致道館(庄内藩校)

 

⇒致道館への交通
鶴岡駅から湯野浜温泉方面バス10分。市役所前下車徒歩1分。
開園時間:AM9時〜PM4時半(月曜休館)
入場料:無料

山形県鶴岡市馬場町11-45

 庄内藩の藩校として「致道館」は文化2年(1805年)に完成した。致道館の名前は、論語の「君子ハ学ビテ以テソノ道ヲ致ス」から名付けられた。その11年後10代藩主 酒井忠器によって現在の場所に移され藩の役所兼用で使用され、多くの優秀な人材を輩出したものの、廃藩置県によって明治6年に廃校。
 その後、県庁舎や警察署、小学校に使われたり、一部は取り壊されたり売られたりされ、現在は、東北地方で残る唯一の藩校建造物として国の史跡に指定されています。

 また、「御入間」は戊辰戦争後、新政府軍参謀 黒田清隆を迎えて降伏謝罪したところで、明治初期には三島通庸が県令室として使っていた。







大督寺

 

⇒大督寺への交通
鶴岡駅よりバス15分
開館時間:不明/入館料無し

山形県鶴岡市家中新町19-20

 庄内藩藩主酒井氏の菩提寺である大督寺。ここには他にも酒井吉之丞の遺髪塔や松平甚三郎の墓がある。

 また、この大督寺は明治22年10月に鶴岡の各宗寺院住職が大督寺境内に私立忠愛小学校を開校、このとき昼食を持ってくることが出来ない家庭の子供達のために無償で昼食を給した事から、学校給食の発祥の地とされた場所。また、藤沢周平の三方領地替を描いた「義民が駆ける」の舞台となった場所でもあります。

 
 <酒井家廟所>

 庄内藩主酒井家の菩提寺で、酒井家廟所は拝観不可。もとは広大な建物があったが焼失して今はない。初代忠次、2代家次、3代忠勝の墓所は、奥の西端にある。

 
 <松平甚三郎墓>

 庄内藩家老松平甚三郎(久大)の三男として生まれ、安政5年に家督を相続し、家禄2000石を支給される。慶応3年に家老になると、戊辰戦争が起ると、一番大隊隊長として新庄・秋田攻めに参加し活躍する。

 明治2年大泉藩大参事に任じられ、同8年菅等と鹿児島に西郷の薫陶を受ける。のち菅率いる旧藩主側近家禄派に退けられ、不遇の晩年を送り、大正10年77歳で死去。

 
 <酒井了恒(玄蕃)遺髪塔>

 庄内藩家老酒井了明の長男として鶴岡に生まれ、幼名虎之進・吉弥。元服後は吉之丞。玄蕃は襲名。弟に庄内柿の祖・酒井調良、庄内書道会を支えた黒崎研堂(馨)。
 慶応3年、祖父(伯父)右京が政争で切腹、それに連座して父も隠居した為、家督を継ぐ。同4年に戊辰戦争が勃発すると中老に任じられ、第二大隊隊長として新庄・秋田攻めに参加し連戦連勝無敗を誇り、勇名を馳せ「鬼玄蕃」と称される。
 戊辰後、新政府の密命を受け、清に渡り内情を偵察し帰国後「直隷経略論」を纏め、黒田清隆に提出。のち明治9年35歳で労咳にて死去。
 墓は、東京の谷中霊園にあり。
 法号は「寂靜院殿玄誉湛然義勇居士」

 
 <酒井玄蕃妻 中村氏 玉浦墓>
 酒井玄蕃(了恒)の後妻で、中村七郎右衛門妹。玉浦。
 弘化4年8月28日家中新町鍛治町口通七番地、中村七兵衛正嘉の三女として生まれ、万延元年2月22日に了恒18歳の時に、13歳で了恒に嫁す。
 明治40年5月15日没。享年60歳。 光顔院玉室貞祥大姉。

 了恒の最初の室は、石原郷兵衛某之女で「千代岡」であったが、特に記載が無い為、故あって間もなく別れたものと思われる。
 
 <酒井了敏墓>
 酒井玄蕃(了恒)の長男。幼名吉弥。
 慶応4年4月13日に生まれるも、明治11年6月25日10歳にして夭折。このため、家督は玄蕃(了恒)の実弟、酒井調良が相続した。
 なお、了恒の他の子は、長女梅岡は明治3年生まれ、15歳で鶴岡市坂部重謙に嫁ぎ、二男を生んだが、明治32年29歳に離婚、3年後北海道岩見沢の高橋石郎と再婚し一女を生んだ。
 次女お三は明治7年に生まれ、15歳の時、了恒の弟調良の長男彦太郎に嫁いで酒井家を継いだのである。
 
