*鶴岡市郊外*




井岡寺

 

⇒井岡寺への交通
鶴岡駅よりバス『湯田川温泉行き』新山口下車、徒歩約5分。
車で駅より12分、鶴岡ICより5分。
境内自由/拝観無料

山形県鶴岡市井岡甲199

 鶴岡市街より少し話した場所にあるこの地域一体を「井岡」といい、825年に基貞親王が弘法大師の弟子として諸国を巡った際に、この地を霊地と認め天皇家の祈願所、勅額寺阿伽井坊遠賀廼井寺として堂宇を建てたのに始まるといいます。平安末期には義経が平泉へ落ちる際に立ち寄ったという伝説が残っており、弁慶の書といわれる書も残っているそうです。
 この寺には、幕末庄内藩の家老であった菅実秀の墓や、戊辰後新徴組取扱となった竹内右膳等の墓があります。
 
 <菅実秀墓>
 本堂右参道を登っていくと墓地が広がり、その奥側の右に行く道を進むと左側に菅家の墓域が見え、その右にある囲われた箇所が菅実秀の墓所です。墓碑銘は「荘内大夫菅先生之墓」
 菅実秀は、幕末庄内藩家老として藩政を指揮、第二大隊大隊長酒井吉之丞が尊敬した人物で、戊辰戦争後は松ヶ岡開墾に尽力、また西郷隆盛と深く交流し後に「南洲翁遺訓集」を出した。(詳しくは人物紹介へ)
 
 <竹内右膳墓>
 
本堂右参道を登っていくと墓地が広がり、その真中の上へ真っ直ぐに伸びる道を進むと右側に竹内家の墓域があり、その墓域入って直ぐ入り口に背を向けて建っています。墓碑銘は「南山竹内君墓」。
 天保13年に10月15日庄内藩士竹内主馬の子として鶴岡に生まれる。中老をつとめた八郎右衛門の孫。
 慶応元年5月1100石の家督を継ぎ番頭となり、7月組頭に任命される。
 同3年12月25日の庄内藩による薩摩屋敷焼討に参加し、翌4年4月組持番頭として戊辰戦争に出陣、
第二大隊第四小隊長として奮戦した。
 明治2年軍功により加増して1200石
新徴組取扱を命ぜられ、同5年に松ケ岡開墾が始まると新徴組頭として指揮をとり、かたわら鶴岡の戸長も勤め、開墾終了後も総長松平権十郎の補佐となって本陣に起居、30年以上に渡り開墾場の経営に尽瘁した。67歳で死亡。
 
 <竹内八郎右衛門墓>
 家老竹内八郎右衛門(茂昆)の子、明和7年父の死により家禄1100石を継ぎ、同9年組頭、安永四年中老となるが、安永8年水野重幸が天明6年家老に任ぜられると八郎右衛門は亀ヶ崎城代に移され、以来15年間藩政の中枢から遠ざけられた。
 しかし、水野派の藩政は行き詰まり、政策の転換が必要となり、寛政7年5月八郎右衛門は中老復帰を命ぜられ、郷方改革係、勝手用係として郡代白井矢太夫と協力し寛政改革を断行した。
 八郎右衛門は藩の要職から水野派を排除し、自派で固め隆盛を極めた。文化2年家老に進むが、しかし文化8年幕府の許可なしに参勤道路を変更し、幕府の不興をかい、同年7月家老を罷免され、文化10年2月15日没した。享年67歳。
 墓碑銘は「故太夫南樓竹内君墓」
 
