東禅寺

⇒東禅寺への交通
JR品川駅より徒歩19分
墓域は非公開。

東京都港区高輪3丁目16-16

 <東禅寺>
 最初のイギリス公使宿館だった場所で、東禅寺事件が2度に渡って行われた場所である。東禅寺事件は文久元年に、英国の仮公使館だったここ東禅寺に水戸浪士ら十数人が斬り込み、警護の武士らが20人以上の死傷者を出しながら、公使のオルコックを守り抜いた事件。
 この東禅寺は多くの大名の菩提寺となっており、また戊辰戦争の責任をとって処刑された仙台藩家老但木土佐や仙台藩士大槻磐渓等の墓もあるが、墓域は拝観不可となっている。(一説には但木や坂の墓は仙台へ改葬されたとも)
 また、会津藩士相馬一族の墓などもある。





泉岳寺

 
 <赤穂浪士墓>
 歳末時代劇忠臣蔵で有名な赤穂浪士の墓です。ここ泉岳寺には藩主浅野内匠頭とその妻と四十七士の墓がある。一基多いのは討ち入り前に親への孝と主君への忠に挟まれ自刃した藩士の墓であるという説が現在は一番強い。
 やっぱり一番観光客が多い場所です。ここにいると一般人になった気がします(爆)外にも非公開だが多くの大名の墓が泉岳寺霊園内に建立されています。

東京都港区高輪2丁目11-1

 <浅野長矩墓>
 吉良家討ち入りの発端となった、松の廊下で刃傷沙汰に及んだ赤穂藩の第3代藩主で、浅野長直の子・長友の子として江戸にて生まれるが、父・長友が在任わずか3年で死去した為、9歳の幼少で長矩が家督を継ぎ、第3代藩主となったのであった。
 松の廊下での刃傷沙汰の後、即日切腹となり、赤穂藩は御家断絶となり、のち吉良家討ち入りが果たされたのである。
 辞世は「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん」
 また、赤穂浪士達が吉良討ち取り後、この泉岳寺へ立ち寄り、吉良の首を藩主浅野内匠頭の墓前に供えた。
 
 <吉良上野介首洗井戸>
 
 <明治戊辰芸州藩戦死者墓>
 戊辰戦争における芸州藩の戦死者の墓で計39名の名が記されています。なぜ泉岳寺に葬られているのかは不明です。


「泉岳寺」
東京都港区高輪2丁目11-1
【交通手段】⇒都営浅草線「泉岳寺駅」下車、徒歩9分。
境内自由/入場無料



オランダ公館跡

 泉岳寺から大石良雄自刃の地へ向かう途中の道にひっそりと木陰に隠れるようにオランダ公館跡の説明版が建っている。

 安政6年に西応寺に設置され、慶応3年薩摩藩邸焼き討ちの際西応寺が類焼しここ伊皿子の長応寺が公使館となった。
 しかし、その長応寺も明治35年に北海道に移転しており、現在はひっそり看板が其の名を留めるのみである。





覚林寺

 <覚林寺>
 加藤清正は、朝鮮出兵の際に、朝鮮の王子を連れ帰り養育、清正は熱心な法華経信者で、 その影響を受け成長した王子は、やがて出家し、小湊の日蓮宗誕生寺に入門し、やがて最高位の十八代貫主の可観院日延上人となりました。 貫主を退きのいた後,寛永8年、熊本藩の中屋敷だった現在地に、清正公の随身仏である釈迦牟尼仏を本尊にして覚林寺を開いたという、加藤清正縁の寺。
 どうも受験や建築関係にご利益があるそう。

東京都港区白金台1丁目1-47





興禅寺

⇒興禅寺への交通
渋谷駅より田町駅行きバスで「北里研究所前」下車
向かいの道の脇道を入り直進坂の途中を右折して直ぐ。(徒歩5分)
ぱっと見た目一般住宅のようにしか見えないので気付きにくいかも。
拝観無料/境内自由

東京都港区芝白金6-14-6

 <興禅寺>
 興禅寺は延宝二年(1674年)、米沢藩主上杉定勝の長女松嶺隠之尼が愚堂に帰依し、同法系の玉舟を開山とし自ら開基となって開設した寺で、上杉家代々の菩提寺である。
 その関係からか、米沢藩士の雲井龍雄も一時期身を潜めていた事があるといわれている。また、この寺には会津藩士が多く埋葬されていることでも知られています。
 
