上杉神社(米沢城址)

 

⇒上杉神社(米沢城址)への交通
米沢駅より「白布天元台」行きバス10分、「上杉神社前」下車徒歩5分
見学時間:9〜16時
拝観料:境内自由、稽照殿拝観400円

山形県米沢市丸の内1-4-13

 米沢城跡である松岬公園内にあり藩祖上杉謙信公を祭る。上杉家伝来の宝物を収蔵した稽照殿が隣接する。
 米沢藩は、戊辰戦争の際、仙台藩等と図り会津藩救済に立ち上がり、両藩が盟主となり奥羽悦列藩同盟が成立、越後戦線に米沢藩は三千人を越す兵を送るも、その戦闘は消極的で必死の戦いを行ったのは新潟で戦死した色部長門隊くらいで、7月27日には越後から撤退、そしてその1ヵ月後には新政府軍に降伏した。
 戊辰戦争後の処分で米沢藩は、藩主上杉斉憲の隠居と15万石から4万石への削減を命じられ、新潟で討死した色部長門を首謀者として提出した。
 <上杉曦山公之碑>

 曦山とは米沢藩12代目上杉斉憲の事で、この碑は題字が有栖川熾仁親王、石碑裏の文は勝海舟によるもので、明治24年に斉憲を慕う旧藩士の手によって建立されたもの。

 

 
 <招魂碑>

 この碑は米沢城本丸(現松岬公園)の東南隅の高台に建っている石碑。
戊辰戦争での犠牲者二百八十余名及び西南戦争の犠牲者五十二名を弔うために明治11年4月に建てられたもので、その後日清・日露戦争の犠牲者も合祀されています。
 この場所は、藩祖上杉謙信の遺骸を安置した御堂のあった場所であった。

 

 

左「上杉鷹山公像」
 「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成さぬはひとのなさぬなるけり」で有名なご存じ上杉鷹山公。
 アメリカの大統領に就任したジョン・F・ケネディが日本で最も尊敬する人物として上杉鷹山を挙げた事でも有名。 米沢では、謙信よりも有名であるとも??

右「上杉謙信公像」
 武田信玄との川中島の戦いなどで熾烈な戦いを演じた上杉謙信。

 

  『上杉鷹山』
 高鍋藩主・秋月種美(あきづきたねよし)の次男として生まれ、9歳の時米沢藩の養子と内定、17歳で米沢藩を継いだ。
 米沢藩は、継嗣問題で30万石あった領地を15万石まで減らされ、昔ながらの格式の踏襲で家臣団への出費も削減しなかった為、不足分を借金で補い、財政は破綻状態、鷹山が藩主になる3年前には、もはや藩の存続は不可能であるとして、前藩主・上杉重定が幕府に領地返上を願い出ようとするほどでであったが、
鷹山は米作以外の殖産興業を積極的に進め、また教育も必要と藩校を設立、倹約を自ら率先し、天明の大飢饉では一人も餓死者を出さず、鷹山が亡くなった1年後の文政6年には11万両の借金は全て完済され、5千両の黒字を出すほどになっていたといいます。







色部長門追念碑

 

⇒色部長門追念碑への交通
米沢駅より「白布温泉」行きバスで10分「上杉神社前」下車徒歩3分
見学時間(上杉伯爵邸):10〜17時/見学無料
山形県米沢市丸の内1-4-13
上杉伯爵邸/米沢市児童会館裏手
 色部長門は越後口総督として藩兵約600を率い出陣。本陣を関屋(新潟市)に置き、戦略上の要地である新潟港の管理にあたる一方、前線の指揮にあたった。
 しかし、戦況は次第に新政府軍が優勢となり、色部の守る新潟港にも薩摩藩の大軍が攻め寄せました。
 このため色部総督は、同盟軍に解散・帰藩を命じ、自らは最後に出発しましたが、その撤退の途中で薩摩軍と遭遇。ここで逃げれば米沢藩の名誉にかかわると、敵の大軍に斬り込み壮絶な戦死をとげました。慶応4年7月29日、長門44歳でした。
 戊辰後、米沢藩は長門を首謀者として届け、色部家は断絶となりました。そして、昭和38年に市制70周年記念事業の一環として上杉伯爵邸内に「色部長門追念碑」が建てられました。

 







