---中野区---

 

貞源寺


⇒貞源寺への交通
西武新宿線 沼袋駅より徒歩10分
拝観境内自由/拝観料無料

東京都中野区沼袋2丁目19-28
 貞源寺には、幕末戊辰史では有名な伊庭八郎の墓と、その家族や道場関係者の墓があります。
 八郎の墓は実母の墓に同葬されており、小さく「伊庭八郎」の名を見る事が出来る。そして同じ敷地内には実弟で星亨を刺殺した伊庭想太郎の墓もある。
 伊庭家の墓は、本堂脇墓所入口左に一列に並んで建立されています。(昔と場所が変わっていますので御注意)



 <伊庭八郎墓>
 伊庭八郎は、心形刀流八代目、秀業の長男として弘化元年生まれ、後九代目、秀俊の養子となる。八郎は、剣術の才を認められ、将軍警護役の「奥詰」に任じられ、将軍と共に二度上洛する。「奥詰」は後に名を「遊撃隊」と変え、鳥羽伏見の戦いに参戦、胸に銃弾を受け吐血して倒れる。
 慶喜が水戸に恭順すると、人見勝太郎等と共に一時榎本艦隊に身を寄せるが、榎本が艦隊の一部引渡しに応じると八郎は憤然として下船、房総に向かい請西藩と同盟し、箱根にて新政府軍と激戦を行い、その際に八郎は腰を打ち抜かれ、更に左腕を切り落とされる。
 その後、開陽丸に収容され箱館に向かい、木古内戦にて致命的な負傷を負い、明治2年榎本の薦めるモルヒネを飲み服毒死する。享年26才。
 なお、末弟の伊庭想太郎は、明治の政治家、星亨を暗殺した人物。

 

墓石に刻まれた「伊庭八郎」の名前

 

 
 <伊庭想太郎夫妻墓>
 想太郎は1851年伊庭八郎の実弟として生まれる。戊辰戦争後に家督を継いだ想太郎は家塾 文友館を開設して地域教育に貢献。東京農学校の校長や日本貯蓄銀行の頭取も務めた。
 明治34年6月21日東京市参事室にて東京市会議長の星亨を暗殺し入獄する。後明治40年10月31日胃癌で獄死する。
 想太郎が星を刺殺した理由は「星が近年政事上、教育上の事に口を出し欲しいままを極め、加え東京市政を乱す事甚だしく、もはや社会に存在する事が許せなかった」としている。

 

 

---練馬区---

 

広徳寺


⇒広徳寺への交通
有楽町線「氷川台駅」都営大江戸線「豊島園駅」
西武豊島線「豊島園駅」より徒歩15分。
西武池袋線「練馬駅」「平和台」、有楽町線「桜台駅」より徒歩20分。

拝観境内自由/拝観料無料

東京都練馬区桜台6丁目20-19
 北条氏政の子、岩槻城主太田氏房が明叟和尚を小田原に招き、早雲寺の子院として建立したのが始まり。小田原城落城の際、焼失したが、徳川家康が二代希叟和尚を江戸神田に招き再興。その後、下谷に移り、諸大名の江戸での菩提寺とされ、大きく繁栄した。
 しかし、関東大震災や区画整理などにより昭和46年に現在の地に移転、現在も境内墓地には多くの大名や著名人の墓所があり、その中に会津藩藩主一族の墓所もある。



 <会津松平家一族墓地>
 大名家墓地の一角にある「会津藩松平家墓所」で、ここには江戸藩邸で没した11名が葬られている。右側の墓は男子を、左の墓は女性を葬ったものである。なお、容保の正室「敏姫」も左の墓に埋葬されている。
 真照院(三代正容の長男・久千代丸享年13歳)、宜明院(四代容貞の弟容章の子容詮で五代容頌の養子。享年36歳)、良徳院(容詮の三男、六代容住の弟容序、享年18歳)。
 僊渓院(二代正経の正室、お久満の方。享年63歳)、正覚院(四代容貞の正室、お友の方。享年24歳)、松寿院(容詮の正室お頴の方。享年36歳)、本光院(八代、容敬夫人おせつの方、享年16歳)、清仙院(八代容敬室、お厚の方、享年40歳)、寿鳳院(六代容住正室お謙の方、享年52歳)、浄心院(五代容頌正室お銑の方、享年19歳)、
宝鏡院(九代容保正室、八代容敬娘敏姫)が埋葬されている。
他に、会津関係として松嶺院(前田綱紀正室お松の方)、梅園院(前田宗辰室、お常の方)も前田家墓地に埋葬されている。

 

墓石に刻まれた「宝鏡院殿(敏姫)」の法名

 

 

十一ヶ寺 墓地

 

 <三村伊賀右衛門・三村将太郎・久満(旧姓沖田)墓>
 田島山十一ヶ寺とは練馬区にある、浄土宗田島山の寺が11集まった寺町で、ここの墓地に「三村家」墓がある。
 三村伊賀右衛門は新徴組隊士で、沖田総司の甥沖田芳次郎(総司の姉ミツの長男)が介錯した人物であり、また芳次郎の妹「久満」の夫である三村将太郎の父。
 墓碑には三村将太郎、久満の名前が刻まれています。
 
東京都練馬区練馬4丁目25-9(地図
 都営大江戸線「豊島園駅」より徒歩2分。