戦死慰霊碑

⇒戦死慰霊碑への交通
東北自動車道西那須野ICより車で46分

栃木県那須塩原市(旧黒磯市)板室 地図

 <戦死供養碑・板室古戦場>
 明治27年に建てられた供養塔で、「左:いたむろ(板室)、右:ろくとち(六斗地)」と刻まれ、道路標識を兼ねている。
 板室では、戊辰戦争の際、東西軍其々より労使を強要され、東軍に従えば西軍より、その事を責められ、肉を削がれた上その肉を食うように強要され惨殺されたりと惨劇が行われた。

 板室の那珂川近くにある旧道の及分の雑木林中にある。
 石碑自体は表から目立たないので、道路からは下写真にある白い木柱を探すと見つけやすい。

 

 

 

三斗小屋温泉跡

⇒三斗小屋宿への交通
東北自動車道那須ICより車で
55分、深山湖付近で車止め有。
そこから徒歩1時間程度。


栃木県那須塩原市
 三斗小屋宿は、天和3(1683)年、日光大地震で会津西街道の石木戸〜五十里間で土砂崩れが発生し、それにより湖が出来てしまい、通行が不能となってしまい、それまで西街道を使用していた流通などもストップしてしまい、やむを得ず、これまで殆ど使用される事の無かった中街道を整備して使用する事とし、幕府に申請し、元禄8(1695)年9月の上旬に着工し、わずか1ヶ月後の、10月の下旬には若松までの全ルートがほぼ竣工、時の藩主松平正容公が、この会津中街道を使用して江戸への参勤交代をするという事なり、宿駅の整備が急務となったものの、ここ三斗小屋は当時黒羽藩領であり、黒羽藩は1万9千石の小藩、宿駅を整備する事も出来ず、会津藩の費用にて宿駅を整備したのが、ここ三斗小屋宿でした。
 この三斗小屋宿も、戊辰の際に戦火に巻き込まれ、悲劇が繰り広げられ全戸消失し、現在は現存せず、僅かに1時間程離れた場所にランプの宿というべき温泉宿が2件営業しているばかりです。
 <戊辰戦死若干墓>
 慶応4年8月23日、ここ三斗小屋宿でも壮絶な激戦が繰り広げられました。「会津戊辰戦史」によると、
『是より先白河の西軍、黒羽、館林の兵は白河を発して三斗小屋に向ふ、
二十三日我が青龍二番寄合組中隊頭原平太夫、青龍四番足軽隊中隊頭有賀左司馬之と会戦して利あらず、退いて大峠、駒込坂、野際村の諸険要地に據り、二十七日西軍を激撃し奮戦して之を走らしめたるも、原平太夫、有賀左司馬をはじめ小川勝之助、武田寅次、小出新助、中野量之助等戦死し、其の他負傷多し、是に於て我が諸隊野際村を退き田島方面の我が軍に合す』
 この三斗小屋宿ではまた、会幕軍に協力したという事で、百村の肝煎月井源右衛門が黒羽藩士によって、三斗小屋まで捕縛され連れて来られ、黒羽藩士等は源右衛門の皮を剥ぎ、又の肉を削り取り串に刺し焼きて食し、又一片を源右衛門の口に押込みおのが肉を食えを言うという恐ろしい悲劇が行われたのでした。

 

左上より「深山湖よりの登山口にある案内板」、右上「会津中街道との分岐点」(左が中街道の麦飯坂方面)、
左下「会津中街道」、右下「三斗小屋宿跡にある石灯篭」(文久三年四月八日建立)