈川の壘を発し、雷神山の西兵を撃つ、苦戦利あらず飯野藩の兵も亦苦戦す、其の隊長森要蔵生年五十九、身を挺して進み、刀を揮って縦横奮撃、流血淋漓遂に敵兵三人を屠りて戦死す、要蔵の次子虎尾僅かに十六歳、紅顔の美少年なりしが、父と共に奮戦して死す、東西両軍之を視る者歎惜せざるはなし。(会津戊辰戦史より)

 

南湖公園

 

⇒南湖公園への交通
東北自動車道白河ICより車で12分。
JR白河駅よりバス「棚倉」行きで10分「南湖公園」下車、徒歩3分
公園内自由
公式HP⇒http://www.shirakawa.ne.jp/~kyokai/nanko/

福島県白河市南湖

 南湖は藩主松平定信が1801年に築造したもので、身分の区別なく領民に開放した日本初の公園といわれる。園内には松平定信の銅像も建立されている。
 また、南湖十七景を選び、詠んだ歌を石に刻んだ石碑が今も残る。
 この南湖沿いの高台に、戊辰戦争の際の棚倉藩士の戦死者を祀る鎮英碑が建立されている。
 <棚倉藩鎮英碑>
 戊辰戦争の際の棚倉藩戦死者の霊を祀る為、明治17年に建立されたもの。湖に面した高台にあります。(茶室傍)

 

 

松並

 

⇒松並(稲荷山)への交通

拝観自由/拝観無料

福島県白河市白坂

 <会津銷魂碑>
 この松並の地は、北に稲荷山がそびえ、白河の戦いでの激戦地となった。閏4月25日、同盟軍は一旦は新政府軍を退けるも、5月1日の再びの来襲の際、総督西郷頼母、副総督横山主税は、この奥州街道に面する稲荷山に陣を張り迎え撃つ、白河戦最大の激戦が行われ、同盟軍は多大な犠牲を払い敗走。
 西郷頼母は敗兵を纏め勢至堂に退き、この後何度と無く奪還戦が行われるが奪還する事が出来ずに戊辰戦争は終結する事となる。
 上の銷魂碑には、横山主税等白河の戦いで戦死した三百四名の名前が刻まれている。銷魂碑の題字は松平容保の書によるものである。
 <会津藩戦死墓>
 
会津藩は副総督横山主税、軍事奉行海老名衛門、一柳四郎左衛門、日向茂太郎等食禄百石以上の者も29名、外士卒合わせてニ百余戦死した。
 
会津藩士 田辺軍次の墓
 岩代国河沼郡佐野村(現:湯川村)の田辺熊蔵の長男に生まれ、戊辰戦争後、斗南に移住するも白河口の大敗は白坂村の庄屋大平八郎が西軍に間道を教えたからだとして斗南を脱走し、一ヵ月後八郎を斬った後自らも自刃した。
 墓は大平八郎の養子直之助が観音寺に建立したが、後会津会によって、現在の会津藩戦死墓の側に改葬された。
 長州大垣藩六人之墓
 この墓には、慶応4年4月25日の戦いで戦死した長州藩・大垣藩士6名が埋葬されており、大正4年までは薩摩藩士七名も一緒に埋葬されていたが改葬されている。

 

 

観音寺

 

⇒観音寺への交通

拝観自由/拝観無料

福島県白河市

 観音寺の堂右脇から裏の墓域に至るルートを進み、墓域の真中の坂道より手前の墓域中頃を右に入ると大平家の墓域あり。
 それより手前にある灯篭のある一角に長州・大垣藩士の墓あり。
 また、坂道をまたいだ反対側の同じ並び右壁沿いには会津・仙台藩士墓あり。
 <大平八郎墓>
 白河郡白坂村に生まれる。白坂村の庄屋として天保の飢饉の際にも、藩に隠して米を取り置き、その米を村人に分け与えた為、村人に慕われた。
 戊辰の際、西軍に請われ間道を案内し、その為同盟軍は苦境に陥り大敗戦、新政府より感謝状を貰う。
 しかし、その為会津藩士田辺軍次により惨殺され、大平家は白坂に居づらくなり、白坂の村を出たという。
 その八郎の養子直之助は、仇である田辺軍次の墓を観音寺に建て葬った。
 
<会津藩士 鈴木儀之助墓>
 鈴木儀之助は、石高16石2人で、戊辰の際は青龍寄合一番隊に所属、白坂の戦いで5月26日戦死している。享年46歳。
 <仙台藩家中 斉藤直三郎墓>
左上より「長州藩岡勝熊正義墓」「大垣藩 酒井元之丞重寛(25)/瀬口光忠(22)/松岡惣兵衛重勝(18)墓」  下段 「後藤基充墓」
※長州・大垣藩士墓にある灯篭は、白坂集落の人々が、遠く東北の地で若くして亡くなったのを憐れみ建てたものだという。

 

 

境の明神

 

⇒境の明神への交通
東北自動車道白河ICより18分(国道294号沿い)
拝観自由/拝観無料

福島県白河市明神

 玉津島神社と呼ばれ、奥羽側の住吉神社と並立している。
 1053年4月14日、紀州和歌浦の玉津島神社の分霊勧請と伝わる。起源は峠神として生まれ、奥州街道が開かれると、交通の発達と共に発展したが、明治に入って新国道や鉄道の開通によって衰退したと見られる。
 ことに明治39年12月の火災により類焼し、昔日の面影を失ってしまったが、旧東山道沿いの「追分の明神」とともに、道中安全の神として古い歴史を偲ばせる貴重な史跡である。(説明板より)

 <白河藩藩境碑>
 白河を占領した会津藩兵は、この白河藩の藩境碑を倒し、「從是北会津領」との木柱を建てたという。
 境の明神の斜め向かいの高台にひっそりと建立されている。
 この藩境碑が建っている国道294号は旧奥州街道で東北への入口となる、その為、この先(手前)にある稲荷山に陣を敷いて新政府軍を迎え撃った。

 

左「境の明神から栃木県側を見る」 / 右「境の明神から福島県側を見る」
藩境が現在も県境となっている為、境の明神で福島県と栃木県が分かれる。