<酒井了明墓>
 完之進・聡甫・玄蕃・静眠。丁卯の大獄にて処刑された庄内藩家老酒井右京の弟である。嘉永2年3月、兄右京の跡を継いで家督相続する。
 同4年3月組頭、ついで安政6年4月中老となり万延元年には蝦夷地副奉行を命ぜられて赴任。
 慶応元年6月帰国して家老に進む。翌年の9月藩政改革陰謀の取調掛を命ぜられたが兄右京も加担の事実を知るにおよんで塾居謹慎する。慶応3年9月家老免職、禄800石を減ぜられて隠居、長子了恒(吉之丞)が家督相続し700石を給され戊辰戦争で勇名を馳せた。67歳にて没。
 上の吉之丞の遺髪塔のある左脇端にあります。
 
 <酒井調良墓>
 
右馬之助・竜馬・好菓。庄内藩の家老をつとめた酒井了明の次男。兄には酒井了恒、弟に書道家として高名な黒崎研堂がいる。
 元治元年藩主11代忠篤の近習となったが、叔父右京の切腹に関連して辞職。戊辰戦争では新庄・秋田方面に出陣。
 明治5年松ヶ岡開墾に参加、明治11年7月、兄了恒の子了敏が夭折したため家督を相続。明治12年自宅の畑で庄内ではじめてのりんごを栽培した手腕が認められて山形県勧業世話係に任命される。翌13年製糸会社盛産社を興し横浜からの生糸輸出を始めて、明治21年には荘内蚕糸業組合長になった。明治26年西田川郡黒森村で農場経営をはじめ、新品種核無の柿を栽培、後に「庄内柿」と呼ばれ、庄内の名産品となる。大正15年79歳にて没。
 
 <酒井奥之助墓>
 直方・大卿・鳳陽。家老。庄内藩亀ヶ崎城代酒井弾正の長子。文政13年2月、1200石の家督を継ぐ。
 天保13年酒井右京、松平舎人らと、新藩主忠発を廃して忠明を立て藩政を改革しようと企てるが失敗し、弘化2年1月に再度忠中の担ぎ出しを謀る。
 家老を経て翌3年亀ヶ崎城代、同4年家老に復し、嘉永2年忠発が将軍の名代で上洛したときこれに従い、天皇に謁する。同4年家老辞任、安政6年再び亀ヶ崎城代となったが、翌7年1月隠居謹慎を命ぜられる。
 その後も密かに右京、舎人および大山庄太夫、上野直記らと公武合体を基調とする藩政改革運動に挺身したが病のために慶応元年に没。享年64。
 
 <松平権十郎墓>
  庄内藩中老松平権右衛門の長子。字は子哲、通称権十郎。安政6年に家督を継いで組頭となる。 文久元年蝦夷地副奉行となり蝦夷地の警備に当たった。文久三年中老に進み新徴組御用掛となる。 慶応元年4月から庄内藩の江戸市中取締の指揮をとった。幕府の信任厚く幕議にも参与した。 同2年4月幕府の老中稲葉正邦から酒井右京、大山庄太夫らが幕府に陳情書を提出していることを聞き、10月改革派の逮捕に踏み切った。 翌3年9月丁卯の大獄が行われ藩論の統一を図り戊辰戦争に臨んだ。 戊辰戦争では軍事掛として庄内藩を総帥。 明治2年大泉藩大参事となり、元曲師町に洋学所を開設。酒田県が置かれた時、参事に任ぜられる。  明治5年松ヶ岡開懇地の総取締として開墾に従事。翌6年ワッパ騒動が起った為、翌年12月三島通庸が酒田県令に任命された。 明治8年8月酒田県は廃止され鶴岡県となり、三島が引き続き県令となり親懐が参事に任命された。 ワッパ騒動の裁判は明治11年11月判決が下され、禁獄235日に処せられた。松ヶ岡開墾総取締は明治44年まで続けた。
 
 <長沢惟和(顕郎)墓>
 庄内藩中老松平権右衛門の次男として生れ、後に松平の宗家といわれる長沢家を再興する。松平権十郎は実兄。
 戊辰戦争に当り庄内藩の周旋方として活躍、明治3年8月犬塚盛巍とともに旧藩主酒井忠篤の使者となって鹿児島に赴く。
 島津藩知事および西郷大参事と面接して薩摩藩の兵器製造所、紡績所を視察、同藩将来の動向を察知して庄内に帰る。
 翌明治4年大泉藩権大属、5年4月酒井忠篤に随従してドイツに留学したが翌6年8月病のため帰国した。明治10年山形県五等属となり、西村山郡長を経て同13年4月東田川郡長、15年2月西田川郡長に転じて、同19年2月まで在任した。享年51。
 
 <高橋良蔵墓>
 文政8年庄内藩士高橋種之の長男として生まれる。嘉永4年藩の正史「御旧記」の編集に従事。その後長沼流兵学を学び、安政2年麹山で行われた軍事調練に参加、安政4年品川台場詰となって大砲の打ち方訓練に加わり、同6年家督を相続する。翌7年1月蝦夷地御用取調係、3月同地代官、慶応2年鶴岡に帰って普請方本役となる。
 戊辰戦争が始まると、船手掛として活躍した。
 明治2年、大泉藩が北海道虻田郡の支配を命じられると責任者として赴任。翌年帰国。明治9年7月20日52歳にて没。
 
