高嶺秀夫墓

 

 
 <高嶺秀夫墓>

1種イ3号7側

 

 

 

寺本義久墓

 

 
 <寺本義久警部補墓>
 思案橋事件で殉死した寺本義久の墓。
 弘化4年桑名に生まれ、藤堂藩に出仕、明治4年に警視取締組となり、次いで小頭に転じ、明治7年5月警部補となった。
 明治9年10月29日、旧会津藩士永岡久茂、竹村幸之進等が旧長州藩士前原一誠等と共謀し、決起しようと思案橋の袂から船出しようとした処に寺本等警官が駆けつけ斬り合いとなり、寺本警部補、河合二等巡査が殉死、しかし永岡等は捕縛され、永岡はこの時の傷が元で獄死、竹村・井口・高津は翌10年2月処刑された。後に思案橋事件と呼ばれる。
墓石の左脇に「為 寺本義久君」と刻まれた燈碑があり、これは事件後間も無く、川路利良大警視が建立したものである。

1種イ3号5側

 

 

 

若松賤子墓

 

 
 <若松賤子夫妻墓>
 二つの五輪塔が並ぶ、奥の方が若松賤子の墓である。
 本名は巌本嘉志子で会津若松の阿弥陀寺で生まれた。幼名は甲子(かし)、父は古川家より松川家に養子入りした松川勝次郎正義で、戊辰戦争が起こった時は賤子は3歳であった。戊辰後父は斗南へ向かったが、病弱な母と共に賤子は若松に残る。その後、横浜の織物商山城屋和助の手代大川甚兵衛は賤子の才に惚れ養女にと要望、横浜の大川家に養女として入る。後、キリスト教の洗礼を受け、その後『女学雑誌』23号に「若松賤子」のペンネームで「旧[ふる]き都のつと」と題する鎌倉紀行文を発表した。「若松」は生地からとったもの、「賤子」は神の恵に感謝するしもべの意味である。明治22年には巌本善治と共に土佐藩士中島信行夫妻が証人となって結婚。

1種イ4号13側

 

 

松平定敬墓

 

 <松平定敬墓>
 言わずと知れた容保サマの実弟、桑名藩主松平定敬の墓で、左脇には妻・初子(初姫)の墓石が並んでいます。
 美濃高須藩に生まれた定敬は、桑名藩主高猷が病死した事で、嫡男万之助が幼少であった為、長女初姫の婿養子となるべく桑名藩入りし桑名藩主となる。京都守護職であった実兄会津藩主松平容保と共に京都で京都所司代として活躍。鳥羽伏見の戦い半ばで徳川慶喜等と共に東帰し、後謹慎。
 その後、桑名藩が万之助(定教)を藩主に立て降伏した為、桑名に帰藩出来ず、飛び地の柏崎へ行き、立見・町田等従う藩士等と共に北越戦争を戦い、会津入りし兄容保と再会。のち開陽丸で蝦夷地入りするが、説得により箱館を脱出、一時上海に密航した後、江戸尾張藩邸に入り降伏。明治2年8月藤堂藩邸にて謹慎、明治5年正月謹慎が解け2月には初姫と結婚。同年11月には自費でヨーロッパへ行き、明治10年には旧桑名藩士を募集し西南戦争に参戦。明治41年7月21日没した。
1種イ4号2側

 

 

松浦武四郎墓

 

 
 <松浦武四郎墓>

1種ロ10号2側

 

 

 

山脇十左衛門墓

 

 
 <山脇十左衛門墓>
 山脇十左衛門(正軌)は桑名藩家老で、定敬の前四代に仕え、勘定頭・目付を経て在京公用方・外交掛斡旋方。戊辰戦争の際には軍事奉行となり北越戦争で戦う。河井継之助・佐川官兵衛と並んで北越戦争三傑と呼ばれた。
 戊辰後は、自らの抗戦責任と藩士処分の軽減を嘆願する。
 明治3年には桑名藩大参事となり、翌年致仕する。明治11年8月26日に順天堂病院にて没した。

 墓域は植込みに囲まれていて、素通りしてしまいました〜o( ̄ー ̄;)ゞ

1種イ4号19側15番

 <山脇正勝(隼太郎)墓>
 山脇隼太郎は、十左衛門の子に生まれ、定敬の小姓となる。
 戊辰戦争の際は、父十左衛門と共に柏崎に行き、同藩士高木貞作と共に恭順派の家老吉村権左衛門を粛清する。
 開陽丸に乗る為、新撰組に加わり定敬と共に蝦夷地に渡り箱館戦争に参戦し、弁天台場にて降伏。
 釈放後は、アメリカに留学、帰国後は三菱に入社し、長崎造船所で13年間所長を務める。明治38年5月6日没。

 1種イ4号19側15番





下岡蓮杖墓

 

 <下岡蓮杖墓>

1種ロ6号5側