 <萱野権兵衛墓>
 戊辰戦争で負けた会津藩は、西軍より三名の戦争責任者の首を差し出せとの命令に、萱野は自ら名乗りでて、城下戦の最中自刃した田中土佐・神保蔵之助を含め3名と言うことにして届け出、支藩である上総飯野藩邸にて処刑(自刃)されここ興禅寺に葬られました。
 現在でも毎年5月の命日に近い日曜日に会津会の主催にて「萱野国老法要」が営まれている。(参加の際には、前もって必ず会津会に連絡を入れて下さい。)
 
 <神保修理墓>
 
同じ興禅寺内に、萱野の墓と並んで会津藩士神保修理の墓があります。神保修理は軍事奉行添役として容保の傍で国事に当たったのですが、当初から修理は恭順をといており、慶喜・容保等が東帰し、鳥羽伏見で負けると、東帰の責任をとって自刃する事となった人物。享年30歳。
 また修理の妻、井上丘隅の娘雪子は城下戦の際、中野竹子等と共に薙刀を手に戦い討死とも捕えられ自刃したとも言われています。
 
 <黒河内家墓>
 黒河内家の墓の墓石は二基あり、右手が「黒河内松斉墓」で左手(右写真)が黒河内家の墓である。
 松斉は幕末期の長沼流兵学者で名声高い人物で、その子式部も軍事奉行を勤め、戊辰戦争にて8/23六日町郭門にて52歳で戦死している。
 良はその第三子で、安政3年3月16日、江戸藩邸にて生まれ、戊辰の際には僅か13歳であったが、護衛隊に属して参戦した。明治に入り永岡久茂の密命を帯び、会津よりの応募巡査22名を率いて千葉に至り、自らも巡査となって蜂起の時を待ったが、思案橋にて露見し永岡等が捕縛されると同時に良もまた捕えられ、懲役3年に処せられ、市谷監獄に幽閉される。
 出獄後は、北海道に入り開拓使に奉職、後明治20年警部となり警視庁にはいり、其の後、高知・神奈川・香川各県を歴任し、明治30年南埼玉郡長となり、32年青森県警部長に転じ、更に秋田・香川に移り、37年職を辞して韓国に赴き、39年に京城居留民長となる。大正10年6月7日66歳にて没。
 
 <上杉家墓>
 
米沢藩主上杉家歴代の墓。
 植え込みに囲われた一角にある上杉家の墓。同じ墓域内には、上杉斉憲・茂憲の墓もあります。
 斉憲は幕末期米沢藩主として、新政府軍より討会の命を受けながらも、会津・庄内の救解を目的に「奥羽越列藩同盟」を成立る事に尽力した人物、茂憲は、斉憲の子として名代を務め、米沢藩が新政府軍に降伏すると、帰順の実を上げるため、近隣諸藩・会津藩などに降伏勧誘の使者を送り会津藩の降伏に力を注いだ人物。
 



明治学院

 明治学院は、創立は明治10年に築地に置かれた東京一致神学校で、その後一致神学校と一致英和学校、英和予備校の三校が合併して明治学院となり、明治20年に現在の地に移された。その創立に、旧会津藩士である井深梶之助が深く貢献している。梶之助は、戊辰時は15歳で、戊辰後は徳水院洋学塾、土佐藩邸英学塾を経、旧桑名藩主松平定敬とその旧臣達の家庭教師などをし、明治6年開設のブラウン塾に学僕兼取締役として入り、同10年の一致神学校設立とともに移籍し第一回の卒業生となった。その後、同19年に明治学院が創立されると、梶之助は理事員の一人となり、同22年には副総理に任命された。同24年には第二代総理に就任し大正10年3月の辞任までの31年間の長きに渡り貢献した。

 

 

円真寺

 