 <竹内八郎右衛門墓>
 同じく竹内家墓域内にある「竹内八郎右衛門(茂林)」の墓。
 墓碑銘は「故太夫北窓竹内君墓」
 庄内藩で放逸派の頭領といわれた竹内八郎右衛門(茂樹)の子で、文化3年7月召出されて用人となり30人扶持を給される。同7年小姓頭に任ぜられて新知行300石を与えられるも、翌8年7月父茂樹が家老水野重栄らの恭敬派によって退けられたため、家督を継いで家禄1100石の上席番頭となる。
 同年9月菩提所総穏寺に墓参の折、同所で
藤沢周平の「又蔵の火」で有名な土屋両義士(丑蔵・虎松)の仇討に出合い,頼まれて刺違えの場に立ち会った。同10年組頭となり、文政元年中老と歴任、同10年12月家老に任ぜられ在職中病没。享年58才。
 <白井矢太夫墓>
 庄内藩士白井久右衛門(茂貞)の長子、天明4年家督を継いだ。祖父白井久兵衛は荻生徂徠の門人であった。加賀山桃里に学び後江戸で松崎観海に学ぶ。天明2年帰国して物頭から大目付に進む。
 7代藩主忠徳は荒廃した農村や逼迫した藩財政を回復させる為、寛政4年農民を救済する方法があったら申し出よと命じ、矢太夫は、翌年一月「上書」を提出し、忠徳の信任を得、同年5月郡代に抜擢された。
 竹内八郎右衛門が中老に復帰すると、
郷村改革掛に任命され、竹内八郎右衛門と白井矢太夫を軸とする農政改革に道を開いた。その結果、藩財政は富裕となった。 矢太夫は早くから藩主忠徳に学校の建設を進言していて、文化2年鶴岡の北郊大宝寺に藩校致道館を創立した。文化5年には中老に昇進し、同7年800石となった。家老竹内八郎右衛門と手を結び権勢を振るったが、竹内八郎右衛門失脚すると共に退けられた。文化9年6月24日没す。享年60歳。 墓碑銘は「故太夫東月白井君墓」

 


専念寺

 

⇒専念寺への交通
鶴岡ICより車で10分。
羽前大山駅より徒歩25分又は車で3分。
境内自由/拝観無料

山形県鶴岡市大山2丁目41−48

 大山にあるこの専念寺は、戊辰戦争の際に桑名藩士で、恭順派家老吉村権左衛門を殺害した事でも知られる山脇隼太郎等が謹慎した寺で、大山で降伏した桑名藩士達はこの大山の寺に分かれて謹慎した。この寺には「桑名藩士8名の墓」が遺されている。
 
 <桑名藩士八名の墓>
 境内本堂向って左側にある墓地の一番奥にあります。
 戦死者、戦病死者の墓が建立されており、過去帳には11名が記載されているが、現存するのは8基のみである。
 現存するのは、桑名藩士樋口次郎左衛門兼政(42)M1.11.26、伝習隊士森清十郎(26)M1.10.9、桑名藩士小林為輔(13)M2.3.25、桑名藩士渡部浅右衛門(13)M2.1.10、桑名藩士渡部(坂部?)喜右衛門(45)M2.2.25、不破右門(13)、相馬芳右衛門(38)M2.3.4、桑名藩士岡本作十郎(36)M1.9.29。
 ※墓碑が無いのが金子覚弥(21)、明門又十郎(23)、加藤幸助(26)の3名


 

 

*湯田川温泉*

 

 

新徴組本部跡

 

⇒新徴組本部跡への交通
鶴岡駅より湯田川温泉行きバスで25分
車で18分隼人旅館前
(隼人旅館HP↓)
http://www.hayato-ryokan.jp/
山形県鶴岡市大字湯田川乙56

 清河八郎の意見により、幕府が江戸を中心に浪士召し抱えを触れ出し、浪士組が発足、その後近藤勇等が抜けた後、江戸市中取締の任に就いた庄内藩預かりとなり、新徴組と改名し江戸市中の取り締まりにあたった。
 鳥羽伏見の戦いの後、庄内藩士達と共に庄内に移住した新徴組は、ここ湯田川温泉の隼人旅館を本部とし、藩士と共に戊辰戦争に参加、第四大隊と共に行動を共にし、秋田攻めを行った。




新徴組墓地

 

⇒新徴組墓地への交通
鶴岡駅より湯田川温泉行きバスで25分。車で18分。長福寺裏
境内自由/拝観無料
湯田川温泉公式HPより(地図

http://www.yutagawaonsen.com/map.html

山形県鶴岡市大字湯田川乙35

 長福寺脇にある貯水池の所に「新徴組墓地」の大きな案内板が出ており、迷う事はなかったです。ただ道が狭くて駐車スペースが無いので困りました。・゚゚・(>_<;)・゚゚・。
 ここ湯田川温泉の長福寺裏の墓地には、新徴組の墓地があります。とはいえ、イメージしていたより、広いスペースに点在している感じでしたが・・・。この墓地には戊辰戦争で亡くなった隊士やその家族など20名が埋葬されています。
 
 <新徴組墓地>
 
江戸からの引き上げの際、新徴組も共に庄内へ移住させ、藩では湯田川の宿屋と民家37軒に仮分宿させた。
 湯田川にある墓地には、戊辰戦争にて戦死した、隊士岩間七郎(17)<小鍋坂にて戦死>水野令三郎(19)<関川にて戦死>辻真太郎(25)等計8名、及び湯田川在住中に没したその家族12名の慰霊が眠っています。

