和田倉門(会津藩上屋敷跡)


⇒和田倉門跡(会津藩上屋敷跡)への交通
JR東京駅丸ノ内中央口より徒歩5分

東京都千代田区皇居外苑

 江戸時代、会津藩の上屋敷は和田倉門内の江戸城西丸下の北部、9150坪と伝えられる敷地に置かれていた。正之の頃には桜田門内に藩邸があったが、三代正容の代、宝永6年にこの和田倉門内に屋敷を賜り、以来戊辰戦争までの160年間の間、江戸における会津藩の政事の中心となった場所です。

 慶応4年2月に会津藩士が帰国し、藩邸を引き払った後は軍務間糾問所が置かれ、明治4年には御用邸、7年には陸軍調馬厩となり、明治36年には皇太子殿下御成婚記念公園となり現在に至る。当時を偲ぶ遺構としては、石垣と、当時のまま復元された和田倉橋のみである。 また、この糾問所が広沢安任や武川信臣等が拘置された場所である。

 <和田倉門跡>

 和田倉門の由来は、この辺りに「和田倉」という名の大きな倉が2つあったからという説と、家康が江戸入りした時、すでにこの地は「和田倉」という村落であったという説があります。

 現在、この和田倉門跡に架けられている橋は、昔の姿を復元したものので、石垣と共に当時を偲ぶ遺構の一つである。







皇居(江戸城)

 

⇒皇居(江戸城)への交通
JR東京駅丸ノ内中央口より徒歩5分

東京都千代田区皇居外苑

 江戸幕府が置かれた場所で、現在は皇居となっていて、一部を除いて見学には許可が必要、或は見学不可。
 1457年に太田道潅が築き、1590年徳川家康が入城したが、当時の江戸城はみすぼらしい建物のみで、城の東側は一面の潮入りの葦原で、西南はでこぼこの台地で丈なす草原が続く荒地であった。家康は城下町の整備を行い、のち江戸城の改修・増修を行い、諸大名の経済力を削ぐように費用を捻出させ、三代将軍家光の代に25年に亘る工事が完成した。
 しかし、明暦3年の大火で江戸は2/3を焼失。江戸城も五層六階あった天守閣が焼失したが、のち会津藩主保科正之の提言で「天守閣再建より江戸市民の救済を最優先するべき」として、先送りし江戸再建を計った為、以後再建される事は無かった。

 







思案橋事件跡


⇒思案橋事件跡への交通
東京メトロ人形町駅より徒歩7分程度

東京都中央区日本橋小網町19

 明治9年10月29日に思案橋の袂で起こった事件、のちに「思案橋事件」と呼ばれる事件があったあたり。
 現在は小網町一丁目〜二丁目に通じる思案橋は東掘留川が戦災により、昭和24年に埋められたのと同時に失われた。

 綱淵謙譲の「苔」では、『現在の日清製粉のビルと小公園との間にあったと思えばよい、今も道路が小高く橋の形なりになっているのはその跡であろう』としている…が、やはり面影と思えるものがないのが切ないものである。
 上の写真は、その小公園こと「小網町児童公園」とその向こうに見える建物が日清製粉ビルである。

 右は文政11年(1828年)当時の思案橋付近の地図(人文社・ちよだフェス10周年参加記念地図より)
↓は現在のこの付近の地図。現在は日本橋川は形を変えずそのままなので、解りやすいかと…。
現在の小網町付近地図
 思案橋のあった東堀留川は埋め立てられてしまって現存はしていません(TwT。)…が、思案橋事件は、小網町一丁目から二丁目に通じる思案橋の袂であったという。

 

【思案橋事件】
、旧会津藩士の永岡久茂や竹村俊秀、高津仲三郎、井口慎次郎等、前原一誠等と謀り、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、に呼応して挙兵、千葉県庁を襲い県令を殺害し、佐倉鎮台兵を説き、日光を経て会津を扼し若松に大挙しようと計画。
 明治9年10月29日に東堀留川が日本橋川に注ぎ落ちる口、小網町1丁目から2丁目に通じる小さな橋「思案橋」のたもとにて、14名の一向が、不審に思った船の船頭の通報によって駆けつけた警官4名と斬り合いになり、2人の警官(寺本警部補・河合巡査)が死亡、1人警官重傷(木村巡査)の犠牲を出し、挙兵としては未遂として終わり、一向は数名を除いて捕縛され、関係者も国事犯として手配され捕縛され、首謀者とされた永岡久茂は獄中負傷が元で死亡、竹村・高津・井口は翌10年2月7日処刑されたという事件。