日下義雄墓

 

 
 <日下義雄墓>
 
日下義雄は、あの有名な白虎隊士石田和助の兄。
 日下義雄は会津の医師石田龍玄の子として生まれ、幼名は五郎。
 鳥羽伏見の戦いで負傷したのち大鳥圭介の隊に投じ箱館五稜郭まで転戦。当時18歳であった。
 箱館戦争後、増上寺にて謹慎中石田義雄と名乗る。
 のち、井上馨の知遇を受け、大阪英語大学に入学、この時「日下義雄」を名乗る。のち米国に留学、更に欧州へ赴く、のち太政官権大書記官に任ぜられ、初代長崎県知事となる。明治25年福島県知事となり、第一銀行取締役、国会議員となった人物。
 標柱の入り組んだ場所で発見するのに苦労しました。

乙8号7側(墓域には5基の墓があります)

 

 

井深元治墓(日下家墓域内)

 

 <井深元治墓>
 元会津藩士で、戊辰後、民政局監察方兼断獄であった暴虐な久保村に激怒した会津藩士伴百悦等が河沼郡束松峠にて久保村を惨殺した「束松事件」が起こった。井深元治はその一人である。
 元治は名前を変え官憲の目を逃れ大阪にて請われ淀藩子弟の教育をする。ところが、久保村殺害の首謀者はすでに刑に処せられて、政府は他の犯人の追及をしないという知らせを友人から聞き、元治は東京に出て井上馨の斡旋にて学業に専念するが、元治の旧罪を密告するものがあって捕縛され、明治6年獄中にて死亡。享年25歳。
 日下義雄が元治の墓を建てた時は、元治が死亡してから21年が経っていたが、政府の高官職にある立場で政府の役人を惨殺し捕縛されて死亡した国事犯の犯人を自分の墓地内に建立するのは大変な勇気だっただろう。その為か、元治の墓は義雄の墓の真後ろで、正面からは判り難い。

 

 

酒井吉之丞(玄蕃)墓

 

 
 <酒井(玄蕃)吉之丞墓>
 庄内藩中老、酒井玄蕃(吉之丞)の墓です。
 庄内藩二番大隊隊長で「鬼玄蕃」と呼ばれ西軍から恐れられた人物です。
 しかし実際の風貌は、鬼と呼ばれたとは思えないほどの柔和な美丈夫である。
 戊辰後の明治7年には、肺病を病みながら政府の密命を帯びて開拓幹事調所広丈らと共に清国に渡り内情を偵察、帰国して「直隷経略論」を纏めしかし、明治9年2月に肺病の為わずか34歳にて没。

 乙1号9側

 

 

 

馬島家・小松家墓

 

 
 <馬島瑞謙・瑞延墓>
 馬島瑞謙は文化8年生まれで、父は馬島瑞延蘭学を志し、安政6年外国奉行水野筑後守が北米合衆国に出航する際、瑞謙もまた藩命で随行せんと2月12日会津を出発し、江戸に滞留中、にわかに罹病し、8月6日和田倉藩邸にて没。
 馬島瑞延は千葉に生まれ、幕臣馬島某の門に入り眼科を修め、馬島姓を与えられた。全国漫遊中、会津藩主容敬が疱瘡にかかり、次いで眼を患っていたところ瑞延が当時の家老の眼病を治したことから其の才能を認められ容敬の病を治療し全快させた為、瑞延は会津藩に仕える事となった。
 ちなみに、瑞延の次男、瑞謙の弟が馬島瑞園である。
 乙6号3側11番



高松凌雲墓

 <高松凌雲墓>
 20歳の時、久留米藩家老有馬飛弾の家臣川原弥兵衛の養子となるが、武士の生活に見切りをつけ、医者を志して、ついに脱藩。30歳で、将軍の侍医となる。慶応3年、徳川昭武が、幕府使節として第5回パリ万国大博覧会視察に洋行の際、凌雲は語学の才能を認められ、付添いを命じられ、フランスなど、欧州各国を視察して、世界的な見聞を広めた。
 慶應4年鳥羽伏見の戦いが起こった事を知り一行は帰国、凌雲は品川から開陽丸に乗り、仙台で転戦していた実兄古屋作左衛門と再会し共に箱館に渡る。 箱館では病院の全権を握り、負傷者は敵味方関わらず治療に当たった。大正5年10月12日80歳にて没。
 乙5号2側




徳川慶喜墓

 

 <徳川慶喜墓>
 谷中霊園内の「徳川家墓地」にあります。大きな門の中に隔離されています。
 結構至る所に「徳川慶喜墓⇒」な案内板が建っているので、結構解りやすいはずです。
 徳川家墓地(寛永寺墓地)

 

 

 

南摩綱紀墓

 

 
 <南摩綱紀墓>
 
「羽峯」と言うのは「号」である。
 南摩綱紀は会津藩士で樺太の代官の職などを経た後、京に上り鳥羽伏見敗戦後大阪に潜伏して形勢を探り帰国。
 戊辰戦争には会庄同盟を成立させる。

 戊辰後赦免され京都の学職につき、太政官、文部省を経て東京大学の教授となった人物である。

甲1号7側2番(墓)
墓と少し離れているが大きな碑も建立されている。

 
 <南摩綱紀碑>
 甲3号5側1番(碑)



羽山光和墓

 <羽山光和墓>
 堀悌助、天保7年生まれ、戊辰の際は33歳、石高11石2人、御用所御用部屋。 戊辰後、斗南か猪苗代のどちらかを選ぶかで町野主水と永岡久茂が衝突し、斬り合いに発展しそうになった時、間に割って入ったのが、この堀悌助と出羽佐太郎であった。斗南へは冬起陸行で斗南入りしており、斗南藩の少属庶務掛に任じられている。
 開拓使に参加しし北海道へ渡り、後根室に移り根室縣の大書記官となる。その後東京へ戻り明治16年7月16日肺病にて病没。享年48歳。
 
 甲7号12号

 

『故根室縣大書記官従六位羽山光和之墓碑』
⇒書は「佐瀬得三」で、佐瀬得所の子である。

 

 

 

馬島瑞園墓

 

 <馬島瑞園墓>
 文政8年10月若松で生まれ、日新館に通いながら傍ら、眼科を父瑞延に、内科を杉原外之助に学び、藩医となって江戸に出、帰藩後は医学寮教授となった。会津藩が京都守護職を拝命すると京へ随行し、戊辰戦争にも従軍、開城後は藩主容保等と共に因州藩邸にて謹慎。
 明治4年大蔵省に出仕するも7年辞職。以降は東京にて書画及び古銭の鑑別売買を行った。
 南摩綱紀が87歳で没する直前、見舞いに来た85歳の瑞園に「私は一足先に参りますから、あなたも追附お出でなさい」と言ったのに対し、瑞園は帰宅後家人に『他の事はお付き合いするが、死ぬ事だけのお付合いだけは今後20年位は出来ない』と語ったという。その11年後の大正9年1月5日没。
 甲9号12側