憂国志士・雲井龍雄遺跡碑

⇒憂国志士雲井龍雄遺跡碑への交通
米坂線米沢駅より車で10分。
JR西米沢駅より徒歩25分
見学自由
山形県米沢市城西1丁目6-12(地図)

 海谷商店という酒屋さんの脇にひっそりとある「憂国志士雲井龍雄遺跡」碑。
 龍雄は18歳の時、叔父の小島才助の養子となり、才助の病死により20歳で小島家の家督を相続。小島家は下級家臣で、家は舘山口町にあり、現在の城西一丁目、海谷酒店の場所。
 この碑は、その小島家跡の一角に昭和13年、龍雄を顕彰する為建立されたもの。








林泉寺

 

⇒林泉寺への交通
米沢市民バスで 「山大正門」又はは「二中前」下車 徒歩2分
米沢駅から車で約12分
見学時間:9〜16時迄
拝観料:
大人100円(堂内300円)
公式HP⇒http://yone-rinsenji.com/index.html

山形県米沢市林泉寺1-2-3
 明応5年(1496年)に越後守護代であった長尾能景(上杉謙信の祖父)が、その父である重景の勲業を子孫万歳の福基に残そうと越後国高田の蜂ヶ峯の麓に一宇が建立されたのが始まり。長尾景虎(のちの上杉謙信)が上杉氏を相続された時に、上杉家の氏神である奈良の春日明神を勧請し、山号を『春日山』とした。その後、上杉景勝の代に会津を経て米沢に移封となり、現在の地に移ってきたもので、現在の建物は享保17年の火災の後建立されたものである。
 境内には藩主上杉家の墓や、重臣直江兼続の墓などがある。
 また、写真の山門は上杉鷹山時代の元家老竹俣当綱家の門を明治41年に移築したものである。
 <媛姫墓>
 会津藩祖保科正之娘。継室お万の方との間に生れた娘で、上杉綱勝に嫁いだが、側室の生んだ松姫が加賀前田家に縁談が持ち上がり、お万の方は自分の生んだ娘媛姫が30万石で、側室の生んだ松媛が加賀百万石というのが不満であり、お万の方は明暦4年(1658)7月25日松姫輿入れ前日、三田の会津藩下屋敷にて媛姫も里帰りし祝宴が設けられた。その際、お万の方は、松姫のお膳に毒を盛り毒殺を目論んだが、松姫付きの老女が機転を利かせ媛姫のお膳と入替え、媛姫は毒死。享年18歳。
 これを知った保科正之は関係者を処刑・処罰し、後の家訓にも「婦人女子の言は一切聞くべからず」という一条を記したという。また、僅か6年後の寛文4年(1664)綱勝が25歳で嫡子の居ないまま急死。上杉家は無嗣子断絶となるところであったが、岳父保科正之の尽力もあり吉良上野介義央の長男綱憲が末期養子として継ぐ事で家名存続を許された。この事を恩に感じた上杉家は幕末、救会に尽力したのである。
 
 <北越戦争忠士墓>
 奥羽越列藩同盟は武器弾薬の調達を新潟港に頼っており、この新潟港を会津・米沢藩が守備していた。越後口は消極的な米沢藩の戦歴の中で数少ない戦地である。新潟港も新政府軍に奪われ撤退した。
 この北越戦争での戦死者の墓である。
 
 <菊姫墓>
 菊姫は武田信玄の娘で、信玄死後当主となった武田勝頼は上杉景勝と和平を結び、妹菊姫を上杉景勝に嫁がせた。
 菊姫は「甲州夫人」と呼ばれ敬愛されたが、慶長9年(1604)京都で死去。享年47歳。
 
 <直江兼続夫妻墓>
 09年NHK大河ドラマ「天地人」の主人公として有名な直江兼続夫妻の墓。直江は幼名樋口与六。直江大和守親綱の養嫡子となり、才気郡を抜き、謙信・景勝に仕え、藩政を一身に統一した。米沢を居城とし、荒地の開拓・産業開発・学問の興隆、民政の安定を図り、米沢開創の恩人であるという。

 

 

 
 

