新撰組慰霊碑

 

新撰組慰霊碑への交通
JR板橋駅より徒歩1分
公園内自由
東京都北区滝野川7―8―1寿徳寺境外墓地

 明治9年に元隊士であった永倉新八が発起人となり、松本良順の協力もあって建立されたもの。近藤勇の諱が正しくは「昌宣」であるが、ここでは誤って「宜昌」となってしまっている。なお、この碑の両脇には元隊士達の名前が約100名刻まれており、墓の不明な隊士については、この慰霊碑を墓碑としています。近藤の墓は、この板橋のを含めて全部で3つあり、どれに盗み出された胴体が埋まっているのかは、論議をかもし出しておりはっきりしません。
 <新撰組永倉新八墓>
 永倉新八の墓は、北海道小樽市にあるが、新八の長男杉村義太郎が分骨して当地に墓を建てたものである。
 新撰組と袂を分った後、靖共隊を結成した後、戊辰後には旧藩である松前藩に帰藩し、藩医杉村松伯の婿養子となり、北海道に渡り、杉村義衛と名を改める。
 明治9年に板橋に近藤等の慰霊塔を建立し、大正4年1月5日に死去。
 生前には「浪士文久報国記事」や「新撰組顛末記」などを書き記した。