⇒円真寺への交通
都営浅草線「高輪台駅」より
徒歩5分
拝観無料/境内自由

東京都港区高輪1-23-3

 <雲井龍雄事件の拠点/円真寺>
 この円真寺は、雲井龍雄が拠点として「帰順部曲点検所」を置いた場所である。のちに「雲井龍雄事件」と呼ばれる事件は、雲井龍雄がこの円真寺と隣の上行寺に「帰順部曲点検所」を設置し、敗残の不平浪士達を集め、朝廷に対し常備軍に編入させるよう求め、その実はこの願いを朝廷が聞き届けたなら、官支給の武器を以て内部蜂起し、政府を襲うというものであった。
 雲井龍雄や同士であった原直鉄等がこの円真寺と上行寺(現存せず)を借りたのは明治3年2月18日頃で、両寺合わせ寄宿したのは80名近いと思われる。26日には官憲に届け出ている。
 龍雄は、両寺の門柱に「帰順部曲点検所」の看板を掲げたという。

 

 

 

薬王寺

 

⇒薬王寺への交通
都営浅草線「泉岳寺駅」より徒歩10分
拝観無料/境内自由

東京都港区三田4−8−23

 三田における会津藩の浄土宗の菩提寺が実相寺で、日蓮宗の菩提寺がこの薬王寺であったと寺に伝えられており、山内香渓の他にも数基の会津藩関係者の墓がある。
 
 <山内香渓墓>
 山内家の墓域は墓地入口から入って階段を降り切る直前に左に入ると、入口近くにあるので解りやすい。
 山内香渓は、鳥井家に生まれ、後山内家を継ぐ。名は昇。戊辰の際には江戸に居て、後箱館へ船で渡ろうとするも船沈没し、潜伏していた所を捕縛され広沢安任や武川信臣等と同じ獄舎に繫がれる。この際に広沢・武川・井上文雄・覚王院義観・草野御牧等と共に歌会をした時の歌を後年石碑に刻み「思い出の碑」として飯盛山に建立した。
 出獄後は、和歌山藩に聘せられ藩参事となる。廃藩後は東京に住まいを移し、書家として三輪田高等女学校生徒等に教授する。大正12年10月没。「山内家之墓」に合祀されている。
 <山内香雪墓>
 
山内家の墓の右隣にある「山内香雪」の墓。
 山内香雪は寛政11年会津に生まれ、名は晋、字は希逸、香雪と号し、通称は熊之助。5歳で字を学び8歳で学に入り、書によって禄を得たという。22歳の時に江戸に出で、25歳で関西に遊び諸名家と交流、長崎に行って書法を問い大いに悟ったという。
 江戸に帰って鋸匠町に書塾を開き門下生大いに集まり、諸侯に及んだという。
 万延元年2月3日没、享年62歳。


左上より「山内香雪妻草刈氏墓」「山内香雪娘」、左下「会津藩士 鈴木通之妻の墓」「会津藩士 渡部新八郎吉春・同人妻の墓」




 

実相寺

⇒実相寺への交通
都営三田線・南北線「白金高輪駅」より
徒歩17分
拝観無料/境内自由

東京都港区三田4−12−15

 この一帯は江戸期より三田の寺町として有名で、現在も三十数か寺が残っている。この実相寺の歴史には、「会津の藩祖松平(ママ)正之は当寺を江戸における菩提所と定め、次いで正経の生母聖光院によって本堂初め諸堂宇を再興した」とある。
 この実相寺には、かの有名な聖光院(お万の方)の墓や藩主一族の墓、容保の子女などの墓が残されている。
 藩主一族の墓には、下に紹介したほかに、正容の子栄之丞墓(安祥院)、容章の侍妾で容詮の母お嘉代の方(長昌院)、四代容貞の次男(貫綜院)、容章の女で五代容頌の養女留姫(蓮受院)、容詮長女照姫(心窓院)、容詮長男富五郎(智厳院)、容住の長男大炊(幻光院)、八代容敬の三女厚姫(清玉院)の墓がある。また、他にも会津藩士の墓が多く点在している。
 <聖光院(お万の方)墓>
 
