外島機兵衛墓

 

 
 <外島機兵衛墓>
 会津藩士。堀藤左衛門の次男。幼名は機四郎。のちに義直。外島家を嗣ぐ。目付から江戸留守居役に進み、万延から文久にかけて幕府と水戸家との調停に奔走した。1862年公用人となる。
 翌年、姉小路公知暗殺の犯人田中新兵衛を捕える。のちに勘定奉行。鳥羽・伏見の戦いでは畿内の情勢を探り、敗残の藩兵を送還した。
 しかし、恭順を唱えて江戸へ留まるうちに病死。享年43歳。

 2種イ3号1〜9側

 

 

小野権之丞墓

 

 <小野権之丞墓>
 藩主容保に従って上洛し、公用人として公武間、諸藩間を駆け回り、公武合体に尽力する。戊辰戦争の際は抗戦を支持する孝明天皇の弟輪王寺宮を奉じ東下し同盟諸藩に働きかけた。城が包囲されると仙台城下において会津救援の作に当たるが1ヵ月後会津藩降伏となる。
 のち榎本海軍に身を投じ、五稜郭の箱館病院事務長として高松凌雲と共に敵味方の区別無く負傷者の治療に当たる。
 降伏後は古河藩に禁固となったのち赦免。「小野権之丞日記」を著す。
 享年71歳。

 2種イ13号9〜15側

 

 

丹羽長国墓

 

 
 <丹羽長国墓>
 戊辰戦争当時の二本松藩藩主。丹羽家12代目。
 安政5年10月ニ本松藩主を襲封。前代から(安政5年〜)引き続き慶応2年まで上総国富津海岸警備を勤める。(富津:弘化4年〜嘉永6年会津藩が担当)
 奥羽越列藩同盟に参加、二本松に敵兵が迫ると、家老丹羽一学等は抗戦を主張し、長国等藩主家族は米沢・会津等へ落ち延びた。

 戦後は減封の上、江戸で謹慎となる。
 1869年に赦されて後、米沢藩主上杉斎憲子頼丸をもって二本松藩主とした。明治4年東京に帰住。嗣長裕、長保若くして没した為、明治31年4月再び家名襲爵した。享年71歳にて歿。

 1種ロ7号14〜15側1番

 

左「部将戦死者慰霊塔」、右「二本松藩士戦死者慰霊塔」

 

 

 

沢太郎左衛門墓

 

 
 <沢太郎左衛門碑>
 幕末期の幕臣。名は貞説。幕臣沢太八郎の子。^太郎とも言う。
 戊辰戦争の際は、榎本と行動を共にし、江戸を脱走。箱館戦争時の蝦夷共和国開拓奉行となる。
 出獄後は、北海道開拓使として出仕、その後は海軍の整備に従事した。

 1種イ1号25側6番




黒田清隆墓

 

 <黒田清隆墓>
 薩摩藩鹿児島城下士として、幕末に薩長同盟のため奔走し、戊辰戦争の際には北越から庄内までの北陸戦線と、箱館戦争で参謀として指揮をとった。この箱館戦争の際の榎本武揚との交流は有名。
 開拓次官、後に開拓長官として1870年から1882年まで北海道の開拓を指揮した。この頃、北海道へ移住し後開拓使の管轄に入った宗川熊四郎等旧会津藩士や、政府の密命を帯び内情を探る為清国へ渡った旧庄内藩士酒井吉之丞等と関わっている。
 1874年日朝修好条規を締結、西南戦争でも功を立てたが、開拓使廃止直前の「開拓使官有物払下げ事件」を起こして指弾された。明治21年第二代内閣総理大臣となる。

 1種イ1号1〜10側12番





大鳥圭介墓

 

 <大鳥圭介墓>
 播州赤穂の医師の子として生まれ、岡山藩の閑谷学校にて漢学を学び、後大阪の適塾で蘭学と西洋医学を学んだぶ。後江戸に出て坪井塾で塾頭となる。
 1857年には江川塾に教授として招かれる傍ら、西洋砲術を学んだ。1863年に陸軍所に出仕した後、幕臣に取り立てられ、1868年歩兵奉行となる。
 戊辰戦争の際には主戦論を唱え、江戸開城を不服として旧幕府歩兵を率い市川に脱走、土方等と宇都宮・今市・日光を転戦し、会津藩士山川大蔵等と共に南会津を拠点に戦い、母成峠では多勢に無勢ながら善戦するも破られる。その後仙台にて榎本等江と合流して蝦夷地に渡り、蝦夷共和国の陸軍奉行となるも箱館五稜郭にて降伏。
 明治5年に出獄後、新政府に出仕、欧米を視察。帰国後は工部大学校長、元老院議官・学習院院長・駐清国特命全権公使などを歴任。後に枢密顧問官を務めた。

 1種イ1号2〜3側2番




野津道貫墓

 

 
 <野津道貫墓>
 旧鹿児島藩士。戊辰戦争に参戦する。
 戊辰戦争中のエピソードとして、二本松での戦いで、大壇口にて二本松藩士の青山・山岡等ニ勇士が薩摩藩兵に対し果敢な切り込みを行い、薩摩藩兵は多くの死傷を出しその為二本松攻撃に遅れた、この時の逸話を語り残したのがこの野津であり、野津はこの話をすると「長い戦場での経験でもあの時だけは本気で逃げた」と語ったという。(福島/二本松参照)
 明治4年に陸軍少佐に任官。西南戦争時には第2旅団参謀長として参戦。11年には東京鎮台司令長官となり、同17年大山巌の渡欧に随行して軍制を視察する。
 帰国後、広島鎮台司令官、第5師団長等をを務め、日清戦争参戦の後、大将に昇任した。

 1種イ1号26〜28側