 <武藤半蔵墓>
 文政7年2月18日生まれ。
 庄内藩武藤安宅の末子。早くより沢井水之助のもとについて書を習い、また宮坂文右衛門のもとで剣術および槍術を修める。学才あり、嘉永2年藩校致道館の典学兼助教、のちに舎長を兼ねて10人扶持となる。
 文久2年7月代官、元治元年9月新徴組取締役となって新知100石(内20石役料)給与、慶応2年7月供頭に任じられた。
 同4年戊辰戦争が起こると関係各所への使者を務め、終戦後の明治2年5月庄内松山酒井家の家職となる。
 作詩に巧みでまた中沢雪城のもとで書を研鑚し、後年は田谷村(現在の余目町地内)の豪農渡辺作左衛門に招かれ、同家子女の教育係として勤務。
 明治22年9月11日没。享年66歳
 
 <松平信任(山高瑛三郎)墓>
 弘化元年11月6日生まれ。旧幕臣。幕府旗本山高十右衛門(信平)の三男として江戸に生まれ、長じて神田講武所で高島秋帆、勝海舟らに学び一家を立てた。文久2年19歳の時将軍徳川慶喜に随行して京都に上り、元治元年蛤御門の変が起こると宿直して護衛に当たる。
 慶応4年部下25名を連れて鳥羽伏見の戦いに参戦、敗れて江戸に帰り、旧幕府勢力の遊撃隊を指揮したが、のち庄内に来て酒田で新兵の訓練に当たった。
 庄内開場後の明治2年兵部省の拘引で広島に収監。翌3年3月釈放されて東京に帰る。その後再び来庄、大泉藩参事松平権十郎の義弟となって、その分知をうけ、松平信任と姓名を改めた。明治5年松ヶ岡開墾が始まると榊原組に属してこれに参加。のち旧庄内藩主酒井家の家職となる。
 同11年11月南村山郡学区取締役となって山形に移住。その後、同郡および飽海郡等の書記を歴任し、同31年頃には東根葉煙草専売所に勤務した。
 大正8年12月29日鶴岡にて76歳で没。
 

 





禅源寺

 

⇒禅源寺への交通
鶴岡駅より車で6分
境内自由/拝観無料

山形県鶴岡市新海町23−21

 松山藩家老で戊辰戦争では第二大隊に同行松山藩一番隊隊長として活躍した松森胤保と、酒井吉之丞(玄蕃)の弟で書家として知られる黒崎研堂の墓がある。
 共に、本堂前左に隣り合って建立されている。
 
<松森胤保墓>
 文政8年(1825)庄内藩士長坂家の長男として、鶴岡二百人町に生まれ、38歳で家督を継いだ胤保は翌年には松山藩付家老職を命じられ、一族とともに松山に移り住んだ。
 慶応3年、薩摩藩邸焼打ちの松山藩の総大将として活躍。
 また、戌辰戦争時には松山藩1番隊の隊長として、また庄内藩兵の参謀として、秋田角館まで転戦、大活躍した。藩主酒井忠良は、松山を守った胤保に感謝を込め、松山を守るという意味の「松守」の姓を贈るも、それを固辞し「松森」姓を名乗った。
 明治になってからも県会議員や戸長を務め、明治18年、全ての公職を離れ、これまでの研究や著書のまとめに没頭。明治25年、鶴岡宝町にて死去。享年68歳。
 
 <黒崎研堂墓>
 与八郎・馨・聚・敬治・子芳・東瀛。父は庄内藩家老をつとめた酒井了明でその3男として鶴岡で生れる。酒井(玄蕃・吉之丞)了恒、酒井調良は兄、明治元年黒崎友信(与助)の養嗣子となる。戊辰戦争では17歳で農兵小隊長として出陣した。明治3年に旧藩主酒井忠篤に従って鹿児島に赴き同志らと練兵を学び翌年に帰郷。
 明治5年松ヶ岡開墾に従事し、開墾場の経営にも参加し、その様子を「庄内日記」として書き残している。
 幼少のころより書に巧みであったが、明治19年、当時日本書道界の第一人者であった日下部鳴鶴が鶴岡に来た折、その書風に心酔して入門、それ以来研鑽を重ねて庄内における書道興隆の基礎をつくり、書道家松平穆堂、吉田芭竹など多くの門弟を育てた。
 また、金融機関済急社(のち荘内銀行の前身六十七銀行に吸収された)の社長をつとめるなど、地元の経済界にも貢献し、明治34年には町会議員となった。詩文章にもすぐれ多くの足跡を残した。
 
