景徳院

⇒景徳院への交通
車で 中央自動車道勝沼ICから勝沼バイパスを大月方面に7kmで景徳院入口。さらに県道215号を1km
電車で JR甲斐大和駅からタクシーで5分

拝観時間/9:00〜16:30  拝観料/無し
山梨県東山梨郡大和村田野389

 武田家最後の地。織田・徳川の連合軍に攻められた武田軍勢は、多くの裏切りを出し、勝頼父子と夫人はこの天目山の麓田野に追い詰められ、此の地で自害したとも討死したとも言われています。

 

 <景徳院本堂>

 武田最後の当主武田四郎勝頼は、武田信玄の四男で、長男義信が謀反で幽閉された後自害、次男は盲目の為出家、三男が早世している為、諏訪家をついで「諏訪四郎勝頼」を名乗っていた勝頼が、勝頼の嫡子信勝が成人するまでの仮当主として跡を継いだ。
 織田徳川の連合に攻められ、一族郎党50名がここ天目山麓の田野で滅亡した後、入国した徳川家康が供養の為に建立した寺である。

 
 <勝頼夫人辞世の句碑>

 勝頼の最初の妻は織田信長の養女であったが、信勝を産んだ後死去。その後、勝頼32歳の時、北条氏政の妹である同夫人が15歳で輿入れした。 織田・徳川連合軍に攻められ、家臣の裏切りが続く中、武田八幡宮に祈念した願文を奉納し、勝頼の勝利を願っている。
 武田滅亡の際、兄北条氏政が北条に戻るよう説得を続けるも断り続け、この田野の地で、信勝の自害を見届けたのち、自らも自害。享年19歳。

黒髪のみだれたる世ぞはてしなき思いに消ゆる露の玉の緒(勝頼夫人)
おぼろなる月もほのかに雲かすみはれてゆくえの西の山の端(勝頼)
あだに見よ誰も嵐の桜花咲き散るほどの春の夜の夢(信勝)

 
 <武田勝頼・夫人・信勝墓>

 長篠の戦いで織田徳川に破れた後、勝頼は韮崎に新府城を建てるも、僅か68日で自ら焼き払い、家臣小山田信茂を頼り大月へ向うが途中信茂の裏切りを知り、ここ天目山に逃れる。田野で滝川一益と戦い一族、郎党50名が自刃して果てた。中央3基が勝頼・北条夫人・信勝の墓、その両端に準じた家臣の墓がある。(甲将殿裏)
勝頼37歳、夫人19歳、信勝16歳であった。

 

左上より「武田勝頼生害石」「勝頼(北条)夫人生害石」、下「武田信勝生害石」
勝頼親子が自害した場所と言われている場所にある生害石。

 

 

 

左「没頭地蔵尊」首無地蔵とも呼ばれ、勝頼・夫人・子息信勝を葬った場所と言われています。
右「首洗い池」ここで勝頼父子の首を洗ったと云われています。