千住回向院

 

⇒小塚原回向院への交通
東京メトロ日比谷線南千住駅より徒歩1分。
境内自由

東京都荒川区南千住5丁目33-13
 本所の回向院の別院として小塚原に建てられ、小塚原回向院は建立以来、町奉行や寄場役所から回向料を受けて、刑死者や牢死者の回向、また、安政2(1855)年には安政の大地震の犠牲者などの回向に務める。磔地場として開創されてから220余年の間に、20余万人もの人々が埋葬されたと言われ、その大部分は重罪者だったと言われます。江戸時代の大泥棒、鼠小僧次郎吉等の墓もあります。
 他に、雲井龍雄事件で処刑された雲井龍雄の墓もあります。
 また、会津藩士武川信臣が小塚原で処刑された後、この回向院に埋葬されたというが、明治に入ってから兄内藤介右衛門が探すも見つからなかったという。
 <雲井龍雄墓>
 米沢藩士中島惣右衛門の次男として生まれ、叔父小島才助の養子となる。少年期より天才詩人の名が高かく、戊辰戦争が起こると薩長へ憤激し「討薩檄」を起筆し奥羽悦列藩同盟を支援するも米沢藩降伏。
 戊辰戦争後、その才能を買われ衆議院寄宿生に選ばれ、明治2年9月に上京、多くの意見書を提出するも、薩長中心の明治政府には取り入れられず、龍雄は、新政府に不満を持つ人々を集め「帰順部曲点検所」を組織する。この行動により内乱罪で逮捕され、米沢に蟄居後、江戸の牢獄に送られる。(後の「雲井龍雄事件」)明治3年12月26日梟首が言い渡され、その日中に小伝馬町牢獄で斬首され、小塚原に晒された。龍雄27歳。この事件は他に会津藩士の原直鉄等も処刑されている。
 入口から近いのですが目立たず小さい墓なので分かりづらいです。
 <相馬大作供養碑>
 元々津軽藩主は盛岡藩の家来筋に当たり、その津軽藩の方が家格が上であった為、盛岡藩と津軽藩は犬猿の仲であった。
1789年盛岡藩に生まれた下斗米秀之進は、藩主利用より家臣筋である弘前藩主津軽寧親の方が位が上である事に不満を抱き、寧親に果たし状を送り、1821年、寧親を秋田藩白沢駅付近で狙撃しようと計画するも、仲間の密告によって失敗、脱藩して江戸に逃れるが幕吏に捕らえられ、翌年処刑される。しかしこの事件によって寧親は隠居に追い込まれ、結果的には秀之進の目的は達せられたということになる。秀之進が偽名「相馬大作」を名乗っていたことから「相馬大作事件」と呼ばれた。当時の江戸市民は秀之進の行動に大いに感動し、事件は講談や小説の題材としてもてはやされました。幕末の水戸藩の藤田東湖はその義烈を讃え、吉田松陰は長歌を詠じて秀之進を追慕している。
 <鼠小僧の墓/他>
鼠小僧は江戸後期の盗賊。大名屋敷を中心に盗みに入り、人を傷つけない義賊として評判になり、鼠小僧と呼ばれた。平戸藩主松浦氏など大名にも人気があった。最後に上野小幡藩松平家に入ったところを捕縛された。鈴ケ森で磔にされたが、派手な死に装束を纏っていたと言われる。のち講談・小説などの題材となった。片岡直次郎は博打好きの御家人、高橋お伝は上野国で生まれた。明治九年、東京府蔵前の旅館で借金の融通を断られて古着屋吉蔵を殺害したお伝は、明治十二年に市ヶ谷監獄で斬罪に処せられる。腕の喜三郎は博打打ち。
 
