■諸法令集■ |
■家訓(かきん) |
寛文8(1668)年、家老友松勘十郎の進言により、保科正之が「家訓」(かきん)十五条を起草し、山崎闇斎に潤色させて定めたもので、 4月11日会津から大老田中正玄を呼び寄せ授けた。 毎年正月、学校奉行が読み上げ、藩主も家臣も座を降り正座して拝聴した。 第一条冒頭にある「大君」はタイクンと読み、天皇ではなく将軍を意味する。 また、第4条にある「婦人女子の言」は、正之の継室「お万の方」の嫉妬が引き起こした「媛姫毒殺事件」の事が尾を引いているとも言われる。
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■什の掟(じゅうのおきて) |
會津藩の子弟教育の中で「什」と呼ばれる組織があり、會津藩の上士の家庭はおよそ800戸あり、これを八組ほどに分けて教育を施す単位とした。この組はさらに7〜8つの小グループに分割され、10名前後で構成される子供のグループが作られた。(今で言う集団登校のグループ分けのような感じ)これが「什」であり、日新館入学前の6〜9歳の幼童からなる「遊びの什」、入学後は「学びの什」という二種があった。 会津藩の子弟は6,7歳になると「遊びの什」に参加する事となり、毎日午前中は近所の寺子屋なり教師の家で孝経・大学などの素読をし、午後は順々に什の仲間のいずれかの家に集まって遊び、独りで自由に遊ぶことは許されなかった。 また、遊びの間も年功序列が厳格に守られ、年少者は門戸の出入りや立ち居においても、年長者に先んずる事は許されなかった。 同一年齢か上下ともに一歳違いの者の間では、これを「呼び捨て仲間」と称して、お互いに名前を呼び捨てにすることになっていたが、二歳違い以上になると、「〜様」と様付けで呼んだ。ただし組の中においては家柄によって差別されることはなく、あくまでも年齢によって序列が決まった。 「遊び」の始めには什の最年長者である「什長」が上席に着いて、他の子供が長幼の順に部屋の周囲に居並び、什長が「これからお話を致します」と宣言して、以下の心得を述べる。 1.年長者の言うことに背いてはなりませぬ --------------------------------------------------------------- その後座長が「何かいう事はありませんか?」と申し渡し、掟の叛いた者が居ないかを糺す。違反者に対しては以下の制裁が加えられる。
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■六科糾則(ろくかきゅうそく) |
天明8年戊申8月25日、五代藩主容頌の時、講所の功令を定め六科糾則と名づけて発布される。 修行は目的なくしては志も立ち難きを以って、周禮(中国の国史「春秋」の唐時代に追加されたもの)の六科に基づき六行の法を立て、六科・六行に適合をする者を重用し、八則に適合する者を退けることを定め、文武の芸が未熟である者は、練熟に達するまで諸勤を免じ小普請料を収める事を命じられ、学び得し者は年齢にかかわらず小普請料を免じられる。 若し未熟なる者は五年間一二芸の専修行を命じられ、尚達しない者は二三年を増し、尚達しない者は次男以下の者に養子を命ぜられる。 <六科>
中に就きて大いに得たる者は大いに用い、少く得たる者は、小に用ふ、これを審にするに六行を以ってす。 <六行>
<八則>
此の八過のうち、一もその身にあれば、假令才智芸能ありとも、其の尤め逃るべからず。常に心に存し慎むべし。 |