松陰神社

 

⇒松陰神社への交通
東急世田谷線松陰神社前駅より徒歩5分。
渋谷駅より三軒茶屋行きバスで「松陰神社前」下車徒歩15分
境内自由

東京都世田谷区若林4-35-1
 松陰神社はその名の通り吉田松陰を祭神とする神社で、文久3年に門下生であった伊藤俊輔(博文)や高杉晋作等の尽力で、小塚原に埋葬された遺骨を、毛利家の持地であった世田谷若林の地に改葬、明治15年11月に門下生達が社を築いた。現在の社殿は昭和2〜3年に没後50周年を記念して造営されたものである。
 また、境内の墓地には、門下生であった人物の墓所も建立されており、萩の松下村塾を模した建物も建立されています。
 …他の史跡と違って人が多いですよね…。
 <吉田松陰(寅次郎)墓>
 松陰は天保元年8月4日に萩藩士杉家の次男として生まれ、名は矩方。通称は寅次郎。6歳の時に叔父の吉田家を継ぐ。
 その後、東北を遊学する際、肥後藩宮部との約束を護る為脱藩し1854年にはペリーの艦隊に密航を訴えるが失敗し、長州に送り返され野山獄に幽閉される。
 その後、叔父の開いていた私塾「松下村塾」を引き継ぎ、伊藤利助(博文)、山県狂介(有朋)、高杉晋作、品川弥二郎、吉田栄太郎(稔麿)、佐世八十郎(前原一誠)、久坂玄瑞等を育てる。
 1858年、幕府が勅許なしで通商条約を結ぶと激しく批難し、老中間部詮勝暗殺を企て、門弟等にも見放され藩にも警戒された為実行には移せず、安政の大獄が起こると、幕府より松陰を江戸に送るよう命が下り、松陰は自ら間部詮勝暗殺計画を自供し斬首となる。
 <頼三樹三郎墓>
 
1825年、高名な学者頼山陽の三男として生まれる。1843年から江戸で学ぶが、将軍の菩提寺である寛永寺の石燈籠を破壊して退学となる。
 その後、東北・蝦夷地に遊学し、松前藩の探検家松浦武四郎と懇意となる。
 1849年に京都に戻り、勤皇志士として活動するが、安政の大獄が起こると、捕えられ福山藩邸にて幽閉され、後小塚原にて処刑される。
 <小林民部墓>
 文化5年(1808)生まれ、鷹司家家士で、尊皇攘夷の志し深く、安政の大獄に連座して獄死。小塚原より改葬。享年52歳。
 
 <来原良蔵墓>
 天保13年12月来原良左衛門盛郷の養子となった。
 嘉永5月安積艮斎に従学して5年帰萩した。同6年正月先鋒隊に入り、6月米艦来航に江戸に行き7月浦賀の形勢を視察し、8月森重武兵衛に水軍砲術を学んだ。
 安政元年相模警衛の任についた。8月浦賀奉行支配組与力中島三郎助の門に入って合薬製造掛となる。安政2年10月江戸番手となり、手廻組に加えられて密用方右筆役を勤め、末家岩国の内用掛を兼ねた。12月御手当方内用掛となり、長崎へ出張して蘭人の直伝習を受け、安政6年9月明倫館助教兼兵学科総督となり、山田亦介と軍制改革に尽し、11月江戸に行って有備館の文武諸業御用掛を勤めた。また西洋銃陣の改革のため万延元年5月帰萩。
 万延2年3月上京して留まり、藩老公武合体を主張する長井雅楽を除くため奔走。8月江戸に行って横浜の外人襲撃を謀ったが、藩世子に過激を誡められ、ついに国論誤解の責任を感じて自害。享年34歳。
 嘉永2年には佐世八十郎(前原一誠)が一年間寄宿している。
 <中谷正亮墓>
 