 <黒崎与助墓>
 450石。用人席。黒崎研堂の養父。鶴岡大海町住。
 戊辰戦争が始まると、集合隊長として四番大隊と共に出陣。平尾鳥の戦いで、一弾が左股を擦って右股に当たり、明治元年9月10日椿台にて戦死。
 





安国寺

 

⇒安国寺への交通
鶴岡駅より車で6分(大督寺裏手)
境内自由/拝観無料

山形県鶴岡市新海町22-5

 ここには北海道開拓に名を残した松本十郎と丁卯の大獄によって断罪された酒井右京の墓がある。
 境内の入口には、松本十郎の案内板が建立されている。
 松本十郎の墓は境内入って手前近くにある。(昔は墓脇に案内板が立っていたようだが折れて無くなっていた…)
 酒井右京の墓は墓域中程にある。
 境内には中村七郎右衛門の墓もあるはずなのだが…どれがどれやら不明でした(TwT。)中村家の墓は幾つかあったのですが、どれか各章がもてず…。
 
 <酒井右京墓>
 金剛若、元松、吉之丞、玄蕃、了繁、幽園と称し、右京は隠居後の称である。文政3年3月一千三百石の家督を継ぎ、天保9年中老、同15年家老となった。丁卯の大獄によって右京は改革派の首領として切腹を命ぜられ、9月11日安国寺本堂で古式によって実施された。享年61歳。
 右京の実弟了明も連座し隠居、800石を減石され700石にて了明の長男吉之丞(玄蕃・了恒)が相続する。
 
 <松本十郎墓>
 庄内藩士で、天保10年に鶴岡に生まれる。
 近習頭取戸田文之助の長子として鶴岡新屋敷に生まれた。幼名重松、長じて総十郎、諱は直温。
 文久3年父に従って蝦夷地西海岸に警衛士として浜益・苫前等にに赴任する。慶応3年帰郷、同年藩が江戸市中取締の任に当たり赴任、合い間に昌平黌に通う。慶応4年戊辰戦争が始まると機事係として各藩に使いし、新庄攻撃には二番大隊に属して参戦。戊辰戦争後、松本十郎と名を変え、戦後処理の為新政府軍の要人と交渉にあたる。
 明治二年、新政府より推挙され、北海道開拓判官、ついで大判官となり、北海道開発初期の行政の基礎を築き名判官と称された。
 アイヌを愛し、アツシ(アイヌの着物)を着て巡視に当り、アツシ判官として道民にも深く慕われた。
 明治9年、アイヌ保護政策を主張したが入れられず、自ら官を辞して鶴岡に帰郷し、その後は要職に推されても就かず、ひたすら読書・農芸にいそしみ、大正5年78歳にて没す。
 
 <中村七郎右衛門墓>
 戊辰庄内藩を調べる上で外せない人物の一人。
 旧庄内藩士中村七兵衛の嫡男。正氏。 若年の頃より剣士石川猪太夫に学び剣術に長じ、番頭として禄
500石を与えられる。慶応3年の丁卯の大獄の際は、酒井右京の依頼により介錯を務めた。 
 また、妹の玉浦が酒井玄蕃(吉之丞)の後妻となっている為、酒井玄蕃(吉之丞)の義兄でもある。 
 戊辰戦争では、銃隊頭に命じられ、清川口に出陣し天童藩落城に尽力、5月には4小隊を率いて長岡に向かい、その後仙台藩の援軍に向かうが、庄内への引き上げの最中の寒河江長岡山において激戦。 晩年は悠々自適、釣りの名人として知られた。 
 明治40(1907)年1月4日 64歳にて没。
 ※赤字箇所は「新編 庄内人名辞典」が誤っている箇所となる為、訂正致しました。(確認済)
 
 <石原倉右衛門墓>
 兄道之助が早世の為、嘉永元年家禄800石を継ぎ、同4年組頭となり、慶応2年(1866)中老に任じられた。 翌3年12月幕府の密命を受け、江戸薩摩屋敷焼き討ちの指揮を執る。慶応4年戊辰戦争が起きると主将となって吹浦口に出陣する。
 6月には新潟で開かれた仙台・会津・米沢等奥羽越諸藩との重役会議に出席し、同地で欧州各国との銃器買い入れ交渉を終え、7月25日従者3人を従え駕籠で庄内へ帰る途中、江木と松ヶ崎(現在の新潟市内)に上陸した官軍に襲撃されて討死。 鶴岡安国寺に埋葬。
 同年12月、明治政府より叛逆首謀者届出方の命があり、庄内藩では倉右衛門を開戦責任者に指名して届け出た為家名断絶となる。
 倉右衛門には子が無く、のちに弟の隼馬(孝五郎)が嫡子となって酒井の姓を賜り、その家は再興された。
 墓は、山門から本堂への通りの、本堂向かって左側中頃の通りから2基目程。脇に石原名と没年が記されています。
 新潟で戦死した後、掘り返してこっそり本国に持ち帰り、荼毘にふして埋葬したという。
 
