大久保利通

 

 
 <大久保利通墓>
 薩摩藩出身。一蔵。島津久光を擁護し岩倉等と公武合体を進めるが、慶應三年徳川慶喜が大政奉還を行うと、岩倉と王政復古を行う。
 明治2年参議となり、版籍奉還・廃藩置県などの体制確立を行う。
 明治4年には岩倉使節団に参加し外遊を行い、帰国後は西郷等の征韓論と対立し、明治6年の政変で彼等を失脚させ、佐賀の乱で江藤新平を粛清する。
 その後、内務省を設置し初代内務卿として実権を握り、地租改正や徴兵令を実施し、明治10年の西南戦争で政府軍を指揮したが、翌11年5月14日、石川県士族島田一郎等によって紀尾井坂にて暗殺された(紀尾井坂の変)享年48歳。

 1種イ2号15〜17側1番

 

 

 

松平恒雄墓

 

 <松平恒雄墓>
 会津藩主松平容保の四男として明治10年御薬園にて生まれる。
 東京帝大を経て、外交官・領事館試験に首席で合格し外務省に入り、駐米・英特全権大使となる。
 長女は秩父宮家に嫁した節子妃殿下。

 警視庁墓地の裏手の入り組んだ当たりにあり、ちょっと解りづらい。

 1種ロ8号1〜14側14番

 

 

 

川路利良墓

 

 
 <川路利良墓>
 薩摩藩士。禁門の変で活躍し西郷や大久保から高く評価された。
 戊辰後は、警視庁大警視となり、1872年には警察制度視察のためにヨーロッパに渡り帰国後はフランスを手本とした警視庁の創設に努める

 大久保利通から厚い信任を受け、岩倉具視の暗殺未遂事件、佐賀の乱などが起こると密偵を用いて不平士族の動向を探るなどの役目も果たした。西南戦争が起こる直前にも、大久保の命を受けて西郷や不平士族の動向をスパイを送って偵察している。
 西南戦争の際、征韓論で警察官の中の旧薩摩藩士の多くが帰国、その為の補強として会津藩佐川官兵衛に懇願し、佐川は旧藩士300名を引き連れて警視隊に応募し、前線に向かった。
 明治12年46歳にて没。

 1種イ4号1〜4側5番

 

 

 

香川敬三墓

 

 <香川敬三墓>
 水戸藩士で、藤田東湖の私塾で学び、安政6年に起きた勅書奉還事件では、神官同盟の1人として、現在の茨城町長岡に集まった長岡勢に加わり、翌、万延元年には攘夷を訴える為、薩摩藩に駆け込み、謹慎処分を受ける。
 慶応元年岩倉具視と親しくなり、同3年陸援隊の副隊長格となる。
 戊辰戦争が勃発すると、岩倉具定を総督とする東山道軍総督府大軍監として進軍し、流山で近藤勇を出頭させたという。宇都宮では土方・大鳥等と戦い会津まで転戦している。
 戦後、宮内権大丞、宮内少丞、宮内大丞、宮内大書記官、皇后宮大夫、宮内少輔、華族局長、議定官、枢密顧問官、皇太后宮大夫等々を歴任。
 また、徳川慶喜の公爵授与に貢献したりもした。

 1種イ4号25側

 

 

 

後藤新平墓

 

 
 <後藤新平墓>
 安政4年岩手県水沢に生まれ、
江戸時代後期の蘭学者高野長英は後藤の親族に当たる。
 当初は医者となることを志し、17歳で須賀川医学校に入学した。卒業後愛知県医学校で医者となり、24歳で学校長兼病院長となる。この時遊説中に負傷した板垣退助を診察する際、一言「本望でしょう」と言ってから診察したという。
 後藤が診察した後、板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と口にしたという。
 明治15年2月、愛知県医学校での実績を認められて内務省衛生局に入り、病院・衛生に関する行政に従事することとなった。明治23年ドイツに留学。帰国後留学中の研究の成果を認められて医学博士号を与えられる。
 その後、関東大震災後の帝都復興に尽力する。

 1種イ5号1側

 

 

稲葉正邦墓(会津松平家共同墓地)

 

 <稲葉正邦墓>
 二本松藩主丹羽長富の次男で、後に稲葉正誼の元へ養子入りし、淀藩十二代藩主り、幕府内では老中職も務め、もっぱら江戸藩邸での活動に終始する。 鳥羽伏見の戦いの際には、藩首脳部が正邦の採択無しに新政府軍との密約を成立させ恭順。淀藩知事となり1884年には子爵となる。
 ちなみに、墓域内の石碑には「文久三年京都守護職であった会津藩主松平容保と所司代であった淀藩主稲葉正邦は公武合体派として世にいう禁門の政変を共に戦った両家は縁戚関係となっており、稲葉家は19代で継承する実子が無く、この墓地は平成16年以降松平家と共同使用となっている」とある。  1種イ13号28側1番