正覚院の隣にある実相寺は、会津藩藩祖保科正之によって菩提寺として定められた寺で、幾つかの会津藩関係の墓がある場所です。
 
会津藩祖保科正之の継室であった女性「お万の方」で、会津藩藩訓の「女性の意見を聞くべからず」を正之に作らせるきっかけとなった人物とも言えます。お万は嫉妬深い正確で、お万の娘媛姫は、米沢三十万石に嫁ぐことになったが、側室しほの生んだ娘松姫が加賀百万石に嫁ぐ事に決まるとそれを妬み、松姫の膳に毒を盛るが、松姫の侍女の気転で、毒入りの膳をお万の娘春姫が食べ春姫は19歳にして生涯を終えた。正之は怒り、関わった人物十余名を斬罪などにし、お万は世継正経の生母である為幽閉に留められたが、正経が家督を継ぐと、許され国政にも口を出した。
 正経は腹違いの弟正容を世子としたが、正経は正容に三田屋敷での食事に気をつけるよう忠言したという。
 まあ…なんとも子供にすら信用されないお万も哀れと言うか…。
 
 <愿彰院殿法誉覚了仁譲容章大居士(容章)墓>
 
三代正容の末子で、四代容貞の弟にあたり、六代容住の祖父にあたる人物。この実相寺にある藩主一族の墓の中で唯一の成人男性の墓。
 容章、従五位下、幼名陸七。母は正容の侍妾で外島権内定重の娘おいくの方。寛永元年に配分家料壱万石で分家し、安永6年から天明6年10月24日芝邸で59歳で亡くなるまで33年間在勤している。
 
 <真珠院殿光誉清春大童女墓>
 三代正容の長女にあたる元姫の墓。正容には九男四女が生まれている。
 母は後継室となった「おゆらの方」元禄8年8月10日芝邸で生まれ、同10年2月20日芝邸で没している。享年3歳。
 
 <寿詮院殿麗誉浄岳慧亮大姉>
 四代容貞の側室の一人で、後継室となった「おきやの方」の墓。江戸三田伊皿子の商家館新兵衛の女で、享保13年11月6日生まれ。15歳の時に容貞の側女となる。五代容頌の母。
 宝暦7年10月3日31歳にて没。死去とともに継室の列に入れられた。
 
 <心了院殿専誉常照貞繁大姉墓>
 五代
容頌の養子となった容詮の侍妾お久米の方の墓。
 容詮には加賀より迎えた頴姫という正室がいたが、お久米の方は正室が輿入れするより前から寵愛されていた女性で、正室輿入れの際に既に3人の子を産んでおり、さらに3年後には為之助(のちの容序)を生んでいる。しかし正室輿入れの為生家御預けということで邸を追われ、藩重役は幕臣美濃部八郎右衛門の嫡子織部の妻にさせようとするが、容詮が36歳の若さで家督を相続する前に没し、お久米の方の生んだ金之助(のちの容住)が世子となった為、再び藩邸に戻された。
 容詮は、多くの子を設けながら、正室輿入れの為母子の情を断ち切られ遠ざけられた事を深く恨みに思ったお久米によって呪い殺されたという専らの噂であったという。
 会津を騒がせた三大女性(お万の方、おもんの方、お久米の方)の一人である。寛政元年6月1日没。
 
 <泡玉院殿梅香清薫大童女(容保次女)墓>
 
同じ実相院の会津墓地内に、松平容保の次女の墓がある。
小さめの墓で裏面には「松平容保二女明治六年一月二十三日生同二十五日卒」となっており愛宕下邸で生まれ僅か2日後に没している事がわかる。
 容保には2人の側室から7男2女が生まれているが、内2男1女が夭折している、そのうちの1人である。ここに墓がある為か、院内御廟には合葬されてはいない。


上段左より「高橋重義墓」「一瀬忠移夫妻墓」、
中段左より「林重遠墓」「高津忠懿後妻・高津忠直墓」
下段左より「林直輝墓」「北条杢之助墓」・・・他多数有り



 

済海寺

⇒済海寺への交通
◎都営浅草線泉岳寺駅より徒歩
拝観無料/境内自由

東京都港区三田4-16-23
 この済海寺は長岡藩主牧野駿河守が開基となって寛永2年に創建された浄土宗の寺で、長岡藩牧野家、松山藩松平家の菩提寺となっています。
 安政6年には、フランス総領事館となり、明治7年まで続いた。
 <最初のフランス公使宿館跡碑>
 門をくぐって直ぐ右脇に左写真の碑が建立されています。
 安政6年に、フランス総領事館となり、明治7年まで続いた。
 
