西来院

⇒西来院への交通

■浜松駅より
バスターミナルA乗り場より
 「医療センター」行きバスで約12分「広沢1丁目」下車徒歩5分。
■浜松駅バスターミナルB乗り場から、西循環鴨江廻りで
   約15分「西来院裏」バス停下車。
境内自由

静岡県浜松市中区広沢2-10-1

 曹洞宗、高松山と号し、寒厳派十三派中月窓派と称した。月窓義運禅師が正長元年(1428)に自力開創し、本尊は釈迦牟尼仏である。
 墓苑には、徳川家康正妻であった「築山御前」の墓や、会津藩士で「七年史」を著した「北原雅長」の墓などもある。

 

 
 <北原雅長墓>
 1842年生〜1913年7月24日没 戊辰時27歳。会津藩家老神保内蔵助の次男で、実兄は鳥羽伏見の戦いで慶喜に東歸を促したとして責を問われ自刃した神保修理。会津藩家老九家の一つ北原家一族の北原光吉の養子となる。守護職を拝命すると藩主容保に従って上洛。禁門の変の戦闘にも参加し、会津戦争では母成峠で大鳥圭介等の隊の参謀役を務めた。謹慎中には萱野権兵衛の最期を見届け、芝興禅寺埋葬。赦免後、工部省に勤務更に秋田県権大属・長崎県少書記官等を歴任、従六位に叙せられる。明治22年4月1日には同じ旧会津藩士であった日下義雄長崎県知事に見いだされ明治22年初代長崎市長となる。同31年8月、東京下谷区長。晩年浜松市に住み、同37年『七年史』を記し、御宸翰の存在を明かし会津藩が逆賊ではなかったことを公表するも、不敬罪で拘留された。享年71歳。 墓は、築山御前墓前の通りを墓域奥に進み、コンクリート道の2つ目クランク過ぎて直ぐの左に入る通り入って2基目。
 <築山御前墓>
 (天文11年(1542)生〜天正7年8月29日没)徳川家康の正室。別名を鶴姫という。今川家一門、瀬名家の関口義広娘で、母は今川義元妹。
 今川に人質となっていた松平元信(元康、後の徳川家康)と結婚。永禄2年に信康を、3年に亀姫を産む。 永禄3年に桶狭間の戦いで今川義元が敗れると、家康は岡崎に帰還する事となった。しかし姑の於大の方の命令により岡崎城に入る事は許されず、岡崎城の外れにある菅生川のほとりの惣持尼寺で、幽閉同然の生活を強いられたという。永禄10年に信康が織田信長長女徳姫と婚姻。 元亀元年(1570)4月ようやく岡崎城に移った。天正7年(1579年)、徳姫は後に「信長の十二ヶ条」に記されることとなる、築山の信康への自分に関する讒言、築山殿と唐人医師減敬との密通、武田家との内通を信長に訴えたという。これにより信長が家康に築山殿と信康の処刑を命じたとされる。この信長が信康・築山の処刑を命じた理由には諸説あり、信康が聡明であり、その将来を案じた信長が先手を打ったという説、家康と信康の不仲説、派閥抗争説などがある。 家康の命令により、野中重政によって天正7年8月29日に小藪村で殺害された。享年38歳。法名は清地院殿潭月秋天大禅定法尼。
 
 <松平源三郎康俊墓>
 築山御前の墓隣にある墓で、松平源三郎康俊の墓。
 松平源三郎康俊は徳川家康の異父弟で、幼少にして今川氏真の元で人質となり、12歳の時、永禄11年武田信玄が駿河国に南下し駿府を囲んだ時、氏真は逃走したが康俊は捕らえられた。
 二年後、康俊は極寒の中脱走し、三河に到着した時には凍傷の為、両足の指が殆ど欠落していたという。
 家康は康俊を暖かく遇したが、32歳の若さで没した。
 法名は「善照院殿泉月澄清大居士」