 <吉田松陰>
 安政の大獄の為、この小塚原で10月27日処刑された吉田松陰は、翌々日の29日、桂小五郎、伊藤俊輔等は橋本左内の墓の左方に葬り、上に巨石をのせた。数日後、飯田正伯、尾寺新之丞の両名は「松陰二十一回猛士墓」と刻んだ墓碑をたてた。「二十一回猛士」を分解すると「十一と口」、「田」を分解すると「十と口」、合せると「二十一と回」になる。「猛市」は寅年にちなむ。また、「自分は生涯に二十一回猛をふるうように運命づけられている」と松陰自身が語ったことによるともいう。
 現存する墓碑は、後に、久坂玄瑞が文久2年筆して新たに建てられたものであるという。

 

 

円通寺

 

⇒円通寺への交通
JR三ノ輪駅より徒歩5分。
境内自由

東京都荒川区南千住1-59-11
 朝降っていた雨が止んだので出かけたらまた途中から雨が…騙された気が…。三ノ輪の駅から歩いて5分程度の所に円通寺があります。ここには上野戦争で犠牲になった彰義隊士の墓や旧上野の黒門などがあり。

 上の写真の黒門は上野戦争の当時そのままの物で、現在でも弾丸の跡が沢山残っており、明治40年10月帝室博物館より特に円通寺に下賜せられたものである。

 敷地内には、下の写真の他、彰義隊士後藤鉄次郎や木下福治郎・鷹羽玄道の碑、幕臣永井尚志の碑もある。

 <彰義隊墓>
 
ここにも彰義隊士の墓があります。
 官軍の目を憚った為か「戦死墓」とのみ書かれてます。この「戦死墓」という文字は榎本武揚の書です。
 もともとは、仏磨和尚と三河屋幸三郎によって埋葬された266人の墓である。
 
 <死節之墓>
 彰義隊供養に尽力した三河屋幸三郎が向島の別荘に秘そかに立て、鳥羽伏見〜会津・函館などでの各藩士の戦死者の氏名を彫って供養をしていたものが、この円通寺に移築されたもの。
 
やはり官軍の目を憚り、当時は表立った供養が出来なかった為「死節之墓」と刻んだものと思われる。
 土方歳三、近藤勇、など九十七の名前と「神木隊二十八名」と彫ってある。
 <松平太郎墓>
 
これも同じ墓域内にある松平太郎の墓。
 松平太郎は旧幕臣で、榎本等と共に箱館まで転戦し、箱館では副総裁に選ばれる。箱館で降伏した後は、静岡で余生を過ごし明治42年5月に71歳で没した。
 もともとはここ円通寺に墓が建立されたが、後に文京区の大林寺に移転し、現在は墓碑のみが残されている。
 
 <新門辰五郎碑>
 
同じ墓域内にある新門辰五郎の碑。

 新門辰五郎は江戸の町火消しの親分で、義父、町田仁右衛門は東叡山輪王寺宮の衛士で町火消の頭領であった為、輪王寺宮が浅草寺の別院伝法院に隠棲する際に、新しい通用門を新設し、その門を辰五郎が守ることになった、それで新門辰五郎と呼ばれる様になったという。
 また、辰五郎の娘は将軍「慶喜」の愛妾
 上野戦争の折には、彰義隊に協力し鉄砲よけの米俵を運搬したりした。

 <大鳥圭介追悼碑>
 
同じく円通寺境内にある大鳥圭介の碑。

 旧幕臣で、旧幕府歩兵隊を率いて、会津・箱館と転戦し 箱館で降伏し、戊辰後の明治5年出獄し、明治政府に出仕、後工部大学校校長、学習院院長、華族女学校校長を歴任し、明治22年特命全権清国駐箚公使となり、明治44年6月79歳で没した。

 
 <土肥庄次郎碑>
 
同じ墓域内にある土肥庄次郎の碑。

 彰義隊隊士で、長男であったが、あまりにも放蕩息子だったために廃嫡。 弟の八十三郎も同じく彰義隊に入隊している。 彰義隊では、諜報活動を主として行い、上野戦争で敗れた後は、吉原の幇間・松廼舎露八として 名を馳せ、明治36年11月71歳で没。