 <中村三内墓>
 庄内藩士。勝之丞・正孝。砲術家。
 先祖代々庄内藩の種子島流砲術師範を務める。文化3年200石の家督を継ぎ、天保13年物頭となり、藩命により西洋砲術習得の為高島秋帆に学ぶ。安政元年品川台場警備の折弾丸の鋳造、武器類取調べ、合薬製造の指導に携わり、2年に江川太郎左衛門に入門。安政7年加増をうけ250石大目付となる。慶応2年膳所藩の兵法家平元良蔵について英国式銃隊調練を習い、鶴岡に帰ってから七軒町に新設の西洋矢場で藩士に対し洋式砲術を教授する。
 戊辰戦争が起きると、小隊長として31名を率い鼠ヶ関口に出陣。翌明治2年隠居。中村健次郎は三内の三男で、中村七郎衛門隊銃兵隊長として越後口に出陣している。




 

 

総穏寺

 

⇒総穏寺への交通
鶴岡駅より徒歩30分。
鶴岡駅より庄内交通湯田川温泉行きバス四小前下車すぐ

山形県鶴岡市陽光町5−2 

 新国劇、長谷川伸の戯曲「総穏寺の仇討」や、郷土出身直木賞作家藤沢周平の「又蔵の火」で知られ、土屋義士の像と墓がある。
 境内には藩士の墓も多く存在する。
 
 <白井久井墓>
 玄蕃サマの妹で、白井重垂に嫁したが、明治3年22歳の時に死別。のちに朝晹学校が設立されると選ばれて裁縫教師となる。
 開明思想の持ち主で、婦人運動を興して指導、明治21年鶴岡に庄内婦人会を結成し、代表幹事に就任、のちに会長に推され婦徳向上、社会事業の為に活躍した。明治30年鶴岡高等女学校の開設とともに教員に迎えられたが、傍ら37年には工女夜学会を設けて講師となり、39年には庄内婦人会鶴岡幼稚園の設立に尽力。大正元年9月没。
 墓地左奥、新しい「白井家」の墓の脇に建立されている。
 
 <山岸貞文墓>
 庄内藩士。服部十郎右衛門の四男。のちに山岸嘉右衛門の養嗣子となる。文久3年9月藩校致道館の典学兼助教となり、同11月新徴組取締役となる。元治元年200石の家督を継ぎ、慶応2年普請奉行、同3年郡代に任じられ、翌4年2月加増で250石となる。玄蕃サマが致道館の試舎生だった時、舎長代理であった。
 戊辰戦争が起こると藩主の側近にあって軍事掛を兼ね、開城の折には正使水野藤弥に従い副使となり、古口の官軍本営に赴き降伏の使者となった。
 戊辰後は、大泉藩大属、続いて酒田県権大属をつとめ、明治5年には松ヶ岡開墾の指揮をとる。のちに鶴岡県に出仕するも、ワッパ騒動の責任を一身に背負い明治8年免官となる。明治13年済急社を設立して初代社長、同15年六十七国立銀行頭取に推されて在職のまま死没。
 
 <鳥海新之助墓>
 庄内藩士。
 戊辰戦争で水夫組副小隊長として出陣。雷峠の戦いなどで奮戦するも、9/11関川の戦いで戦死。
 9/11雷村を出て西北の道に進み、井上雄介と共に堂ノ森の敵と戦うも、味方寡兵なれば苦戦、しかし雷峠を開かずには引けずと大いに進み、樹木家屋を楯に戦うも打ち倒され、深手を負う。水夫小間根幸助が鳥海新之助を背負って関川村農家に入れて介抱し、自らは再び戦場に戻り戦死。関川村も敵が侵入しており越沢に新之助を後送出来ず。死去。
 戒名は『宗智院透関勇徹居士』
 
 <志賀清任墓>
 庄内藩士。金三郎。
 慶応元年佐藤孫九郎の元で心影流剣術の免許を取り、次いで荻野流砲術の免許皆伝を受ける。
 戊辰戦争が起きると、大山組農兵隊をを率いて関川口に出陣。
 明治3年、220石の家督を相続し、5年4月新潟鎮台新発田分営に入隊したが、8月帰郷し松ヶ岡開墾に参加する。8年江華島事件が起こると黒田清隆が全権大使として朝鮮に赴くにあたり、酒井玄蕃が病床の自分に代り推挙し大砲方として黒田に随従。任を果たし翌年帰国。16年官を辞して鶴岡に帰る。のち藩主世子酒井忠恕未亡人瑛昌院に仕える。明治32年済急社の監査役を務め在職中に没する。

 

 


常念寺

 

⇒常念寺への交通
鶴岡駅より車で15分
開館時間:不明/入館料無し

山形県鶴岡市睦町1-1

 大永3年(1523)に鶴岡山円通院天翁寺として創建されたとされ、慶長8年(1603)、最上義光によって常念寺と改称させられたといわれています。義光の長男義康の菩提寺で、元和8年(1622)、酒井忠勝によって、現在地に移転された。
 境内入ってすぐ右側の一角に、戊辰戦死招魂碑と官軍墓があります。とくに説明版とかも無く、通常うっかりスルーしそうな感じ。
 