天林寺

⇒天林寺への交通
■遠州鉄道「八幡駅」下車徒歩15分
■JR浜松駅より遠鉄バス「学芸高校前」下車 徒歩5分
境内自由


静岡県浜松市中区下池川町27-1
 傑堂義俊禅師が、文安2年(1445)に引間城の麓に亀鶴山万蔵院を構えたのが始まりで、のち亀鶴山天徳寺と改号。その後、布教の心篤い禅師は礎の固まった天徳寺を弟子の元甫に譲り、自らは三河国渥美の地に赴き、常光寺を開きました。文明13年(1481)弟子の竹印光忠に常光寺を譲り、和地に隠遁。死期を覚った延徳元年(1489)同地に掘った穴に入り、断食し入定したという。永正8年(1511)。三世長圓は天徳寺を現在地に移し名実共に礎を築いた。天正13年(1585)、山号・寺号を真徳山天林寺と改めた。墓域には新撰組隊士中島登の墓もある。
 <中島登墓>
 天保9年(1838)2月2日生〜明治20年(1887)4月2日没。享年50歳。八王子の農家中島亦吉の長男として誕生。幼名は峯吉。安政3年9月頃天然理心流に入門。その後、八王子千人同心に所属するも、諍いにより仲間を斬殺したため千人同心を抜け遁れる。元治元年新撰組に入隊。慶應3年に伍長に就任。慶應4年4月3日近藤勇が新政府軍に投降後、土方歳三等と共に大鳥圭介率いる旧幕府軍と合流し、北関東から会津へ転戦。仙台で榎本軍と合流し箱館へ。箱館戦争では弁天台場の第2分隊嚮導役。明治2年5月15日降伏。赦免後同3年5月中旬、静岡へお預けになり中旬赦免。多摩に帰還。その後静岡藩開墾に尽力。浜松で大島寅雄と再会し、浜松に移住する。その後質屋を経営するが失敗。同14年趣味で栽培していた葉蘭に偶然新種が誕生し爆発的に売れるも、馬が親株を食べ商売終了。同17年中島鉄砲火薬店を開業。墓は、本堂左の橋を渡った国道反対側の墓地。入口入って右奥。観音像向かって左。観音像から数えて3列目奥。他に中島家墓があるので家紋で確認して下さい。






鴨江寺

⇒鴨江寺への交通
■JR浜松駅バスターミナルB番乗場より
 「鴨江廻り医療センター」 行きで「鴨江観音」下車。
■JR浜松駅より徒歩15分※但し墓地は本堂より徒歩5〜10分程度
境内自由

静岡県浜松市中区鴨江4-17-1(墓地は鴨江3-19 旧拘置所裏)
 高野山真言宗甲江山鴨江寺、別称鴨江観音。創建は奈良朝時代。遠州地方の民話で知られる芋堀長者が観音堂を建てたいと願っている時、行基が東国へ来た。長者は菩薩に頼んで文武天皇の勅願所として観音堂を建てる事にし、大宝2年6月18日ついに特許があり、一夜の内に用材が曳馬の里に信水に乗じて集まったと言う。その後七堂伽藍輪奐の美をなしたという。平安期には三百余の寺々があり勅許を得ずに戒壇を作り殷盛でした。このため比叡山の僧と戒壇のことで争い戦をしたという。また南北朝時代には天皇は元弘2、3年、鴨江寺衆徒にご綸旨を下されています。鴨江寺が南朝方に味方していたので、尊氏方は斯波氏をして鴨江城を攻め、歴応2年7月27日遂に鴨江の城は陥落。現在の鴨江寺は鴨江城の跡に建つ。
 
 <大島寅雄墓>
 鴨江寺の墓地は本堂のある境内から離れた場所にあります。前の通りを本堂から出て右に進み坂を上りきり、下った後左側に保健所がある信号を右折、突き当りを右に行くと墓地がある。墓地に入って右側手前から5列目の奥にある。大島寅雄の法名は「涼月院清慎道光居士」。
 
(天保13年5月15日〜大正5年11月7日)幕臣で元小人目付。慶応4年4月江戸脱走、伝習第一大隊に従軍。6月より土方付きとなる。7月、歩兵頭並伝習第一大隊分隊長。8月21日、会津の母成峠で銃創、山口次郎や中島登に救われ若松城下で療養後、安富らと米沢経て仙台へ渡り、10月榎本軍と合流し土方歳三らと共に箱館へ。松前攻略時は軍監、蝦夷地平定後は陸軍奉行添役となる。翌明治2年3月宮古湾海戦に参加し負傷、4月には二股口では衝鋒隊を指揮。土方戦死に立会ったと言われる。その後軍使として停戦交渉連絡に当たり、榎本武揚らと共に会見にも臨んだ。終戦後は青森蓮心寺、油川明誓寺、弘前法立寺、箱館弁天台場等に謹慎、明治3年4月に赦され静岡藩に移る。








食事処 「うなぎ 八百徳」

 
 <うなぎ 八百徳>
 浜松駅近くに二店舗、北口が本店

 名物は「お櫃うなぎ茶漬(肝吸付)」2565円で、名古屋ひつまぶしの様に、お櫃に盛られたのを、1杯目は普通に、2杯目は薬味を乗せて、3杯目は土瓶に入った昆布だしのお茶を掛けて。
 うなぎは表面はカリッと中はふっくら、美味しすぎて、安い鰻が食べられなくなりそう。本場浜松の鰻。是非予算に余裕があればご賞味あれ♪♪(写真はうな茶のお茶掛けた状態)

 公式HP⇒
http://www.tokai.or.jp/yaotoku/