 「死んだら、うちの菩提寺ではなく、彰義隊の野郎がたくさんいる円通寺に埋めてくれ」というのが遺言であったという。

 <沢太郎左衛門君記念碑>
 
同じ墓域内にある沢太郎左衛門の碑。
旧幕臣で、榎本等とオランダ留学をしたのち、開陽丸艦長を務め、共に江戸を脱し箱館に至り、箱館にて降伏。明治31年5月没。享年65歳。
 
 <榎本武揚追弔碑>
 
同じ墓域内にある旧幕臣榎本武揚の碑。

 開陽丸を率いて江戸を脱出した後、仙台を経て箱館へ移り、旧幕臣の独立国「蝦夷共和国」を箱館に築こうとするも、箱館戦争に敗れ降伏。
 明治41年10月没。

 <高松凌雲追弔碑>
 
同じ墓域内にある高松凌雲の碑。
 
20歳の時、久留米藩家老有馬飛弾の家臣川原弥兵衛の養子となるが、武士の生活に見切りをつけ、医者を志して、ついに脱藩。30歳で、将軍の侍医となる。慶応3年、徳川昭武が、幕府使節として第5回パリ万国大博覧会視察に洋行の際、凌雲は語学の才能を認められ、付添いを命じられ、フランスなど、欧州各国を視察して、世界的な見聞を広めた。
 慶應4年鳥羽伏見の戦いが起こった事を知り一行は帰国、凌雲は品川から開陽丸に乗り、仙台で転戦していた実兄古屋作左衛門と再会し共に箱館に渡る。
 箱館では病院の全権を握り、負傷者は敵味方関わらず治療に当たった。大正5年10月12日80歳にて没。

 


上野公園(彰義隊墓)

 

⇒彰義隊墓への交通
JR上野駅公園口徒歩1分

東京都台東区上野公園

 上の写真は現在の彰義隊の墓の写真。右側部分の資料館も無くなり、囲っていた柵や覆いなども無くなってしまいました(TwT。)
 この彰義隊の墓は慶應4年5月15日に起こった上野戦争で戦死した彰義隊士の遺体266名のうち一部が埋葬されています。
 円通寺の仏磨和尚が火葬を願い出許され、明治2年小さな石碑が建てられた、後明治14年には、高さ約7mの石碑が山岡鉄舟の筆によって建立された。これは3代目にあたり、2代目は彰義隊生き残りである小川と寛永寺が協力して唐金円筒型の墓を建立するも、募金集まらず借金のかたにとられ鋳潰されてしまったという。(墓石の前にある小さい石碑が一代目の墓石である)
 <会津白虎隊絵>
 彰義隊の墓の脇に資料館があった頃には、彰義隊の墓の脇に右写真の「会津白虎隊絵」が野天の掲示板中に展示されていました。(その為雨などに晒され状態はかなり酷いですが…)今は資料館が閉鎖してしまった為撤去されて存在しません(…今はどこで管理されているんでしょうか…)
 絵上部に書いてある文章は、南摩綱紀の書です。

 

 

 

上野公園(西郷隆盛像)

 

 彰義隊の墓の目の前に建ってます。
日清戦争の直前、征韓論を唱えた西郷像を建立する事
によって、「征韓論の先覚者」を復権する為に建てられたそう。

最初皇居の楠正成像の辺りという意見があったが、
賊軍の首領ではないかという意見の為、 上野に決まったそうです。一方旧幕臣からは、敵の薩摩の指揮官の像を 彰義隊の墓に尻を向けて建てるとはひどいという意見も 出たそうです。 上野の西郷さんは、色々な意見を取り入れ、 軍服ではなく、故郷で狩をする姿になったそうです。

 

 

 

上野公園(上野東照宮)

 