 <牧野家之墓>
 
この済海寺は、寛永2年牧野駿河守が開基の浄土宗の寺で、長岡藩主牧野家の菩提寺となりました。
 しかし、昭和58年に、現在の長岡市悠久山蒼紫神社脇に歴代藩主の墓所を改葬されており、右の墓石だけが残されている、これは八藩主五正室が纏められた墓で、もちろん、会津藩と共に戦い敗れた長岡藩主忠訓・忠恭なども合葬されている墓。
 <伊予松山藩主松平(久松)定昭墓>
 
松山藩2代藩主松平隠岐守定頼公が江戸藩邸で急死し、定頼公の遺体は藩邸近くにある浄土宗済海寺で荼毘に付され、礼拝所が整備されました。それ以降、長岡藩牧野家と共に、松山藩松平家の菩提寺として使用されるようになりました。
 この墓は、伊予松山藩主松平(久松)定昭の墓で、 松山藩は長州再征では周防大島を攻め敗走、鳥羽伏見の戦いでは、幕府方として大阪を警備していたため 追捕対象となり謹慎・恭順した。




 

会津藩下屋敷跡

 

 
 <会津藩下屋敷跡前の『綱坂』>
 会津藩が三田に下屋敷を賜ったのは万治元年(1658)5月15日の事で、保科正之48歳の頃であった。その面積32.972坪坪という広大なものであった。
 会津藩の下屋敷は、現在の慶應義塾女子高校と中等部校舎がある。

 このあたりは会津藩邸の他に佐土原藩邸、織田出雲守邸などの大名屋敷が並んでいて、会津藩邸と隣接する松平隠岐守邸との間にあるのが左写真の「綱坂」で、この辺りには「綱」の付く地名が多く、その由来には、この辺りが源頼光四天王の一人渡辺綱の出生地であるという伝説がある為である。

 当時「綱が居た跡へ 蝋燭取りひろげ」という歌があり、これは渡辺綱出世の地と伝承されていた所が、蝋燭を名産とする会津候の下屋敷となったことを謳ったものである。

 <会津藩下屋敷跡 門>
 以前に江戸開府400年記念事業の一環であった「江戸城登城ウォーク」の「会津藩」で参加した際に、案内されたもので、階段脇に見える門は、会津藩邸に使用されていた門であるとのこと。

 

 

 

増上寺

⇒増上寺への交通
◎JR線・東京モノレール 浜松町駅から徒歩10分
◎都営地下鉄三田線 御成門駅から徒歩3分、芝公園から徒歩3分
◎都営地下鉄浅草線・大江戸線 大門駅から徒歩5分
◎都営地下鉄浅草線 大門駅から徒歩5分
拝観無料/境内自由
公式HP⇒
http://www.zojoji.or.jp/index.html
東京都港区芝公園4-7-35
 浄土宗の七大本山の一つ。開山は酉誉聖聡上人によって浄土宗正統根本念仏道場として創建されました。
 徳川家康の帰依によって、徳川家の菩提寺として繁栄、寺所有の領地は一万余石。二十五万坪の境内には、坊中寺院四十八、学寮百数十軒が立ち並び、「寺格百万石」と謳われた程の規模であったという。
 現在は、除夜の鐘でも有名で、兎に角立派な寺で、現在境内には、二代秀忠公・六代家宣公・七代家継公・九代家重公・十二代家慶公・十四代家茂公の六人の将軍他、崇源院、皇女和宮ら五人の正室、三代家光公側室桂昌院はじめ五人の側室、及び三代家光公第三子甲府宰相綱重公ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されています。
 
