白沢村


城之内古戦場

 

⇒城之内古戦場への交通
JR本宮駅より車で15分。東北自動車道本宮ICより
見学自由/入城無料

福島県安達郡白沢村糠沢字城ノ内65(地図

 県道28号線沿いの城ノ内地区に、商店がありその脇に上の縦看板があります。その脇にある農道を登ると一軒家があります。更にその分岐を左に入り、登りきった処を右に(道無き道です。轍は左へ折れますが右折で…)進むと、正面に竹薮が見え、更にその左側に奥へと入る道があるので、それを更に進むと突き当たりの上段と下段に其々下の写真の合葬墓があります。
 <軍卒合葬塔>
 この城(上)之内の戦いでは約60余名の戦死者を出している。戦後、東軍の骸は、地域住民が葬る事との命令により合葬したもの。
 住民は今でも定期的に草を刈り、供養を続けている。
 この合葬塔に至る途中にある民家脇にある大きな枝垂桜を目掛け、西軍は砲撃を行ったそうだが、その木の陰に隠れて助かった者もいたらしい。
 
 <戊辰戦役戦没者墓>
 城(上)之内の名主宅を本陣として待機していた二本松藩樽井隊ニ個小隊は、7/27明け方薩摩軍よりの一斉射撃を受ける。見張りや偵察の甘さもあるが、薩摩軍の奇襲の素晴らしさあり、二本松兵は即刻応戦するも寸時にして破れる。『白岩郷土誌』には「二十七日未明、西軍数百名にて襲撃、兵火にかかりし家屋登那木(登梛)氏他三十ニ戸、死傷六十余名」とある。
 二本松兵は「随時退陣、二十八日朝 亀谷光現寺に集合」が下命され、多くは和田・西荒井・平石・大平などを経て城下に逃れた。翌朝光現寺に集合したのは、僅かに8名であったという。130名中生存者は僅か17名であった。

 この戦いに、武藤定助(15)、田中三治(16・戦死)、岩本清次郎(17・戦死)、中村久次郎(17・戦死)が参戦していた。岩本・中村は木村門下生で、後に上之内のニ銃士と讃えられた。

 

 

 

大玉村


三十一人戦死の墓

 

 <三十一人戦死の墓>
 慶応4年8月20日、本宮から進出し、この山入村(玉井村)に入った西軍と、二本松を奪還すべく、母成峠より進出した会津藩・伝習隊との間で戦いが行われ、夕刻戦力に乏しい会津軍が敗退、伝習隊のみが奮戦するも西軍に包囲され、大損害をだし母成峠へ敗退して行った。
 後に残った会津・伝習隊有志31名、戦利有らずとして枕を並べて自刃した。
 この戦いで、会津・伝習隊の死者43名、二本松藩兵戦死者1名、西軍戦死者4名であった。(自刃・戦死者中、会津藩士は梶田銀蔵・原政治・吉田長治の3名で、何れも猪苗代隊井深組
所属であった
 
 <二本松少年隊士墓>
 久保鉄次郎(15)・豊次郎(12)兄弟の墓。
 豊三郎(12)は大壇口の戦いで負傷し、落城の際には岳温泉方面へ敗走し、会津の丸山四郎左衛門方にて保養していたが、藩士の多くが庭坂村に集結しているのを知り、二本松に向う途中の、ここ玉井村の野戦病院に破傷風の為入院、11月1日没した。
 また、兄鉄次郎(15)も戦傷で、同じここ玉井野戦病院に入院していたが、兄弟ともそれを知る事が無いまま、兄鉄次郎も12月6日に没した。
 <西軍兵士墓>
 長州藩士吉村熊之助(21)、薩摩藩士伊座敷全之進(19)、薩摩藩次郎、土佐藩士近藤楠馬(22)4名の合祀墓
三十一人戦死の墓への交通
東北自動車道本宮ICより車で25分。
見学自由/見学無料
大玉村公式HP⇒
http://www.vill.otama.fukushima.jp/index2.html

福島県安達郡大玉村玉井字亀山(地図

 玉井小学校を過ぎて、更に進むと途中右に登る分岐があるので、そこを登ると左手に八坂神社が見える、そこを通り過ぎて左手の道の脇、林の中に三十一人戦死之墓と上の二基の墓石が建立されている。