鶴ヶ岡城跡

 

⇒鶴ヶ岡城跡への交通
山形道鶴岡ICより県道47経由、鶴岡市街方面へ7分
公園内は見学自由・大宝館(資料館)宝物館AM9時〜PM4時半
入場料公園・大宝館無料/宝物館大人300円 中高生200円
拝観自由/入場料無料(記念館・史学館は入場料有り)

山形県鶴岡市馬場町4-1

 庄内藩16万7千石、酒井氏の居城であった鶴ヶ岡城跡で、現在は鶴岡公園となり、公園内には荘内神社、鶴岡護国神社、郷土人物資料館「大宝館」がある。
 また、公園内には桜の木が多く植わっており、全国桜名所100選にも選ばれる桜の名所でもある。
 現在は堀や石垣などに、当時の趣を残している。

 

 <荘内神社>

 公園正面ぐちから、大鳥居をぬけて参道を歩いていくと、樹木に囲まれた荘内神社がみえてきます。
 参道わきの土留石や、神社の柵の土台など、ところどころにみかける白っぽい石は昔の石垣の石。
 酒井家初代 忠次、二代 家次、三代 忠勝、九代 忠徳を祀った由緒ある神社で、鶴ヶ岡城本丸跡に明治10年に建てられたもの。

公式HP⇒http://www.dewa.or.jp/jinjahan/

 

左「荘内神社内忠魂碑」右「本丸御殿御玄関跡」







致道博物館

 

⇒致道博物館への交通
鶴岡駅から湯野浜温泉方面バス10分。致道博物館前下車。
開館時間:AM9時〜PM5時(入館は4時半まで)
入館料:大人700円 学生380円

山形県鶴岡市家中新町10-18

 鶴ヶ岡城(現鶴岡公園)の三の丸にあたる所にあり、明治初期の洋風建築であり重要文化財の「旧西田川郡役所」をはじめ「旧鶴岡警察署庁舎」、多層民家「旧渋谷家住宅」などの歴史的建造物が移築保存されているほか、この地方の生活文化を物語る民具などが収蔵展示しています。

 また、藩主の隠居所「御隠殿」や「酒井氏庭園」などもあり、庄内の歴史と文化を今に伝えています。

 

 
 
上「旧鶴岡警察署庁舎」(内部見学不可)⇒明治17年に建てられたもの。
下左「田麦俣の多層民家」⇒文政5年(1822年)に建てられたもので、内部も当時のまま保存されています。
下右「酒井氏庭園」⇒御隠殿の北側に広がる書院庭園で、昔はここから遠く鳥海山を借景として眺める事が出来たそう。




菅家庭園

 

⇒菅家庭園への交通
鶴岡駅より徒歩10分程度
入園無料/開館時間:月・火・金の10:00〜16:00
要予約⇒
http://www.city.tsuruoka.yamagata.jp/paseo/anci/index.html

山形県鶴岡市家中新町2-21

 庄内藩幕末期の家老であった菅実秀の屋敷で、かつて旧藩主酒井家の御用屋敷だったところで酒井家より拝領したもの。
 庭園は遠州流であるといわれ、庄内地方ゆびおりの名園である。
 また、庭園の一角には、菅原道真公をまつる「菅公廟」があり、庭園の入口には菅実秀建立で、酒井忠篤謹書の「菅公千年祭碑」がある。
 屋敷は現在も御子孫が住まわれているので、内部を見学する事は出来ないが、建物そのものは、屋根が茅葺から瓦葺になった以外は当時のまま残されている。
 

 

 

蓮乗寺

 

⇒蓮乗寺への交通
鶴岡駅より徒歩約7分
境内自由

山形県鶴岡市錦町19−9
 蓮乗寺の少し離れた道挟んだ裏手の墓地の「高橋家」という新しく大きい墓の脇に、古い墓が並べられている右手奥に『高橋省助』の墓があります。
 