 <徳川家茂墓>【非公開】
 これも同じく徳川墓地内にある徳川家茂の墓で、家茂は僅か21歳、結婚から4年で亡くなりました。やっぱり維新動乱の中、病弱な家茂は神経をすり減らしていたのかもしれません…。
 家茂は11代家斉の子で、和歌山藩主斉順の長子として弘化3年に生まれ、斉順の弟で12代目和歌山藩主となった斉彊の養子となり、3歳で和歌山藩主となった。一橋慶喜と共に将軍継嗣候補となり、安政5年、14代将軍となった。世情不安定の中、公武合体策をとり、和宮親子内親王を正室に迎える。第2次長州征伐中、大阪城で病没した。家茂は大の甘党で虫歯が多く、31本の歯の中で30本が虫歯であったという(笑)
 基本的に、徳川家墓所内は非公開です。
 <静寛院宮親子内親王(皇女和宮)墓>【非公開】
 
14代将軍家茂の正室、静寛院和宮は仁孝天皇の第8皇女として弘化3年に生まれる。和宮は嘉永4年、6歳の時に有栖川宮と婚約が成立したが、婚儀間近になって公武合体策によって有栖川宮との婚約を破棄し降嫁した。この時和宮は15歳であった。和宮は家茂死後、落飾して静寛院と称した。明治10年、31歳で逝去。

 家茂の墓の隣に並んで建立されていて、ほのぼのしたものを感じましたv
改葬される際、和宮は胸に家茂の銀板写真を抱いていたことが解ったそうで、涙をさそう話です(TT)17歳同士の政略結婚であったにも関わらず、
深い愛情で結ばれていたのかもしれません(TT)
孝明天皇・家茂没後、岩倉具視等が再三京に戻るよう誘いをかけていたにも関わらず、和宮は徳川家に残り続け、徳川家が存続できるように尽力したのでした。

 
 <佐瀬得所碑>
 三解門を入って本堂に向かって左側にある経堂右脇にひっそりと建立されている「佐瀬得所之碑」。
 佐瀬得所は会津藩士で有名な書家。
 この碑は明治11年4月、前田利嗣、寺島誠一郎、中鉢美明、浦口善養らニ百余名の義損によって、佐瀬愛用の大筆を其の下に埋め、当時は放生池の側に建てられていたが、後現在の経堂脇に移されている。
 碑の上部は欠損している。
 
 <増上寺徳水院(会津藩謹慎の地・洋学塾仮校舎)跡>
 増上寺の三解門を出て直進、右側に東京電力のビルが見えたらその脇の道を入って50m程の処左側部分の現在は駐車場になっている場所は、江戸から明治初期には増上寺の四十八堂宇、学寮百数十軒あったうちの一寺院で、これらの諸寺院は諸藩大名の宿坊に割り当てられ、この徳水院は会津藩の宿坊として使用、他保科弾正忠、本多中務大輔、九鬼和泉守、山口周防守各大名の宿坊でもあった。
 戊辰戦争後には会津藩士350名がこの地で謹慎、そして謹慎解除後には、この地は旧藩士子弟の為の洋学塾仮校舎として使用された。この学校の校長は、後の思案橋事件で斬首された竹村幸之進で教官は旧幕臣の千村五郎ただ一人であった。
 生徒には山川健次郎、井深梶之助、柴四朗などがいたが、千村がわずか三ヶ月で去った為廃止となった。
 この徳水院は、明治のかなり早い時期に廃寺になったという。




 

 

金地院

 

⇒金地院への交通
都営三田線「芝公園駅」より徒歩19分
拝観無料/境内自由

東京都港区芝公園3-5-4
 東京タワーの目の前です。一歩境内にはいると、東京タワーの喧騒が嘘のようにひっそりしています。
 この寺は、南部藩縁の寺で、戊辰戦争後には盛岡藩主南部利剛父子や盛岡藩家老楢山佐渡が謹慎していた寺院になります…が本堂は写真の通り近代的に改築されていて、面影を見る事が出来ませんデス(TwT。)
 金地院は、家康の懐刀「金地院崇伝」が開基の寺で、何部半の菩提寺となっており、南部藩(盛岡・八戸他)藩主一族の墓がある。
 
 <南部藩主一族墓>
 
金地院は、家康の懐刀「金地院崇伝」が開基の寺で、何部半の菩提寺となっており、南部藩(盛岡・八戸他)藩主一族の墓がある。又、ここが南部藩の菩提寺であった関係から、戊辰戦争後の明治元年11月2日盛岡より護送されてきた盛岡藩主南部利剛父子、楢山佐渡等一行は、この金地院にて謹慎、利剛父子が藩邸に移された後も、楢山佐渡はそのまま金地院に留め置かれ、後佐渡に処刑の沙汰が下り、盛岡藩より盛岡での処刑を申し入れ、佐渡は5月22日盛岡に移され処刑されたのである。
 <近藤周斎墓>
 
