豊烈神社

 

⇒豊烈神社への交通
山形駅より徒歩10分
自由(郷土資料館は別途)

山形県山形市桜町7-47(地図

 文政4年に藩祖水野忠元を城内に祭り、朝廷より「豊烈霊神」の称号を賜った事に始まり、明治13年にこの地に分社を建立した。中興の祖水野忠邦を大正10年に合祀。昭和30年には戊辰の役で水野三郎右ヱ門元宣と、戊辰の山形防衛戦で戦死した大久保伝平外22名を合祀した神社である。
 <水野元宣像>
 水野元宣は22歳で山形藩の家老職についた人物。
 当初山形藩は新政府軍の命により、庄内攻めの為長崎口まで進出したが、庄内藩の不意の襲撃により敗走、山形市内が兵火に侵される寸前、水野元宣の奔走により救われた。
 その後、奥羽越列藩同盟が締結されると、山形藩も同盟に参加。しかし、諸藩降伏していく中で、新政府軍より反逆罪に問われた元宣は、「山形藩の責任は全て自分ひとりにあり。他の者には寛大な処置を」と嘆願書を提出。明治2年5月20日27歳にて刑死した。
 この像は明治34年に建立され、第二次世界大戦の折供出され、昭和21年に改めて服部午山の作として建立されたものである。

 

 

山形城(霞城)

 

⇒霞城への交通
山形駅より徒歩15分
山形道山形蔵王IC20分
見学無料
見学時間:東大手門・北門は5〜22時(11〜3月は5時30分〜)

山形県山形市霞城町
地図
 山形城、別名霞城とも呼ばれる。
 中世の居城を拡張して城郭とし、本丸は御殿のみで天守は作られなかった。これらは最上義光の時代に基礎が作られ、鳥居氏の時代に現在の形に整えられたものである。しかし、全国でも有数の、そして奥羽最大の城であったが、度重なる藩主交代に伴って石高が削減される一方の山形藩にとっては、維持することすら困難となる広さであり、また整備しようと思う矢先に藩主が交代となってしまう為、手入れも行き届かなくなり見る影も無くなり、狸等が出るほど荒れ果ててしまった。そのため、代々の藩主は城には住まず、城外に居宅を持ち城には住まなかったという。
 また、江戸初期の頃には、会津藩祖保科正之が会津に移封される前は、この山形藩主として約7年程着任していた場所でもある。

 

 

長源寺

 

⇒長源寺への交通
山形駅より徒歩20分
境内自由

山形県山形市七日町3丁目3-5地図
 長源寺は、元和8年、最上家が相続問題と家臣団の不和から幕府によって近江国朝日山藩に改易後、最上義光の菩提寺であった光禅寺跡に建立された寺である。鳥居氏は自分の菩提寺を山形に移し、長源寺を建てたのである。

 街中の一方通行の道にあり、解りづらい寺ですが、ここは戊辰戦争の責任を一身に背負った山形藩家老水野元宣が、刑死させられた場所で、その遺体は寺向かいの墓地に埋葬されている。
 
 <水野元宣墓>
 本堂のある敷地とは道を挟んだ向かいに墓地がある。
 その墓地の中ほどに右写真の水野元宣の墓が建立されている。
 明治2年5月20日、同盟諸藩の戦犯者の内、唯一刑死した人物(外は切腹の形が取られた)刑死時、享年27歳であった。
 また、近くには「赤星守人」氏の墓があり、赤星氏は山形藩の御目付役並びに差図役であったが、慶応4年4月4日羽前村山落合村にて戦死。この時は、山形藩は新政府軍として戦っていた為官軍として戦死した訳であるが、当初墓石には名前のみ刻まれていたのだが、近年「官軍」と追加して刻まれた不思議な墓。
 
 <水野三郎右衛門元宣終焉之地碑>
 この長源寺の庭にて明治2年5月20日に処刑されたもので、本堂左にある御堂前に左写真の碑が建立されていて、碑の下部分には石板に経緯が刻まれている。