 <戊辰戦死招魂碑>
 明治9年1月に旧庄内藩士松本十郎により建立されたもので、庄内藩戦死者全員が祀られている招魂碑です。境内参道右側に建立されています。
 
 <戊辰之役官軍墳墓>
 肥前武雄藩士等28名の墓。
 戊辰戦死招魂碑の右脇にあり、植木に囲まれているので、一瞬わかり辛いですが、植え込みの入口に「戊辰之役官軍墳墓」という白い木柱が立てられています。
 
 <肥前武雄藩士樋口泉兵衛親英碑>
 佐賀武雄藩士 8/5の平沢(秋田県にかほ市)において戦死 27歳 先手侍隊伍長目付 墓碑は秋田市天竜寺。また、佐賀武雄の円応寺にも樋口泉兵衛等を祀った羽州戦争戦死者の碑がある(らしいです・未見)
 『戊辰庄内戦争録』の三番大隊の『平澤寛之助覚書』によると、
『此日ノ打合黒川芹田三ツ森ヲ初メ平沢琴浦迄焼打シテ夜ニ入塩越ニ帰陣今日ノ打取今野慶太手負アリシ敵ヲ切後懐中ヲ正スニ
樋口泉兵衛親栄(英)ト有』





萬福寺

 

⇒萬福寺への交通
鶴岡駅より車で15分
開館時間:不明/入館料無し

山形県鶴岡市睦町3-38(地図)

 庄内藩士で「戊辰庄内戦争録」の著者である和田東蔵の墓があるお寺です。史料が少ない庄内戊辰戦争の貴重な史料デス☆
 また、和田光観の墓もあるお寺です。
 
 <和田東蔵墓>
 庄内藩士和田又蔵光昭の三男。天保11年叔父で儒者の和田東蔵(黎)の養子となる。忠意の御付小姓を経て、安政6年忠意が村山郡長瀞藩主米津家へ入嗣の際、これに従い、長瀞藩の近習目付となり小納戸役を兼ねた。
 慶応元年新徴組取締役に任ぜられ、新知八十石・役料二十石を給された。戊辰戦争には新徴組半隊長として肘折口や小名部口に出陣した。明治3年鶴岡の郊外大宝寺村に新教屋敷を百三十七戸建設した時は、普請係を勤めた。明治5年戊辰戦争に関する史料の取り調べを命ぜられ、各隊の日記などを収集する。公職を退いた後に本格的な調査・編集に入り、四年の歳月を費やして明治28年に『戊辰庄内戦争録』四巻の刊行をみた。
 明治7年から庄内各地の戸長を転々とした後、同10年に朝暘学校世話孫となり、同二十年まで在職した。享年80歳。




光明寺

 

⇒光明寺への交通
鶴岡駅より車で5分。
開館時間:不明/入館料無し

山形県鶴岡市本町2丁目9-8

 ここには、庄内藩士で戊辰戦争では第四大隊隊長として活躍した水野藤弥の墓がある。
 境内入口の墓域手前の奥に、石壁で囲われた一角があり、その更に左奥にある「子乾水野君之墓」が水野藤弥の墓である。
 
 <水野藤弥墓>
 安政4年7月家督を相続して1500石、文久3年組頭、元治元年新徴組取扱頭取となる。
 慶応4年戊辰戦争が起こると四番大隊隊長となり矢島を経て秋田を目指し雄物川まで進撃するも、9月降伏開城の方針決定により鶴岡に帰る。中老に任ぜられて内蔵丞と称し、25日命ぜられて藩の正使となる。副使山岸嘉右衛門とともに最上郡古口村で官軍参謀黒田清隆に会見、次いで鶴ケ岡城明け渡しの任に当った。
 明治2年12月大泉藩権大参事となり、翌3年5月名を由岐と改める。41歳にて病没。





 

林高院

 

⇒林高院への交通
鶴岡駅より車で8分
境内自由/拝観無料

山形県鶴岡市八ツ興屋字土谷俣7

 戊辰戦争の際、旧幕臣の天野豊三郎、佐藤桃太郎、関口有之助等9名が各地に転戦の末、ここ庄内藩にたどり着いたが、庄内藩は既に謝罪降伏していた為、この八ツ興屋の林高院に匿われ部落の豪農三浦半三郎が厚くもてなした。
 そして、三人の処刑の報を聞くと、三浦半三郎は病床起きだし、夜陰に紛れて処刑された酒田の妙法寺に行き首を持ち帰り、この寺に埋葬し、翌年立派な墓石を建立したのである。
 その後、毎年4月21日には法要が営まれたという。

