戊辰の古戦場跡碑

 

⇒戊辰の古戦場跡碑への交通
JR及位(のぞき)駅、またはJR大滝駅より徒歩40〜50分山形県最上郡真室川町及位(内の「旧及位
地区)
県道35号線の及位の「旧及位」地区にある戊辰戦争古戦場跡碑。
 左の石碑二個は戊辰戦争とは関係ありません。右側の柱がそうですo( ̄ー ̄;)ゞ  慶応4年7月11日新政府軍は秋田側より三方に分かれて攻め込んできた。雄勝峠より進軍してきた本隊は、 主寝坂に陣を構えていた同盟軍(仙台・米沢・上山・新庄藩兵)を攻めたが攻めあぐね、長州の桂太郎率いる一帯は鏡沢集落に現れ、 鏡沢を守備していた新庄軍と仙台軍を攻め新庄藩は新政府軍に内通していた為仙台兵は敗走し桂隊は森合峠に進出した。 薩摩と肥前の部隊は役内から有屋峠を越え金山宿を襲撃、金山を守備していた梁川播磨を隊長とする仙台兵は山形、 上山藩兵、新庄藩兵と共に布陣するが、ここでも新庄兵が離脱した上背後より挟撃した為梁川隊長等仙台兵33名が戦死した。

 

 

雄勝峠

 

⇒雄勝峠への交通
JR及位駅より徒歩
古道については廃道になっており藪道で道形もはっきりしないようです。
山形県最上郡真室川町、秋田県湯沢市
(旧大勝町)院内
写真は雄勝トンネル。現在の雄勝トンネルは国道13号線に存在しますが、現在のこのトンネルは昭和56年竣工のもので、それ以前の旧国道が昭和30年に開通したものだが、その前にも明治期に県令三島通庸が雄勝新道を拓いた場所である。
 そして、それ以前に戊辰戦争の際には烈しい戦いが行われたのである。及位の手前鏡沢で庄内軍は軍議を開き、(1)第一大隊は中村(現在の秋の宮)を占領し、そこを拠点に院内の敵営を抜く。(2)第二大隊は鏡沢から左の銀山を越え院内へ向う。(3)大砲隊は一、二大隊が間道に入った背後を攻められぬよう本道を押さえて砲撃する。(4)仙台藩三小隊は大砲隊の作戦を援護する。と決まり、各々慶応4年7月28日各々進撃を開始、第二大隊は銀山越えを刊行するも苦戦し一旦退却、本道である雄勝峠を進んだ砲隊も、逃げ腰の仙台兵や上山兵を激励しつつ善戦し、8月2日には第二大隊も雄勝峠を越えて院内に入ったのである。

 

秋田ノ境ナル雄勝峠ハ無類ノ難所其餘間道左右ニ二筋有ト雖モ仙藩既ニ大敗ヲ取タル懸念ノ要地ナレハ【郷右衛門日記より抜粋】

此暁本道ニ向ヒシ一二番ノ大砲隊及仙藩上ノ山外ニ惣右衛門カ一小隊朴木澤ヲ焼ヲ打入ヘキ手筈ニテ暁ヨリ上ノ山藩ヲ先鋒トシ次ニ一二ノ大砲惣右衛門ハ後陣ニ成ヲ押出スニ上ノ山藩不案内ノ趣ニテ遅々セシ故六右衛門先登シヲ進ミタルニ敵途中ニテ発砲スレハ爰ニテ暫ク打合ヒ追々朴木澤ヲ焼テ砲戦ス敵大砲ヲ打ヌレモ達セス時ニ仙藩ノ勢及位ヨリ來レル故惣右衛門二番隊ニ歸ル仙藩ト雖モ皆楯持ノ兵ナル故敵勢嵩ミ銃丸繁ク成レルヲ見テ迯歸ル者夥シ引留ヘキ様ナケレハ六右衛門逸策死力ヲ盡シ駆廻リテ味方ヲ励シ大小砲ヲ発スト雖モ敵勢彌撓h叭ヲ吹キ太鼓ヲ鳴シ唄ヲ謡ヒ追々進ミ來ルヲ味方小勢ニテ防ギ難ク繰引ニ引來テ及位ニ備是非モ爰ニテ喰留ント上ノ山勢ヲ山上ニ登ラセ仙兵ヲ本道ニ向ケ大砲ハ内ニ備テ必死ヲ極メ憤戦シ終ニ敵ヲ追返ス【戊辰庄内戦争録より抜粋】