萩藩士中谷市左衛門の子として生まれる。
 嘉永4年、松陰が江戸に遊学する時は正亮と同道した。
 尾寺、久坂、高杉らを松下村塾に誘ったのは正亮という。松陰刑死後は同門の士と行動を共にし、また薩摩の有馬新七らとも交わり、その義兵に参加することを約したが寺田屋の変により未遂。その直後藩命により江戸へ出たが発病、文久2年閏8月没。32歳。
 
 <野村靖(和作)墓>
 入江九一の弟。萩藩足軽嘉伝次の子として天保13年生まれる。安政4年11月、兄九一より早く16歳のとき松下村塾に入塾する。
 大胆な性格で、松陰が京へ公用で行く際、京に居る長州藩士に「才気があり読書が大変好きだが、年若く身軽で性格も鋭いので、行動を抑えて欲しい」と頼むほどであった。安政3年15歳で馬関の新地営所勤めを命じられるも、同僚の失敗の為連帯責任を取らされ数日で辞めさせられる。
 老中間部詮勝暗殺計画等賛同したが、その為、兄九一と共に自宅謹慎となり処分が解かれた後、改めて伏見要撃策を実行する事となり、松陰が塾生に声を掛けるも殆どが反対し、結局兄九一だけが実行する事となるが、家族の面倒を見なければならない九一に代わって靖が実行する事となり、九一と家族は家財道具を売り払い靖の活動資金とした。しかし、母満智の口から前原一誠に漏れ九一は岩倉獄に繋がれ、靖は京へ向かったが伏見要撃策は失敗に終わり、大阪に潜伏していたが長州藩邸に自首し、九一と共に岩倉獄に繋がれる。
 万延元年釈放され、京都江戸に活躍。文久2年には高杉らの英国公使館焼打ちに加わる。3年士分に取上げられ、内訌戦、四境戦争では御楯組を率い転戦。 維新後は、岩倉大使一行に従って欧米諸国に出張した。内務大臣、通信大臣などを歴任。明治42年1月没。68歳。

 

 

(左)福原乙之進墓/長州藩士。文久3年江戸刈谷藩邸に居たところを古河藩兵に襲われ自刃。享年27歳
(右)綿貫治良助墓/長州藩士。禁門の変により江戸長州藩邸没収の際、幕吏と争い自刃。享年29歳

 

 
 <長藩第四大隊戦死者招魂碑>
 
松陰神社HPの説明には「元治元年の禁門の変の際、幕吏に殺され或いは幕獄で亡くなった45人の招魂碑。」と記されているのですが…本当??だって第四大隊って関係ないよ…??説明文からすると、禁門の変の際の江戸藩邸没収に係わる死者の事を言っているのでしょうが…(戦死じゃないし…)詳しい事分る方いらしたら是非教えて下さいm(__)m
 
 <松下村塾>
 松下村塾は、吉田松陰の叔父玉木文之進が天保13年寺子屋を開き「松下村塾」の看板を掲げたのが始まりで、吉田松陰が野山獄を出獄した後に松陰が玉木より引き継いだ。
 実際に松陰が子弟達に教育を施したのは約2年ほどであるが、その子弟の中には、伊藤利助(博文)、品川弥二郎、山県狂介(有朋)、高杉晋作、久坂義助(玄瑞)、山田市之丞(顕義)、佐世八十郎(前原一誠)、野村和作(靖)、吉田栄太郎(稔麿)などがいる。
 
 <江戸藩邸没収の際の犠牲者慰霊碑>
 禁門の変により江戸・京都・大阪の長州藩邸が没収される事となり、京の藩邸は戦乱に紛れ逃走し、大阪も話し合いにより無事退去、しかし江戸藩邸については7月26日幕吏により拘禁され、未明に山形藩主水野忠精に家老代理であった波多野藤兵衛等が呼び出され、藩邸没収の命を伝え、波多野は4〜5日の猶予を願い出るも許されず、強引に藩邸は没収され、藩士たちは捕えられ掛川藩邸などに幽閉され、その待遇は過酷を極め、2年間の間に51名が次々預け先で亡くなったという。
 その内の45名の氏名と没年が刻まれた石碑。