同じく金地院墓地内にある、近藤勇の養父近藤周斎の墓。
 墓の下部には慶応3年霜月28日に勇が謹上した旨と、裏面に「祠堂金二十両納之」とあり、近藤勇が周斎の没後1ヶ月に墓の建立と多額の金を出したことが解かる。一説には、この二十両は会津藩からの見舞金である説もある。会津藩の往復文書でも11月2日に下記の様な書簡がある。

 『(略)私共師範近藤勇義於京地御厚恩を蒙り居、此度養父病気ニ付御暇相願罷下候積之処、御都合有之見合同宿土方歳三罷下り申候処、其後ニ至り去年廿八日病死致候、残る家族迚ハ婦女子計ニ而、一類並門人共打寄葬式等取計、其段ハ町便を以勇へ申遺候義ニ御座候得共、御屋敷へハ私共より御届申上候間、此段京地へ被仰遺勇江も被仰聞被下度旨申、別紙之通御御届書差出申候、右勇義ハ於京地格別尽力致居厚御取扱も被成下候義、爰元家族婦女子計ニ而不自由之事ニも可有之、先以不取敢不幸為御見舞御内々金弐拾両も被下置、其段京地へも被仰遺被下度旨御聞番申出候ニ付、申出候通金金弐拾両御内々被下候間、申聞方宜取計候様申聞候、被達 御聴候義を始其表之義宜被取計候(以下略)』
 【幕末会津藩往復文書・上巻】より

 





 

青松寺

 <請西藩主 林忠嵩墓>
 
金地院から少し歩いた所に、青松寺がある。
正面から墓地へ行く途中に、ちょっとした人造滝(?)があって、龍の像があるのだけれど、それがちょっと悪趣味っぽいと思った…。

 ここ青松寺には、請西藩主林忠嵩の墓がある。これまたけっこうむちゃくちゃな殿様で、若かった為もあってか、藩士を引き連れて、藩主自ら脱藩して、遊撃隊と共に東北まで行動を共にしてしまったお殿様です。
 そして何だかんだで、結局昭和16年94歳で最後の大名として死去。

 本当はここに請西藩戦死者の碑があるはずなのだけれど一体どこにあるのか解りませんでした(爆砕)

東京都港区愛宕2−4−7

 

 



 

専称寺

 
 <沖田総司墓>【非公開】
 
かの有名な沖田総司の墓です。
 基本的に非公開で、1年に1度「総司忌」の時にだけ公開されますが、絶対にX2お寺に問い合わせる事はしないで下さいとの事。(お寺に問い合わせが来たら、総司忌を行わなくなります)総司忌は命日に近い日曜に行われますので、新人物往来社の歴史読本をチェックしてみて下さい。
 総司忌以外の日は塀の外から眺めるだけにしましょう。
 <沖田芳次郎墓>【非公開】
 
沖田総司の墓の左隣にあるのは沖田総司の甥沖田芳次郎の墓で、沖田芳次郎は父沖田林太郎と共に新徴組に入隊し、庄内にて参戦。エピソードとして、三村伊賀右衛門(※)の介錯をしたという逸話が残ってます。
 戊辰戦争後は、新徴組隊士達は庄内藩に留め置かれ、開墾事業に従事させられ、隊士達は脱走者が相次ぎ、芳次郎もいつしか東京に戻っていたという。
※三村伊賀右衛門は、芳次郎の妹「久満」の夫である三村将太郎の父。
 
 <三宅捨五郎墓>【非公開】
 
同じ専称寺の墓地内にある新徴組隊士「三宅捨五郎」の墓。
 文久三年4月より新徴組に入隊するが、慶應元年2〜4月にかけ仲間と強盗を繰り返し、捕縛され6月28日投獄される。慶應2年5月29日に35歳で死去。同じ新徴組隊士沖田林太郎によって、沖田家の菩提寺であるこの専称寺に葬られている。
 墓碑は「勇進院顕誉励猛居士」の戒名が刻まれている。