 三烈士の墓は門入ってすぐ左。
 
 <三烈士の墓>
 戊辰戦争の際、旧幕臣の天野豊三郎、佐藤桃太郎、関口有之助等9名は各地に転戦の末、ここ庄内藩にたどり着いたが、庄内藩は既に謝罪降伏していた為、この八ツ興屋の林高院に匿われ部落の豪農三浦半三郎が厚くもてなした。庄内藩首脳は9人に降伏して国元に帰る事を勧めるが、天野・佐藤・関口の三人は聞かず、三人は松山藩お預けとなり、新政府軍に対して反抗を続けた為、明治2(1869)年4月21日新政府軍は三人の処刑を命じる。天野30歳、関口21歳、佐藤22歳(19歳とも)。
 三浦半三郎は、この報を聞いて妙法寺に行き、夜陰に紛れて三人の首を持ち帰り、この林高院に葬り、明治3年3月21日立派な墓石を建立した。





井岡寺

 

⇒井岡寺への交通
鶴岡駅よりバス『湯田川温泉行き』新山口下車、徒歩約5分。
車で駅より12分、鶴岡ICより5分。
境内自由/拝観無料

山形県鶴岡市井岡甲199

 鶴岡市街より少し話した場所にあるこの地域一体を「井岡」といい、825年に基貞親王が弘法大師の弟子として諸国を巡った際に、この地を霊地と認め天皇家の祈願所、勅額寺阿伽井坊遠賀廼井寺として堂宇を建てたのに始まるといいます。平安末期には義経が平泉へ落ちる際に立ち寄ったという伝説が残っており、弁慶の書といわれる書も残っているそうです。
 この寺には、幕末庄内藩の家老であった菅実秀の墓や、戊辰後新徴組取扱となった竹内右膳等の墓があります。
 
 <菅実秀墓>
 本堂右参道を登っていくと墓地が広がり、その奥側の右に行く道を進むと左側に菅家の墓域が見え、その右にある囲われた箇所が菅実秀の墓所です。墓碑銘は「荘内大夫菅先生之墓」
 菅実秀は、幕末庄内藩家老として藩政を指揮、第二大隊大隊長酒井吉之丞が尊敬した人物で、戊辰戦争後は松ヶ岡開墾に尽力、また西郷隆盛と深く交流し後に「南洲翁遺訓集」を出した。(詳しくは人物紹介へ)
 
 <竹内右膳墓>
 
本堂右参道を登っていくと墓地が広がり、その真中の上へ真っ直ぐに伸びる道を進むと右側に竹内家の墓域があり、その墓域入って直ぐ入り口に背を向けて建っています。墓碑銘は「南山竹内君墓」。
 天保13年に10月15日庄内藩士竹内主馬の子として鶴岡に生まれる。中老をつとめた八郎右衛門の孫。
 慶応元年5月1100石の家督を継ぎ番頭となり、7月組頭に任命される。
 同3年12月25日の庄内藩による薩摩屋敷焼討に参加し、翌4年4月組持番頭として戊辰戦争に出陣、
第二大隊第四小隊長として奮戦した。
 明治2年軍功により加増して1200石
新徴組取扱を命ぜられ、同5年に松ケ岡開墾が始まると新徴組頭として指揮をとり、かたわら鶴岡の戸長も勤め、開墾終了後も総長松平権十郎の補佐となって本陣に起居、30年以上に渡り開墾場の経営に尽瘁した。67歳で死亡。
 
 <竹内八郎右衛門墓>
 家老竹内八郎右衛門(茂昆)の子、明和7年父の死により家禄1100石を継ぎ、同9年組頭、安永四年中老となるが、安永8年水野重幸が天明6年家老に任ぜられると八郎右衛門は亀ヶ崎城代に移され、以来15年間藩政の中枢から遠ざけられた。
 しかし、水野派の藩政は行き詰まり、政策の転換が必要となり、寛政7年5月八郎右衛門は中老復帰を命ぜられ、郷方改革係、勝手用係として郡代白井矢太夫と協力し寛政改革を断行した。
 八郎右衛門は藩の要職から水野派を排除し、自派で固め隆盛を極めた。文化2年家老に進むが、しかし文化8年幕府の許可なしに参勤道路を変更し、幕府の不興をかい、同年7月家老を罷免され、文化10年2月15日没した。享年67歳。
 墓碑銘は「故太夫南樓竹内君墓」
 