⇒上野東照宮への交通
東京メトロ日比谷線上野駅しのばず口より徒歩5分。
境内自由

東京都台東区上野公園内
 上野東照宮は、元は藤堂家の屋敷神で、寛永年間に浅草東照宮が焼失すると之に変わって諸大名の参詣する所となり、家光が大修理をしました。

ここには諸大名が奉納した灯篭が並び、その中に保科正之奉納の灯篭がある。
 位置は、社殿に向かって左側にある水舎(明治6年に新門辰五郎等4人が奉納したもの)の手前にある5基の内の2基である。これは慶安4年4月に奉納したものである。なお青銅燈篭はすべて昭和17年に国宝指定されています。

 
 上野公園内にある「東照宮」参道奥、手水場手前に五基ある燈籠の内の2基は、会津藩主保科正之が奉納した燈籠である。
 燈籠の胴体部分には名前が刻まれており、下の写真では光ってしまって見づらいですが、「従四位〜」の右脇上部分に『會津』と刻まれています。他にも多くの諸大名が奉納した燈籠があり、それらは国宝指定されています。

 

保科正之奉納の燈籠に刻まれた正之の名。

 

 

上野公園(小松宮彰仁像)

 

 公園内の木立の中にひっそりと存在する「小松宮彰仁像」、小松宮は、戊辰戦争の際会津征討越後口大将軍に任命され、5月には北越戦争に出陣している。
 「宮さん宮さん、お馬の前でヒラヒラしているのはなんじゃいな」というトンヤレ節の「宮さん」は「小松宮」の事であるという。西南戦争の際は旅団長として参戦、明治36年に58歳で没した。銅像は日本赤十字社によって明治45年に建立されたもので、太平洋戦争後、在留米軍より鋳潰されそうになった際も、初代赤十字総裁だったという事で鋳潰されるのを免れたのであった。

 

 

寛永寺

 

⇒寛永寺への交通
JR鶯谷駅より徒歩5分。
境内自由

東京都
台東区上野桜木1
 寛永2年に天海僧正によって創建された天台宗の関東総本山である寺。最盛時には30余りの堂塔、36の子院が存在したが、その殆どは慶應4年の上野戦争の際に焼失してしまっている。
 現在の本堂はも、明治12年に埼玉県川越の喜多院本地堂を移築したものである。
 境内には、歴代15代の将軍の内、現在も4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉の6名の霊廟などが現存するが、公開されていない。
 また、境内には「上野戦争碑記」という大きな碑が建立されていて、これは彰義隊の生き残り「阿倍弘蔵」が38年掛かり反対にあいながらも240字改めさせられながらも明治45年に建立したものである。

 

 

寛永寺表門

 

⇒寛永寺表門への交通
JR鶯谷駅より徒歩5分。
境内自由

東京都
台東区上野桜木1
 寛永寺の表門は、当時は現在の国立博物館の券売所辺りであったといいます。上野戦争で焼失を免れた後、国立博物館(旧帝国博物館)が開館すると、その表門として使用されていたが、関東大震災後に本館を改修する際、現在の場所に移築された。
 現在は博物館に向かって右手に向かった所に「輪王寺両大師堂」という建物があり、その前に移築されています。

 

 

(左)寛永寺表門に残された砲弾・銃弾の跡/(右)寛永寺門主であった輪王寺宮の居住処であった事をしめす碑

 

 

因州池田屋敷表門

 

 国立博物館前から谷中方面(向かって左)に向かうと、右側の博物館敷地内に立派な造りの門が見えてくる。これは因州池田屋敷表門で、元々は丸の内大名小路にあった藩邸に建てられていたもので、明治24年、芝高輪台町に東宮御所の正門として移建し、のちに高松宮邸に引き継がれ、更に昭和29年3月、現在の地に移転して修理を加えたもの。 昭和26年に国の重要文化財に指定されています。 …戊辰戦争後、容保サマや平馬サマが謹慎させられたのが因州池田屋敷vv(上・中・下屋敷のどこに幽閉されていたのか不明ながら、もしかして此の門をくぐったりしたかなぁvvとか妄想してみたvv)