 <高橋省助墓>
 庄内藩士。清彦・叔英。明治3年1月15日死去。享年63歳。
 庄内藩士高橋助右衛門の弟。天保4年藩校致道館の句読師となり、9年精勤を認められ召出れ3人扶持を与えられる。同12年兄死去により家督130石を相続、代官となり、嘉永元年郡奉行、3年町奉行、安政2年5月郡代となり、文久元年蝦夷地郡代として現地に赴任、元治元年庄内藩で旧幕領拝領した時にも受け取り処理に当たり、慶応4年2月には、庄内戦争の発端となった村山郡寒河江・柴橋の天領移管の受渡しに赴き、4/1郡奉行大島久弥に後事を託し柴橋を去るが、柴橋代官が武力衝突を避ける為大島に交渉するも承知せず、仙台藩士がなんとか高橋を途中の大石田で捕まえ、
高橋は即座に決断し、藩重役の名で偽の撤兵書を作成し、大島へ急送。なんとか間に合って庄内兵は寒河江柴橋より引揚げ、高橋の機転により武力衝突を免れた。高橋は万一お咎めを被った場合は老い腹を切って責任を取る覚悟で偽の撤兵書を作成したのであった。

 

 

 

般若寺

 

⇒般若寺への交通
鶴岡駅より徒歩約8分
境内自由

山形県鶴岡市日吉町9−47(地図
 般若寺の創建は平安時代後期、平泉に居を構えた藤原秀衡が父基衡の菩提を弔う為、堂宇を建立したのが始まりとされています。

 ここには中村治郎兵衛の墓(遺髪塔)があります。本堂脇の古い墓石があつまる中の一つ。
 
 <中村治(次)郎兵衛墓>
 庄内藩士で、中村四郎兵衛の嫡男。虎之助、宇内。
 文久三年新徴組が庄内藩に委託されると、その取扱掛となり、次いで新整組取扱を命じられる。
 元治元年7月には菅実秀と共に長州藩邸の接収にあたり、慶応3年の薩摩藩邸焼討にも参加。鬼治(次)郎兵衛とも呼ばれる。
 帰郷後は、天童攻めに参加、続き本間郡兵衛とともに横浜に赴き銃火器の輸入交渉にあたり、8月、越後の服部十郎右衛門隊と交代で二小隊を率いて越後中条を攻める。その後、9/6より早追で秋田口神ヶ村の四番大隊に(村山郡農兵隊を率いて)参加。
 降伏後は、黒田の知遇あって北海道に赴くも、三島通庸が酒田県令となるt道路開拓使を命じられて土木事業に携わる。明治23年帰農の為北海道に移住、のちに札幌の病院で死去。享年73歳。この墓は遺髪が埋葬されているという。





禅竜寺

 

⇒禅竜寺への交通
鶴岡駅より車で15分
境内自由

山形県鶴岡市新海町10-14(地図)
 戊辰戦争で米沢藩など周囲の諸藩が降伏し、庄内藩重臣は帰順派と徹底抗戦派と意見が対立、9/16の会議で老公(忠発)は帰順を決断、一同涙を飲んでの降伏と決定。降伏の使者を米沢藩に送り、米沢藩と打ち合わせの上、9/23参謀黒田了介(清隆)に嘆願書を手渡す。
 その降伏条件に従い、兵を撤収させ、藩主忠篤は、9/26ここ『禅竜寺』にて謹慎したのである。(老公は青龍寺)
 松本十郎は末松十蔵に『藩侯警備士』を命じられ、代官中世古才蔵と相談し、禅竜寺門内と藩主の居間の前庭に詰め番所を急造し任務に当たる。10/9総督府より忠篤を新発田に召す沙汰が出た為、松本十郎等警備士と僅かの近臣とで新発田へ向かい、のち東京の菩提寺(芝の清光寺)の謹慎となる。
 その嘆願の使者の一人吉野遊平の墓もここにあるはずなんですが、まだ見つけられてません…。
 
 <相良守典墓>
 天保8年3月3日生まれ。庄内藩士相良文右衛門(守富)の三男として生まれ、後に兄守均の跡を継ぐ。安政2年選ばれて砲術修行の為江川太郎左衛門の塾に入門。
 慶応4年戊辰戦争が起こると銃隊頭となって出陣。
 戦後の明治2年12月明治政府に仕官して越後水原県権少属兼越後按察府権少主典に任じられる。その後各地の官吏を歴任して、明治14年飽海郡長となり、以来南村山・福島県北会津・東田川・西田川等の各郡長、山形県師範学校校長等を歴任し、明治35年11月退職。
 大正7年6月22日、82歳で病没。