後藤象二郎墓

 

 <後藤象二郎墓>
 土佐藩士。板垣退助とは幼馴染みで、叔父の吉田東洋の私塾で板垣と共に学んだが、文久2年吉田東洋が暗殺される。
 文久3年山内容堂の信頼を得て元治元年には大監察に昇進し、土佐勤皇党を解散に追い込み武市瑞山等を切腹させたが、慶応3年には公武合体から意見を替え、坂本竜馬に逢い大政奉還論を慶喜に推し進める。
 明治に入ると参与、大阪府知事に就くが、明治6年征韓論に破れ公職を離れ、翌7年江藤・副島等と共に愛国党を組織し、民選議員設立を申し立てるが成功せず、明治14年には板垣と自由党を結成した。

 1種イ13号24側1番





井深家墓

 

 <井深梶之助墓>
 井深宅右衛門の嫡男。母は西郷頼母近思の4女・八代子。
 15歳の時に戊辰戦争が起こる。
 会津篭城戦の際、容保のお小姓として君側にあり、山本八重子が容保に対し榴散弾を分解して説明した事などを語り残している。
 戦後、徳水院洋学塾・土佐藩邸英学宿を経て横浜の修文館に学僕として入り、ブラウンと出会い本格的な英語とキリスト教精神を学び洗礼を受ける。明治6年開設のブラウン塾に学僕兼取締役として入り、同10年の一致神学校設立とともに移籍し第一回の卒業生となった。その後、同19年に明治学院が創立されると、梶之助は理事員の一人となり、同22年には副総理に任命された。同24年には第二代総理に就任し大正10年3月の辞任までの31年間の長きに渡り貢献した。

 1種ロ20号8番12側(井深家墓域内)

 
 <井深宅右衛門墓>
 梶之助の父。物頭、組頭、町奉行を歴任して、文久2年江戸常詰の聞番となる。翌年、軍事奉行仮役として京都に上り、慶応2年学校奉行に転じて会津に戻る。
 戊辰戦争の際は第二遊撃隊の隊頭として越後方面に出陣する。
 家老萱野権兵衛が戦争首謀者として切腹となる際の当日の朝、萱野は手許にあった竹の火箸を取って、宅右衛門に一刀流溝口派の奥義を伝授したという。
 戦後は家族と共に斗南に渡るも、若松に戻り小学校の教諭、田島村組戸長などを歴任する。

 1種ロ20号8番12側(井深家墓域内)

 

 

篠原泰之進墓

 

 
 <篠原泰之進 墓>
 筑後国生葉郡高見村 石工業の篠原元助の長男として生まれ、元治元年に伊東甲子太郎らと共にに入隊し、諸士取調役兼監察となる。
 慶応3年3月に御陵衛士として新選組から分離、伊東殺害の報を受け現場に駆けつけるが、新選組に襲われ薩摩藩邸に匿われる。
 翌月には新選組局長近藤勇を襲撃し、重症を負わせる。
 鳥羽伏見では薩摩軍に属して戦う。その後、赤報隊に加わって捕縛されるが、釈放後は奥羽・北越に出陣し、
陸軍軍曹として戦功を上げる。
 戊辰後は秦林親と改名し、戊辰の戦功により永世士族となる。明治2年に警察官となり、明治五年に大蔵省の監察役を務めた。
 晩年はキリスト教徒として過ごし、『秦林親日記』を残す。明治44年享年84歳にて没する。

 2種イ12号3側5番




秋月悌次郎墓

 

 <秋月悌次郎墓>
 会津藩士。丸山胤道の次男。故あって秋月姓を継いだ。
 19歳の時、江戸昌平學に学び、舎長となる。後学業を終えて会津に帰った後、日新館の儒者となるが、間も無く藩命にて関西の各藩を遊歴し、政治・風俗などを観察した。桜田門外の変の際は外島の副使となる。
 容保が京都守護職を拝命し上洛すると、公用人に採用され、薩摩の高崎佐太郎と謀り、八一八の政変を成功させ、会薩同盟を結ぶ等活躍するが、軽輩であるが為、活躍を良く思わない藩庁に嫌われ、蝦夷代官として左遷される。
 慶応
3年、急命により京都に呼び戻され、薩摩との友好回復に努力するが、この時情勢は変わっており努力は実らなかった。
戊辰戦争では越後口で戦い、籠城戰に入ると、副軍事奉行として防戦を指揮したが、のち藩命により米沢藩を通じて、手代木と共に降伏の使者となる。後旧知であった長州の奥平に会津藩の処分の陳情と会津藩子弟の教育を依頼する。
 
明治5年赦免後、左院小議生を経て、東京大学・高等学校等に出仕し、のち熊本五等高等学校の教授となった。同校に在籍した小泉八雲と親交を持ち、「神様のような人」と言わせた。享年77歳。

 1種ロ12号22番1側