俣野時中墓

 

 

俣野時中墓>
安政4(1857)年4月4日〜明治45(1912)年4月
庄内藩士俣野景敏の次男として鶴岡家中新町で出生。明治2(1869)年大泉藩知事となった忠宝の陪学生に選ばれる。同4
(1871)年西村時叙の養子に入って後離縁。翌5年より松ヶ岡、次いで黒川の開墾事業に左kな。明治9(1876)年上京して司法省法律学校に入学、法律経済を学んだが、その後高田新聞社の主筆となり、同18(1885)年東京専門学校講師、次いで和仏法律学校講師として在勤。明治23(1890)年3月キリスト教主義の藤生金六の後を受け、鶴岡の荘内中学校に二代目校長として招かれ、内容の充実、後者の改築等に尽力したが、国粋主義に徹した為、職員生徒の排斥を受け明治25(1892)年3月辞任。
 妻は金井允釐の娘。 享年56歳。
8区1種9側

 

 

井深大墓

 

 
 <井深大墓>
 明治41(1908)年4月11日〜平成9(1997)年12月19日
 父は井深甫、祖父は井深基は、会津藩白虎隊士石山虎之助の実兄で、自身も会津藩朱雀隊士として戊辰戦争に参加し負傷。
 2歳の時に父甫が亡くなり、祖父基に引き取られる。学生時代から奇抜な発明で有名で、卒論は「変調器としてのケルセル 附光線電話」。
 昭和20年10月、東京 ・日本橋の旧白木屋店内に個人企業「東京通信研究所」を立上げる。昭和21年5月株式会社化し、資本金19万円で、義父の前田多門が社長、井深が専務(技術担当)、盛田昭夫が常務(営業担当)、社員20数人の東京通信工業(後のソニー)を創業。享年89歳。
 17区1種8側

 

 

 

丹羽七郎墓

 

 
 <丹羽七郎墓>
 明治18(1885)年3月31日〜昭和10(1935)年7月7日
 父は会津藩士丹羽五郎。丹羽五郎は警視庁に勤め西南戦争に出兵。後北海道の瀬棚に移住し開墾、丹羽村を開村する。

 明治18年に東京麻布東町で生まれ、最初里子の口があり芝巴町の市原五郎吉宅に預けたが、間もなく先方の都合で復縁する。麻布小学校に入り、父の北海道移住と共に函館に移り、そこの小学校に入るが眼病治療の為東京に出て、城北中学に入り、明治38年札幌農学校に入学、抜群の秀才で更に京都帝国大学法科に入学。在学中に文官高等試験に二番の成績で合格、翌大正3年首席で京都帝大を卒業。東京府理事官から更に内務省警保局事務官、内務書記官、土木局港湾課長、明治神宮造営局書記官、神社局第二課長、復興局書記官、土木局道路課長等を歴任の後、昭和4年7月岩手県知事に任命される。翌5年8月埼玉県知事に移るが僅か8ヶ月で土木局長に就任。更に社会局長官を経て昭和9年には内務官僚の最高峰である内務次官に任命される。大正3年に松浪博士の次女行子と結婚したが、不幸にも二年後夫人は21歳で病死、のち浅井郁太郎の長女正枝と結婚し、二男一女をあげ、四谷三光町に住んだ。
 14区1種3側1号

 

 

柴山良助墓

 

 <柴山良助墓>
 薩摩出身。父は薩摩藩医の柴山良庵。名は道懿。
 弟には薩摩藩尊攘志士の柴山愛次郎、海軍大将の柴山矢八がいる。(同葬)
 薩摩藩士として、ペリー来航以来尊王攘夷運動に従事する。 1862(文久2)島津久光に従って京都に上るが、寺田屋事件に連座して謹慎を命ぜられ帰国。 文久3(1863)年の薩英戦争では軍役について活躍したことで罪を許された。 慶応元(1865)年、江戸留守居添役になり、横浜において英国との交渉にあたる。 慶応3(1867)年の薩摩藩邸焼討ちの際捕えられ、翌年、伝馬町の獄に繋がれる。 免れ難きを知ってピストルで自殺。
 10区1種13側37号

 

 

俣野市郎右衛門景明墓

 

 
 <俣野市郎右衛門景明墓>
 天保9(1838)年3月21日〜明治16(1883)年8月6日
 庄内藩郡代俣野市郎右衛門直吉の長男。嘉永2(1862)年家督を継いで番頭。文久2(1862)寺社奉行、慶応元(1865)年大砲組番頭に任じられる。
 慶応3(1867)年12月江戸薩摩藩邸焼討ちの参謀を務め、翌4年戊辰戦争が起こると天童攻めに酒井兵部麾下で奮戦、あまりに暴走が過ぎる為、鶴岡城首脳陣より強制帰還命じられる。後四番大隊と共に海道を攻め上がり秋田攻めに参加。明治9(1876)年4月東京に上って福沢諭吉の門に入り、さらに板垣退助と交わり同11年内務省大警部に任じられる。鹿児島の岩倉警視と共に琉球への使者を務めて、翌12年仙台典獄に転じたが同14年に辞任。享年46歳。
 5区1種16側 <鶴岡市の金浄寺から改葬>

 

 

俣野景蔵墓

 

 
 <俣野景蔵墓>
 保野景蔵は俣野景敏の三男として鶴岡で生まれる。
 兄には、長男に警視庁警部となった俣野景孝、次男に教育者の俣野時中がいる。
 景蔵は明治に大坂府警部の後、山形県警部となり、明治生命保険株式会社監査役となる。娘が小説家の水上瀧太郎と結婚する。
 



松平健男

 

 
 <松平健雄・勇雄墓>
 松平容保の次男。母は佐久。
 明治29(1896)年の静岡市の久能山東照宮宮司を務めていた際、アメリカの友人よりイチゴ苗を入手。同33(1900)年に健雄が転任する際に、車夫の川島常吉がそのイチゴ苗を譲り受け、川島は色々工夫・観察をしている際、石垣の間に植えた苗が、発育も良い事に気が付き、翌年、石垣に植える苗を増量。これが
「石垣いちご」の始まりである。
 また、次男に衆議院議員や福島県知事を務めた松平勇雄がおり同葬されている。
 4区1種21側

 

 

千葉雄太郎墓

 
 <千葉雄太郎墓>
 新徴組隊士。名は長胤。武蔵国出身。千葉新六郎(忠助)の長男。父と共に新徴組に入隊し、しかし父忠助が病死した為家督を雄太郎が継いだ。慶応元(1865)年12月12日夜同僚の羽賀軍太郎、中村常右衛門らと江戸市内の巡察の折、神田明神前で暴行をはたらいていた幕府小譜請組石川又四郎配下永島直之丞をその場で殺害。3人はその責を問われ、幕府より下手人を差し出す様に下命された庄内藩は「大法は大法である。旗本であればなおさらの事」とし抗議の長文を提出、更に「咎めるなら新徴組委任や江戸市中取締りの役目を免除して欲しい」と提出。困った幕府は新徴組委任と取締りの役目を免じた。その為、三人は運命打開は切腹にあると決意。雄太郎は自らの長屋で切腹したが、貧乏に苦しんだのか裃もなく平生の羽織袴のままで丑の下刻(午前3時)に切腹。辞世と「御取扱頭取中」宛の遺書があった。行年21。妻は17歳であった。雄太郎の家督は弟の弥一郎が慶応2年2月相続し庄内入りしている。 辞世は「君のため 思ひ定めし身なれども なほ別れうき丑三つのかね」 3区1種30側