 

 

 

 

*旧羽黒町*

 


松ヶ岡開墾場

 

⇒松ヶ岡開墾場(松ヶ岡開墾記念館)への交通
鶴岡駅より車で15分
鶴岡駅より「今野」行きバスで20分松ヶ岡下車
開館時間:10:00〜16:00(毎週月曜(祝祭日除)年末年始定休)
入館料:450円(開墾記念館・庄内の米作り用具収蔵庫・庄内農具館)
公式HP⇒
http://www.dewashonai.com/matu/index.htm

山形県東田川郡羽黒町松ヶ岡字松ヶ岡28-1

 戊辰戦争後、明治5年に、旧庄内藩士三千名が刀を鍬に持ち替えて開墾した場所で、月山山麓にひらける225ヘクタールの広大な開墾地は、現在、新徴組隊士の脱走や明治7年にはワッパ騒動が起きるなど、幾多の困難を乗り越え、その子孫によって現在も継承・経営されています。
 松ヶ岡開墾場内には松ヶ岡開墾記念館(上写真)があり、この建物は現存する蚕室5棟のうちの1棟で、明治8年創建の建物。屋根には取り壊された鶴岡城の屋根瓦が使用されています。
 
 <松ヶ岡開墾場碑>
 開墾場入口にある碑。

 ※現在映画「蝉しぐれ」の上映が控えている為、「蝉しぐれギャラリー」などもある。近くにはロケ現場などもある。

 
 <松ヶ岡本陣>
 茅葺、檜造平屋建ての建物で、開墾事業の本陣となったところで、元々は庄内藩三代藩主酒井忠勝が1622年に庄内に入部し、鶴岡・高畑に「高畑御殿」を呼ばれた仮殿を建て、鶴岡城の拡張整備を行い、1686年に、この仮殿の一棟を藤島・下町に移し、藩主が江戸往復の際「御茶屋」または「藤島本陣」と称し、休憩所として用いたもの。
 これを明治5年に松ヶ岡開墾創業に際して再移築し、松ヶ岡本陣として用いたもの。
 
 新徴屋敷
 清河八郎によって発足した浪士組は、庄内藩が江戸市中取締の任に就いた際に庄内藩預かりとなり新徴組と称した。
 戊辰戦争の際江戸より藩士と元に庄内に移住し、藩が鶴岡の大宝寺と道形の間に建てた137棟の住宅を新徴屋敷と称し、その内30棟を明治8・9年頃松ヶ岡開墾の組屋敷として移築したもので、やがて開墾士の住宅となったもの。

 

共に新徴屋敷内部

 

 

 

 

*旧櫛引町*



酒井玄蕃了次碑

⇒酒井玄蕃了次碑への交通
鶴岡駅より車で25分。
庄内あさひICより車で15分。
鶴岡ICより車で30分。

山形県鶴岡市黒川字楯地内

 酒井玄蕃といっても、幕末に鬼玄蕃と呼ばれた了恒ではなく、その祖である『酒井玄蕃了次』の碑。庄内の左衛門尉酒井氏の二代家次の子忠勝が庄内藩主となるが、その兄弟に了次がいたのであるが、その兄弟は多く、家督争いに巻き込まれ、了次は罠にはまり黒川押込となり、そのまま黒川で没した。
 左の碑は、黒川の大庄屋「矢田部家」の敷地内にあり、昔より土を盛った塚があり、文政年間に掘り返すと白骨が出た。何代目かの矢田部家当主が巫女の言を信じ、玄蕃了次墓とし、その子が石を継いで石碑を建てたのがそれである。

 

 

 

*旧温海町*

 


念珠関跡

⇒念珠関(ねずがせき)址への交通
JR鼠ケ関駅より徒歩10分
見学自由/見学料無料

山形県西田川郡温海町鼠ケ関地内

 白河関(福島県白河市)、勿来関(福島県いわき市)と並ぶ奥羽[おうう]東北三古関の一つで、鼠ケ関とも云う。
 源義経・弁慶の「勧進帳」の舞台といわれる。

 慶応4年7月29日、新潟が落ちると新政府軍は怒濤のごとく北進、
23日から27日までは鼠ヶ関で激しい戦闘が繰り返され、9月11日には鼠ヶ関口に総攻撃をかけたものの庄内藩はこれを撃退、一歩も敵を領内に入れなかった。