長岡山(寒河江公園)

⇒長岡山への交通
西寒河江駅より徒歩7分
公園内自由(郷土資料館は別途)
山形県寒河江市六供町2丁目(地図

 会津藩に合流出来ず、盟友庄内藩が寒河江に進出しているのを知った桑名藩士達は、一路寒河江を目指し、9月19日寒河江に入り、庄内藩士や地元の人々に暖かく迎えられるが、翌9月20日、新政府軍の急襲により、桑名・庄内藩士達はこの長岡山に陣を張り交戦。しかし次第に圧され白岩の陣ヶ峰に陣を移し善戦し、新政府軍は寒河江川を渡河出来ずに居たが、浅瀬を渡河した米沢藩によって桑名・庄内藩は持ちこたえられず退却した。 碑は寒河江高校脇の道を登って行った途中の厳島神社と八幡神社の鳥居に挟まれた三叉路の真ん中に建立されている。
 <長岡民政局跡碑>
 藩政時代には寒河江代官所が置かれた場所で、明治に入ってからは、新政府軍により「長岡民政局」が置かれた。登り切ったところにある駐車場端にあります。

 

 

 


陽春院

 

⇒陽春院への交通
寒河江駅より徒歩7分
見学無料(※但し、遺骨や遺品の拝観については、要問合)

山形県寒河江市本町2−7−1(地図
 この寒河江でも桑名藩と新政府軍の間で激戦が行われ、桑名藩や庄内藩に多くの死者を出した。その際の戦死者がこの陽春院に埋葬されている。
 
 <桑名藩士墓>
 戊辰の役にて戦死した桑名藩士等18名+唐津藩士白水良次郎(唐津世子小笠原長行に従って奥羽を転戦し桑名雷神隊に参加)が埋葬されている墓。激戦の後、賊軍とされた桑名藩士や庄内藩士等の遺体は、係わり合いになるのを恐れ、そのまましばらく放置されていたが、この陽春院の住職が慈悲心と英断より引き受け埋葬。七回忌にあたる明治8年7月旧藩主松平定敬と旧藩士24名によって境内に墓碑が建立されたものである。
 桑名藩士戦死者遺品のボタンとバックル
 昭和36年、道路貫通工事の為、陽春院の墓地の一部も開削工事で解体され、その際木棺が発掘された。遺体は木棺より取り出され、遺体の多くは腐食し白骨化しており、また一部は腐食しきらず脳髄が漏出し目玉の飛び出したものまであったという。遺骨についても調査され、頭蓋骨や大腿骨などに刀傷の残る遺骨もあり、戦の激しさが伺われる。
 知己の縁あって、今回はその遺骨と遺品を拝見させて頂いた。左写真が遺品の真鍮のボタンとベルトのバックル。また、写真の他に当時は血が着いていたであろうラシャ綿や絹の衣、一瞬胡桃かと思った小さい箱に入ったたくさんの歯(まだ青年であった事を示すようにしっかりした虫歯の無い歯でした。また、遺骨については、刀で斬られた跡の残る頭蓋骨になどもあり生々しく戊辰の戦を肌で感じました。