 

 

長谷寺

 

⇒長谷寺への交通
日比谷線六本木駅より徒歩20分
拝観無料/境内自由

東京都港区西麻布2丁目21-34
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 <西郷近光墓>
 
 <保科有隣墓>
 
会津藩家老西郷頼母近悳の長男。通称吉十郎。
 戊辰時11歳で、母と姉妹ら21人は8月23日自害し、吉十郎はその前に家を出て城に入城し、父頼母に連れられ、籠城中の若松城を脱出し、仙台から箱館へ向かう。
 父が五稜郭に入城のとき箱館神父沢田琢磨に預けられる。
 戦後、西郷隆盛の援助でアメリカ留学の説あったが、病のため東大医学部病院で死去。
 
 <井上馨墓>
 
 
 <小森駿馬墓>
 
会津藩士小森一貫斎の長男。戊辰時29歳。
 鳥羽伏見の役後、父一貫斎は会津に帰り朱雀士中一番隊中隊頭として白河口、母成峠の守備と、軍務に専念するに及び、馬術に秀でた駿馬は容保の側用人を務めた。
 戦後、東京にて謹慎した後、上北郡藤坂村に移住した。明治6年6月東京に移住、明治44年9月27日没した。
 
 他会津藩士墓>
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玉窓寺

 

⇒玉窓寺への交通
◎東京メトロ
半蔵門線青山一丁目駅(5番出口)より徒歩5分
拝観無料/境内自由

東京都港区南青山2丁目7-8
 青山霊園に隣接した寺(墓域)で、乃木将軍の墓の近くです。境内に墓地は無く、本堂の道を挟んだ向かいに墓域がコンクリート塀に囲まれて存在します。
 この寺には、凌霜隊隊士であった速水小三郎の墓があります。
 墓域を散策して廻ると、かなり古い江戸期の墓も多く見られます。
 <速水 小三郎墓>
 
本堂向かいの墓域入口を入って3本目の脇道を左折した真中あたりにある速水小三郎の墓。
 速水小三郎は、郡上藩の藩士で、慶応4年、郡上藩は凌霜隊を旧幕府軍に応援として内密に出陣させる事となり、速水小三郎は凌霜隊を会津藩に付属させる伝令役として同行したのであるが、いつの間にか凌霜隊の副参謀となって会津戦争までを戦い抜き、会津にて降伏、国許の郡上八幡に隊士達と共に戻された後、藩命で遠征したにも係わらず、藩は新政府軍の目を恐れ、赤谷揚屋にて禁固となったが、郡上内外の寺々の尽力によって長敬寺に移されたが、釈放された後も藩の待遇は冷たく、藩士たちは悉く郡上を後にし、速水小三郎も明治4年9月に正雄と改名し、郡上を離れ尾州春日井郡で教授となり、明治5年岐阜の伊奈波神社の祠官を勤め、岐阜県庁の訴擬律掛を務める。明治10年東京に出、明治13年に宮内省御系譜掛雇いとなる。明治28年に長男を勘当し妻と離縁、明治29年10月に75歳で死去。(法名は誠性院諦岳行道居士)
 <招魂碑(会津藩士 佐藤 操墓)>
 
会津藩士で、9石2斗2人、御普請方で、京都守護職として会津藩が上京した際扈従して京都へも上り、戊辰戦争の際8/25に城内にて戦死。
享年62歳であった。
 この招魂碑は13回忌の際に建立されたものである。

 速水小三郎の墓を探している時に偶然発見したもので、碑文内容に、会津藩に仕え、京都に行って、戊辰戦争で…とあったので、家に帰ってから誰のモノなのか殉難者名簿で調べてみて…多分この人物だと思います…(汗)

 

::参考文献::
『凌霜隊戦記「心苦雑記」と郡上の明治維新』八幡町
『会津人物事典(武人編)』歴史春秋社
紙碑・東京の中の會津』日本経済評論社
『幕末会津藩往復文書(上・下)』会津若松市
『会津戦死殉難者人名録』
『幕末維新人名辞典』新人物往来社