上段左⇒「杉原常陸介親憲墓」
      水原城主だった人物で、上杉麾下十三人衆の一人。景勝に随い会津に移り、ついで米沢に移った。
上段右⇒「武田信清墓」
      武田信玄の六男で、武田家が滅亡した後、景勝に嫁いだ姉菊姫を頼って上杉に来て、
       景勝は信清を高家衆の筆頭として優遇し、三千三百石を賜わり、83歳にて没。
下段⇒「甘粕備後守景継墓」
     上杉謙信・景勝に使えた剛勇名高き武将で、越後長尾家の家臣登坂清高の嫡男であったが、
     謙信の命で甘粕家を相続した。後景勝の重臣として、越後の護摩堂城・五泉城・庄内酒田城の城主となり、
     慶長3年には白石城の城主となる。慶長16年62歳で死去。









常安寺

 

⇒常安寺への交通
JR米沢駅より車で7分
境内自由

山形県米沢市大町4丁目1-46(地図

 もとは現在の新潟県栃尾市の上杉謙信が開基の寺。門察和尚の開山にて天文16年(1547)建立された寺院で、上杉景勝に従い会津を経て米沢に移転した。
 境内には、雲井龍雄の墓がある事で有名。
 <雲井龍雄墓>
 雲井龍雄の本名は小島龍三郎といい、天保15年(1844年)1月25日米沢藩士中島ハ右衛門の次男として生まれ、幼名は猪吉、権六、熊蔵。物心ついてからは龍三郎という。また変名として用いたのは、雲井龍雄の他、遠山翠、一木緑、桂香逸などもある。雲井の名は慶應4年7月頃から使用しだした。
 18歳の時、同藩叔父の小島才助の養子となった。小島家は名家ではあったが、三人扶持七石十俵で米沢藩では下士の上位であった。 庄内探索の後、京都の情勢が悪化すると、龍雄は藩の命で京都探索として京都に上った。この京都で討薩の決意を固め、鳥羽伏見の戦いの後、米沢に戻り、「討薩檄」を書き奥羽越列藩同盟の士気を鼓舞。終戦後は新政府転覆を考え、芝の円真寺に「帰順部曲点検所」を設け、同士を集めたが、新政府軍によって同士共々捕らえられ処刑された。首が晒された小塚原刑場の千住回向院にも雲井龍雄の墓がある。








日朝寺

 

⇒日朝寺への交通
JR米沢駅より徒歩15分、JR南米沢より徒歩25分
境内自由

山形県米沢市相生町7-109

 吉祥山日朝寺は、文永11年(1274年)、日蓮聖人が佐渡流罪を赦免され、鎌倉への帰途、当時越後の国高田にあった真言宗吉祥坊朝日寺の本尊・毘沙門天が聖人を招き入れたことを起源とする。招き入れた毘沙門天の像までに泥足の跡で辿られたことから、泥足毘沙門天と謂われるようになり、その霊威を起因として、大雄院日朝上人により日蓮宗に改宗した。
 明應3年(1494年)長尾為景(上杉謙信公の父)より禁制の保護を受けたのが始まり。その後、上杉謙信の軍神として泥足毘沙門天が崇拝された。後、景勝の時代に上杉家と共に会津・米沢へと移転した。現在の建物は大正8年の建立である。
 千坂太郎左衛門の墓がある。
 <千坂太郎左衛門(高雅)墓>
 境内の墓地の一角に「千坂家墓所」と囲われた墓所があり、その中心にある大きな墓石が幕末米沢藩家老として活躍した千坂太郎左衛門の墓である。
 天保12年閏1月19日米沢藩家老千坂高明の長男として生れる。19歳の時興譲館定詰勤学生に選ばれた。その後藩主上杉斉憲の洛中警備に父と共に従い、京周辺における時勢の急転に奮起した。慶応2年11月異例の抜擢で国家老となった。慶応3年1月には3000人を率い上洛、その後薩長の武力討幕に憤激、白石会談後、藩論を佐幕に統一。米沢藩降伏後謹慎。
 明治3年(1870)米沢藩の大参事となると、藩主上杉茂憲に随いイギリスに遊学、6年(1873)帰国して内務省に入る。西南戦争では陸軍中佐として出征。のち、石川県令、内務大書記官、岡山県令を歴任。退官後は実業界に入り、両羽銀行、宇治川水電、横浜倉庫などの重役を勤めた。
27年(1894)より貴族院を勤める。大正元年12月3日72歳にて没。