 

 

長明寺

 

⇒長明寺への交通
JR日暮里駅より徒歩4分。
境内自由

東京都台東区谷中5丁目10-10(地図
 谷中霊園近くにある日蓮宗のお寺で、創建は慶長14年。
 <平田蝶子(小蝶)墓>
 会津藩士平田門十郎の長女として
生まれ、中野竹子とともに赤岡忠良の養女となる。戊辰戦争が始まると、中野竹子等と共に涙橋付近で戦い、籠城戦を戦い抜く。戦後、会津藩士、戸田衛門と結婚、山形、東京と移り棲み、明治18年、36歳の若さでこの世を去ったという。

 

 

全生庵

 

⇒全生寺への交通
東京メトロ千代田線千駄木駅徒歩5分
境内自由

東京都台東区谷中5-4-7
 全生庵は、山岡鉄舟が、明治維新に殉じた人びとの霊を供養するために、明治13年に建立した臨済宗の寺。
 <山岡鉄舟墓>
 墓地の中央部にある大きな墓石が山岡鉄舟の墓。
 山岡は、清河八郎らと志士政治家として活動。浪士組をまとめ、これを「新撰組」「新微組」に発展させた。慶応4年鳥羽伏見の戦いに敗れた後、東帰した慶喜を鉄舟は「精鋭隊」の頭としてこれを迎え、浜御殿の海軍局へ案内し警衛に当たった。
 その後、江戸城無血開城の立役者となり、明治2年明治政府に出仕し、慶喜が七十万石で封じられた静岡で、県の権大参事となり、つづいて伊万里県知事、侍従、宮内少輔などを歴任、子爵を授けられた。明治21年、53歳で座禅を組みながら逝去した。
 
 <石坂周造墓>
 現在の長野県飯山市に生まれ、17歳の時、江戸に出て両国山伏町の幕府の針医石坂宗哲の養子となり、宗順と称した。
 事情があり水戸領神崎で医者を開業した。佐原で剣術の道場を開いていた村上俊五郎と知り合い、清河八郎と交わった。
 文久元年5月末無礼町人を手討ちにした清河と連座して捕らえられたが、文久2年暮、清河の赦免により、出牢して浪士組の道中目付として上洛した。
 清河の暗殺の際には、その首と攘夷党への連名帳を奪い、首は山岡鉄舟に預けた。維新後、静岡県榛原郡相良町で石油事業を手掛け、本邦最初の石油事業の創始者となり73歳で没した。

 

 

経王寺

 

⇒経王寺への交通
JR鶯谷駅より徒歩5分。
境内自由

東京都荒川区西日暮里3−1−3
 慶應4年の上野戦争の際、新政府軍は「窮鼠臍をかむ」を恐れ、一方を開け、彰義隊士達は敗走した後、谷中天王寺に駐屯していた彰義隊士が、 この寺に逃げ込み、門を閉めたところを銃撃され、最後に切り合いとなったという。

 

 

経王寺山門に生々しく残された銃弾の跡

 

 

善性寺

 

 江戸時代には 6代将軍家宣の生母、お保良の方が深く帰依したことから、家宣の弟、松平清武を初祖とする越智松平家の葬地と定められた。
 境内には、後に越智松平家が移封された浜田藩の戊辰戦争での戦死者の殉難碑などもあります。
 浜田藩は、慶應2年の長州征伐の折、浜田口を担当し、大村益次郎の率いる長州軍に撃破され、藩主武聰は戦わずして浜田城を放棄し松江城に逃れ、その後浜田藩は長州の占領下となり廃藩となった。
 そして、三代目武成は会津藩主松平容保の実兄である。
 東京都
荒川区東日暮里5-41-14