 墓は、墓地の通路右脇
「相良家墓」の墓域内にあり。







高運寺

 

⇒高運寺への交通
鶴岡駅より車で4分
開館時間:不明/入館料無し

山形県鶴岡市昭和町7-13

 ここ高運寺には庄内藩士神戸善十郎の墓がある。
 本堂脇の墓石がならぶ中に神戸家の墓域があり、一番手前に一番大きく「神戸次郎之墓」があるその右奥に小さくひっそり建立している「神戸義方墓」が神戸善十郎の墓である。(見落としそうかも?)
 
 <神戸善十郎墓> ※現在改葬してしまった為現存しません。
 義方。庄内藩士。慶応4年7月戊辰戦争では酒井玄蕃率いる二番大隊の軍監兼参謀として出征した。
 明治3年11月旧藩主酒井忠篤が藩士70人を引連れて鹿児島に遊学した際には監督して同行。明治5年長沢顕郎とともに酒井忠篤・忠宝兄弟の海外留学に随行、同年4月忠篤に随従してドイツに渡った。忠宝に従った長沢は翌6年8月病を得て帰国したが、神戸は8年にわたりドイツで留学中の忠篤兄弟に近侍するとともに、みずから法学の研究に励んだ。
 明治12年6月主君とともに帰朝したが、すでに世情は一変して忠篤兄弟への中央への飛躍の期待かなわず、将来に絶望し鶴岡南郊日枝村の自宅で自刃。享年43。








長円寺

 

⇒長円寺への交通
鶴岡駅より車で5分。
境内自由/拝観無料

山形県鶴岡市昭和町7-52

 明治6年に廃校となった藩校致道館の門が、明治9年に僅か21両で長円寺の山門として払い下げられた…という史料が残っているのだけれど…どうも今日の山門は普通の山門としか見えない…江戸期のモノだから既に解体されて新しく建立されたものなのか…??まあ、明治期の話だから、その後改修されたのかも…??
 
 <新発田藩士墓>
 本堂左脇手前の一角の一番奥にひっそりとある新発田藩士の墓。
 





金浄寺

 

⇒金浄寺への交通
鶴岡駅より車で15分
開館時間:不明/入館料無し

山形県鶴岡市昭和町12-18

 ここは別の墓を探していたのですが、思いもかけず、岡田衛士の墓がありました。岡田衛士の墓は墓地の奥です。
 
 <岡田衛士墓>
 
200石庄内藩士物頭岡田為弥の嫡子。慶応4(1868)年5月家督150石を相続する。 戊辰戦争が始まると、藩校典学から長沢金剛隊として第一大隊に属し秋田口へ出陣。 中村の戦いでは黒谷市郎兵衛に代わり小隊長。中軍として中村北縁守備。
 8/23横沢村に陣した仙台亘理大吉の七小隊に近代戦闘指導の為、一番大隊より衛士と共に北爪・加賀山・芳賀等を出張させる。
 同日、花楯の戦いに於いて援軍として戻り、清川兵15名を率いて石川猪太夫に属し、負傷後死去。
 墓は、墓地の最奥。






正覚寺

 

⇒正覚寺への交通
鶴岡駅より車で3分。
境内自由/拝観無料

山形県鶴岡市鳥居町33-46(地図

 この寺には、丁卯の大獄で断罪された大山庄太夫の墓があります。
 珍しく、江戸期庄内藩士でしかも罪人として扱われた人物であるのに、入口には「大山庄太夫」の案内板がありました☆案内板には墓石が本堂裏にある事も記してあり、墓は案外見つけやすかったです。
 ただ、寺自体が堀(内川)にそって建てられていて、堀沿いの寺の前の道は結構狭いので要注意。
 