龍泉寺

 

⇒龍泉寺への交通
JR米沢駅より徒歩21分
境内自由

山形県米沢市大町4丁目1-46(地図

 米沢駅前の道を直進すると、右に上の竜泉寺の前に1枚の看板が建てられている。 会津藩士堀粂之助の墓が建立されていることを示す看板である。お陰で、迷う事無くたどり着く事が出来る。
 <堀粂之助墓>
 1835年堀清左衛門の長男として生まれ、戊辰の際は、母成峠を守備、後は城に入り籠城戦を戦うが、8月23日藩主松平容保の命を受け米沢藩に吉村寅之進と共に援軍の依頼に出向くが、米沢藩は降伏を決めた後であり、君命を達成できなかった。吉村は仙台に行き更に援軍を求める事を勧めるも、君命を果たせなければ生きて帰るわけには行かないとして、宿場の主人に金子を与えて後事を託し、9月5日自刃。享年31歳。 墓の脇には辞世の歌を刻んだ石碑が建立されている。「神かけて 誓ひしことの かなわねば 
              ふたたび家路 思わざりけり」









高国寺(近藤勇墓)


⇒高国寺(近藤勇墓)への交通
JR米沢駅から徒歩30分。
境内自由

山形県米沢市鍛治町4586

 晒された近藤勇の首を、米沢の織物業者で剣の達人であった従兄弟の近藤金太郎が盗み出し、赤羽近くの河原で焼かれ、紙に包まれて米沢に持って帰り、高国寺の近藤家墓地に埋葬したという。この事は近藤金太郎の孫である近藤利三郎が「覚書」と称した文章として残っているという。








北村公園

 

⇒北村公園への交通
JR米沢駅より徒歩40分
公園内自由

山形県米沢市金池4丁目3730-1

 公園のほぼ中央奥に昭和51年11月に建てられた雲井龍雄の胸像のレリーフがあり、台座の石板には、雲井龍雄の略歴と戊辰戦争中に龍雄が薩摩藩を批判した檄文「討薩檄」が刻まれている。
 「討薩檄」は、米沢藩士雲井龍雄が、鳥羽伏見の戦いの後、米沢に戻り起草した文章で、千坂太郎左衛門に見せ、千坂が長岡藩家老の河井継之助、会津の軍事奉行佐川官兵衛に示し、更に同盟軍総督府として採択されたもので、同盟軍の士気を鼓舞した。








千眼寺

 

⇒千眼寺への交通
JR奥羽本線米沢駅からバス山形線窪田下車徒歩10分
境内自由

山形県米沢市窪田町窪田1861(地図

 千眼寺は、長禄元年に、北越の国人領主色部氏により平林城下(新潟県岩船郡神林村)に建立。元は真言宗であったが、天正年代に色部勝長の次男長真が曹洞宗に改めた。戦国時代には、上杉謙信の重臣として、色部勝長が活躍。その後、上杉景勝が会津120万石に移封となるのにともない、 色部光長も慶長3年、平林城から出羽金山城に移る。慶長6年に上杉景勝が米沢30万石に減封となると、色部氏も米沢城下に移り、窪田に4万坪余りの知行地を与えられた。千眼寺もこれらの移動にともなって米沢に至っている。
 その為、色部氏の菩提寺となっており、色部長門の墓もある。
 <色部長門墓>
 1825年色部篤長の長男として生まれ、1859年江戸家老兼侍頭となる、1865年京都警備の任に就く。戊辰戦争の際には、庄内。会津の諸藩と新潟港の管理にあたり、米沢藩総督として西洋武器の購入に努力した。
 しかし、
慶応4年7月29日新潟港にも薩摩藩の大軍が攻め寄せ、色部総督は、同盟軍に解散・帰藩を命じ、自らは最後に出発しましたが、その撤退の途中で薩摩軍と遭遇。ここで逃げれば米沢藩の名誉にかかわると、敵の大軍に斬り込み壮絶な戦死をとげました。享年44歳。 戊辰戦争では、米沢藩の戦いぶりは消極的で、唯一奮戦したのが色部長門の隊であった。
 本堂脇に『色部家墓所』という色部家の墓域があり、その墓域内左奥の五輪塔が色部長門久長の墓である。(写真大きい方)