 <竹内八郎右衛門墓>
 同じく竹内家墓域内にある「竹内八郎右衛門(茂林)」の墓。
 墓碑銘は「故太夫北窓竹内君墓」
 庄内藩で放逸派の頭領といわれた竹内八郎右衛門(茂樹)の子で、文化3年7月召出されて用人となり30人扶持を給される。同7年小姓頭に任ぜられて新知行300石を与えられるも、翌8年7月父茂樹が家老水野重栄らの恭敬派によって退けられたため、家督を継いで家禄1100石の上席番頭となる。
 同年9月菩提所総穏寺に墓参の折、同所で
藤沢周平の「又蔵の火」で有名な土屋両義士(丑蔵・虎松)の仇討に出合い,頼まれて刺違えの場に立ち会った。同10年組頭となり、文政元年中老と歴任、同10年12月家老に任ぜられ在職中病没。享年58才。
 <白井矢太夫墓>
 庄内藩士白井久右衛門(茂貞)の長子、天明4年家督を継いだ。祖父白井久兵衛は荻生徂徠の門人であった。加賀山桃里に学び後江戸で松崎観海に学ぶ。天明2年帰国して物頭から大目付に進む。
 7代藩主忠徳は荒廃した農村や逼迫した藩財政を回復させる為、寛政4年農民を救済する方法があったら申し出よと命じ、矢太夫は、翌年一月「上書」を提出し、忠徳の信任を得、同年5月郡代に抜擢された。
 竹内八郎右衛門が中老に復帰すると、
郷村改革掛に任命され、竹内八郎右衛門と白井矢太夫を軸とする農政改革に道を開いた。その結果、藩財政は富裕となった。 矢太夫は早くから藩主忠徳に学校の建設を進言していて、文化2年鶴岡の北郊大宝寺に藩校致道館を創立した。文化5年には中老に昇進し、同7年800石となった。家老竹内八郎右衛門と手を結び権勢を振るったが、竹内八郎右衛門失脚すると共に退けられた。文化9年6月24日没す。享年60歳。 墓碑銘は「故太夫東月白井君墓」

 


専念寺

 

⇒専念寺への交通
鶴岡ICより車で10分。
羽前大山駅より徒歩25分又は車で3分。
境内自由/拝観無料

山形県鶴岡市大山2丁目41−48

 大山にあるこの専念寺は、戊辰戦争の際に桑名藩士で、恭順派家老吉村権左衛門を殺害した事でも知られる山脇隼太郎等が謹慎した寺で、大山で降伏した桑名藩士達はこの大山の寺に分かれて謹慎した。この寺には「桑名藩士8名の墓」が遺されている。
 
 <桑名藩士八名の墓>
 境内本堂向って左側にある墓地の一番奥にあります。
 戦死者、戦病死者の墓が建立されており、過去帳には11名が記載されているが、現存するのは8基のみである。
 現存するのは、桑名藩士樋口次郎左衛門兼政(42)M1.11.26、伝習隊士森清十郎(26)M1.10.9、桑名藩士小林為輔(13)M2.3.25、桑名藩士渡部浅右衛門(13)M2.1.10、桑名藩士渡部(坂部?)喜右衛門(45)M2.2.25、不破右門(13)、相馬芳右衛門(38)M2.3.4、桑名藩士岡本作十郎(36)M1.9.29。
 ※墓碑が無いのが金子覚弥(21)、明門又十郎(23)、加藤幸助(26)の3名


 

新徴組本部跡

 

⇒新徴組本部跡への交通
鶴岡駅より湯田川温泉行きバスで25分
車で18分隼人旅館前
(隼人旅館HP↓)
http://www.hayato-ryokan.jp/
山形県鶴岡市大字湯田川乙56

 清河八郎の意見により、幕府が江戸を中心に浪士召し抱えを触れ出し、浪士組が発足、その後近藤勇等が抜けた後、江戸市中取締の任に就いた庄内藩預かりとなり、新徴組と改名し江戸市中の取り締まりにあたった。
 鳥羽伏見の戦いの後、庄内藩士達と共に庄内に移住した新徴組は、ここ湯田川温泉の隼人旅館を本部とし、藩士と共に戊辰戦争に参加、第四大隊と共に行動を共にし、秋田攻めを行った。




新徴組墓地

 

⇒新徴組墓地への交通
鶴岡駅より湯田川温泉行きバスで25分。車で18分。長福寺裏
境内自由/拝観無料
湯田川温泉公式HPより(地図

http://www.yutagawaonsen.com/map.html

山形県鶴岡市大字湯田川乙35

 長福寺脇にある貯水池の所に「新徴組墓地」の大きな案内板が出ており、迷う事はなかったです。ただ道が狭くて駐車スペースが無いので困りました。・゚゚・(>_<;)・゚゚・。
 ここ湯田川温泉の長福寺裏の墓地には、新徴組の墓地があります。とはいえ、イメージしていたより、広いスペースに点在している感じでしたが・・・。この墓地には戊辰戦争で亡くなった隊士やその家族など20名が埋葬されています。
 
 <新徴組墓地>
 
江戸からの引き上げの際、新徴組も共に庄内へ移住させ、藩では湯田川の宿屋と民家37軒に仮分宿させた。
 湯田川にある墓地には、戊辰戦争にて戦死した、隊士岩間七郎(17)<小鍋坂にて戦死>水野令三郎(19)<関川にて戦死>辻真太郎(25)等計8名、及び湯田川在住中に没したその家族12名の慰霊が眠っています。