山川浩墓

 

 
 <山川浩墓>

 1種ロ18号5側1番

 
 <山川家墓>

 1種ロ18号5側1番

 
 <山川唐衣墓>

 1種ロ18号5側1番

 

 

高崎正風(左太夫)墓

 

 <高崎正風(左太夫)墓>

 2種イ17号1/6側1番

 

 

出羽重遠墓

 

 
 <出羽重遠墓>

 1種ロ17号9側7番

 

 

小柳津要人墓

 

 
 <小柳津要人墓>

 1種イ18号4側




伊地知正治墓

 

 <伊地知正治墓>

 1種イ9号22〜23側1番




三島通庸墓

 

 <三島通庸墓>
 三島通庸は、天保6年に薩摩藩士三島通純の長男として生まれる。
 戊辰戦争には薩摩藩兵として東北各地を転戦。
 戦後は、東京府参事・酒田県令・鶴岡県令・山形県令を、福島県令、栃木県令・内務省土木局長・警視総監などを歴任している。
 福島県令時代には会津三方道路建設や自由民権運動弾圧などを行うなど、鬼県令として知られますが、山形県令や栃木県令時代には、病院の建設や原野の開拓などを進め、栃木県の西那須野町には三島の別荘跡や三島を祀った三島神社があり、崇められている感もあり、取る立場からの見方によって色々な見方の出来る不思議な人物です。

 1種イ9号12〜16側1番

 
 <三島彌太郎墓>
 慶応3年に薩摩藩士三島通庸の長男として生まれ、駒場農学校を卒業後渡米し、優秀な成績でボストン大学より農政学の学位を取得する。
 通算7年半の海外生活の後帰国し、明治30年、31歳で貴族院議員に当選し、明治35年より予算委員として活躍し、金融経済に精通した。
 横浜正金銀行取締役、頭取を経て、大正2年、日本銀行総裁に就任。
 貴族院議員と日銀総裁の2つの激務を終始忠実に果たし、第1次大戦直後、急病により現職のまま亡くなった。
 山川大蔵の妹「捨松」が意地悪な継母のモデルとされた、徳富蘆花の『不如帰』のモデルとしても知られている。

 1種イ9号12〜16側1番

 

 

酒井孫八郎墓

 

 <酒井孫八郎墓>
 桑名藩家老。孫八郎は服部半蔵家の次男として桑名で1845年に生まれ、後酒井家の養子となる。
 慶応4年の鳥羽伏見の戦いの際、孫八郎は22歳で、筆頭家老として東奔西走し新政府軍に城を明け渡し、11月8日には徹底抗戦を貫き箱館へ行っていた藩主松平定敬に会いに桑名を出て、明治2年元旦に箱館にて定敬と対面し、定敬を説き伏せ降伏させる。明治12年、享年35歳にて没。

 1種イ16号3側

 

 

副島種臣墓

 

 <副島種臣墓>
 佐賀藩士。脱藩し、勤皇の志士として活躍。
 同じ佐賀藩士で親交の深かった大隈重信らと共に尊皇攘夷運動に携わり、大隈と大政奉還の斡旋を試みるが、藩から謹慎処分をうける。
 明治期には征韓論に破れ公職を離れ、板垣等と共に愛国党を組織し、民選議員設立の建白書を提出。
 後、明治21年枢密顧問院となるが、翌年大隈の条約改正交渉を批判して天皇の戒諭をうけた。明治25年には松方正義内閣において内務大臣を務める。
 蒼海という雅号で、書家としても優れた作品を残している。

 1種イ21号1側12番