 <大山庄太夫墓>
 本堂裏手墓地手前にあります。かなり大きめなので解りやすいです。
 留守居役。文政9年120石の家督を継ぎ、八代藩主忠器の近習に選ばれ重用され、天保2年供頭となり物頭を経て天保9年留守居役となった。天保11年の三方領地替の際、天保義民の陰に庄太夫が居たとも伝えられる。庄太夫は文久2年病気を理由に隠居し、酒井奥之助の子酒井権七郎の妾腹の子であった養子春治が家禄を相続。
 慶応2年の丁卯の大獄にて、庄太夫は慶応2年11月9日自宅に監禁され、親類の監視下に置かれ、13日朝、雪隠で覚悟の自殺を遂げた。遺体は塩漬けにし屋敷内に仮埋葬し、足軽に監視させ、断罪の後、萱場の刑場で腰切りの刑に処した。享年60歳。
 墓は、本堂裏手奥にあり、近年建て替えなおされている為新しい。昔は、自然石の無銘の石であり、丁卯の大獄は秘されてきたという。
 
 <遠藤厚夫墓>
 
墓は本堂裏手の大山庄太夫墓ちょっと手前の木の根元。
 文政8年生まれ(明治25年没)の庄内藩士で、藩校致道館典学兼助教、後に致道館の祭酒代となった人物。幕末時には舎長で玄蕃サマの恩師。戊辰戦争が始まって玄蕃サマが第二大隊を率いて出陣後、楯岡滞陣中、遠藤厚夫が城よりの使者としてやってきて秋田討入の藩命を伝えた。
 戊辰後は、鶴岡市内の中学校の校務を務めた。
 庄内の墓にしては、かなり解りやすい墓です。





 

常源寺

 

⇒常源寺への交通
鶴岡駅より車で3分。
境内自由/拝観無料

山形県鶴岡市鳥居町33−41地図
 正覚寺のすぐ隣。北楯小八の墓があります。
 門を入って直ぐ左のすぐ解りやすい所にあります。文字が小さくて摩耗気味なので見づらいですが、『陸軍大尉正七位北楯利盛墓』と刻まれています。
 
 <北楯小八墓>
 庄内藩士。助次郎。利盛。
 慶応3年7月禄500石の家督を継ぎ、翌年戊辰戦争が始まると、8/8白河状況切迫の為、応援として集合隊長として35名を率いて出陣し、寒河江で藩庁より
仙台への応援を命じられ、旗巻峠へ滞陣、しかし戦意沈滞気味の仙台兵に開戦を促すも埒があかず、仙台藩急使の来援要請に旗巻峠に駆け付けるも、すでに仙台兵は陣屋を自焼し総崩れし、しかたなく北楯隊も丸森へ退く。9/11仙台藩よりの通知により北楯隊は撤兵に決し、20日帰城するが、即日関川口の救援を被命、そのまま21日越沢に着陣するも、27日鶴城より帰順の早追が来て引揚となる。
 明治3年6月には常備兵編成にあたり、上等卒族小隊長となり、翌年11月より藩からの献兵の折大尉心得として東京鎮台新潟分営に入営。
 同5年2月陸軍大尉に任じられ、10年
西南戦争に従軍。田原坂で戦死した。




 

本鏡寺

 

⇒本鏡寺への交通
鶴岡駅より車で15分
開館時間:不明/入館料無し

山形県鶴岡市大東町15-1

 法華宗の寺。
 ここも本堂写真撮り忘れてしまいました↓↓
 この寺には他に石川猪太夫の墓もあるはずなのですが…解りませんでした↓↓
 
 <小林幡郎墓>
 嘉永3年生まれ。新整組隊士。正備。
 新整組は、お玉ヶ池にあった小林登之助が組織した小林組に入り、小林組はその後大砲組と名を変えて庄内藩お預かりとなり、江戸市中警備の役に就く。
 戊辰戦争が起こると、幡郎は新整組の嚮導として出陣。天童で殊勲を挙げた後鳥海山東嶺鍋倉峠を越え矢島方面に向けて転戦。
 戦後は、東京に出て官途に就くことを望んだが、旧藩首脳陣に志が漏れ、拷問された末に、命じられて石原数右衛門の介錯により自刃。享年21歳。 墓石は、墓地の中程本堂側からみて右側塀沿い。隅。脇には辞世の句が刻まれ「石に成る 流雲捕て 秀ふるか難」と刻まれている。
 
 <今井文吾墓>
 小林幡郎と同じく新整組隊士。石原隊。邦太郎とも。

 慶応4年9月11日椿台の戦いにて負傷。後鶴岡引き上げ後の10月21日死去。