妙法寺(観月庵)

 

⇒妙法寺(観月庵)への交通
天童駅より徒歩7分
境内自由(但し観月庵内の拝観については要問合)

山形県天童市小路2丁目4-34

 妙法寺本堂右脇にある観月庵は、幕末の慶応4年6月18日に天童藩家老吉田大八が切腹して果てた場所である。
 天童藩には、当初新政府軍より先導を命じられ、藩主が幼少であったが故に、大八が代理となり庄内へ進撃し一時落城。その後、天童藩は奥羽越列藩同盟に参加する事となり、新政府軍の先導となった罪により、大八は庄内藩より追われる身となり隠れていたが、4月29日山形藩にある米沢藩陣営に自首。仙台藩により裁かれ、庄内藩への引渡しは私怨に過ぎるとして、天童藩への引渡しとされ、天童藩にて謹慎の後、藩主より死を賜る事となり、切腹。
 現在、この観月庵には、大八縁の品々が展示されており、また大八が切腹した時の天井が「血染めの天井」として保存されている。
 <明治戊辰殉難志士追墓碑>
 本堂から観月庵へ向かう道筋左側にあります。
 
 <血染めの天井>
 天童藩家老吉田大八が、この観月庵で切腹した際に天井に貼られていた天井板。
 大八の切腹は横と縦の十文字切りであった、それでも死なず、介錯を制止、右頚動脈を突いて前に倒れて絶命した。
 その時、血が天井まで吹き上がり血染めの天井となったのである。現在は年月が経ってしまっている為、血の痕跡を読み取ることは困難となっている。

 

 

天童公園

 

⇒天童公園への交通
天童駅駅より徒歩10分
見学無料

山形県天童市大字天童1043-5
 舞鶴山の一部が公園となっていて、舞鶴山は中世に畠天童丸が築いた城山だったといわれている場所である。
 公園内には色々な寺社仏閣などもあり、つつじや桜の名所としてもしられている場所である。
 上写真は「建勲神社」で、天童藩幕末藩主織田家の藩祖「織田信長」を祭る神社である。この神社には当時の宣教師が西洋画で書いた「織田信長」の肖像画がある。
 
 <吉田大八碑>
 建勲神社本殿前を向かって左方向へ進み、社務所を過ぎて直ぐの所で二股に分かれる道がある。直進すると護国神社で、左に下る道を進むと右写真の吉田大八の碑に出る。青銅製の為、今でも文字がはっきりと読みとる事が出来る。
 (ちなみに、護国神社には木造の吉田大八の大きい像(総高132cm)が収められているが社殿内にある為、許可がなければ見る事が出来ない)

 

左「護国神社」右「織田信長肖像画(西洋画)」

 

 

佛向寺

 

⇒佛向寺への交通
JR天童駅より徒歩
10
境内自由

山形県天童市小路1丁目8-16

 この佛向寺には、天童藩家老吉田大八の墓所がある。
 一向上人(時宗一向宗の祖)が開いたお寺で、鎌倉時代に藤原氏の荘園だった成生荘に最初はあったが、現在の本堂は文政8年に再建されたものです。毎年11月17日の開山忌には一向上人ゆかりの踊躍念仏が行なわれる。
 <吉田大八墓>
 既に説明は要らないかもしれませんが、天童藩家老吉田大八の墓。
 墓地に入り中ほどにひっそりと建っています。少し入り組んでいるので、直ぐには解りづらいですが、本堂からはそう離れてはいませんので、すぐわかるかと思います。
 墓石の側にある石柱には薩摩藩士の名前も刻まれています。



 

古戦場碑

 

⇒古戦場碑への交通
JR天童駅より徒歩
1時間43分。
天童ICより車で6分、天童駅・寒河江駅より車で10分。
寒河江ICより車で12分。

山形県天童市蔵増(地図

 館林藩士梶塚勇之進戦死墓。
 最上川沿い、天童から寒河江に向かう県道23号の最上川に掛かる村山橋手前を左に入り、小さな小屋に沿った道を進むと上の碑が建立されている。この地は庄内藩と新政府軍の間で激戦が行われた場所で、碑の館林藩砲兵隊長梶塚勇之進もこの地にて戦死している。