■ 幕末の動向  ■

庄内藩の成立などを中心に紹介

 三方領地替え
 幕府は天保11年庄内・長岡・川越の三方領知替を命じ、酒井家は14万石から7万石に減封される事となり、その理由はさまざまな憶測を呼んでいるが、一説には表高14万石に対し実高40万石とも言われる庄内に川越松平家を領地替えする事によって松平家を救済する事にあったとして、それを知った庄内藩の領民は断固反対を唱え、老中への駕籠訴を実行、5万・10万人規模の抗議集会を行なうなどし、また4月末からは嘆願の対象を会津・仙台・米沢の近隣に広げて多くの同情を集めた

 家慶はその不可を知り中止にした。領民の反対の理由の一つとしては財政貧窮の川越藩が庄内藩に入れば、年貢などを厳しく取り立てられるのを恐れたといわれる。

 

 ■御家騒動

 天保13年、藩主忠器は病気を理由に家督を長子の忠発に譲るが、勤皇派であった忠器と、佐幕派である忠発との間に対立が起こり藩内で、お家騒動が起こる。
 忠器の陣容は家老松平甚三郎・酒井奥之助・水野内蔵助・中老に酒井右京・竹内右膳・松平舎人がおり、酒井右京と酒井奥之助は「両敬家」と呼ばれ発言力が強かった。
 忠発が家督相続直後、酒井右京や大山庄大夫等の忠発を廃嫡し、分家筋で幕府の旗本になっていた忠明を藩主に立て同じく旗本になっていた分家筋の酒井大膳を後見とする密謀が発覚し忠明は忠発によって捕らえられる
 のち、改革派は忠発の次男忠恕を世子に迎え、土佐藩山内容堂の義理妹と娶わせるが、忠恕が病死、其の後を改革派の望む忠発の弟忠寛を養子として定め幕府の許可を得る。
 しかし酒井奥之助は江戸の忠発に諌言書を送り藩政を批判し、そのため酒井奥之助は蟄居逼塞を命じられる。
 松平舎人は蝦夷警備を命じられ、酒井右京は奥之助の処罰に対し諌言書を提出し忠発の反省を促したが、忠発の勘気に触れ逼塞を命じられ、改革派は藩政から遠ざけられた。

 第二次長州征伐の失敗により、藩内に政策批判の出る事を恐れた菅実秀、松平等の主流派は改革派の酒井右京・大山庄大夫・松平舎人等を逮捕庄大夫は雪隠の中で覚悟の自殺を遂げ、その遺体は埋葬を許されず塩漬けにして自宅の庭に仮埋めにし足軽に見張らせ、他改革派の処罰は家族や親類にまで及んだ。
 酒井右京も切腹を命じられ、弟の家老酒井玄嗣は右京に連座して隠居を命じられ1500石から800石削減され、700石の番頭に格下げされ嫡男の吉弥(酒井玄蕃了恒)が相続する事を許された。後に「丁卯の大獄」と呼ばれた。
 この吉弥がのち戊辰戦争で「鬼玄蕃」と呼ばれ西軍に恐れられた酒井吉之丞です。他多くのものが断罪を受けた。

 

 蝦夷地警備

 文化4年蝦夷地警備を命じられ、325名を派遣するが、ロシア人の南下が見られなかった為、8月守備の任務を解かれ陸路庄内に帰還した。
 しかし、安政元年ロシアの南下が活発化して来たので、蝦夷の警備を仙台・秋田・津軽・南部・松前の五藩に命じるが、安政6年品川台場の警備を免除された会津・庄内の二藩が加えられ、同時に北蝦夷(樺太)の警備にも奥羽六藩が毎年二藩ずつ当る事になった

 

 ■庄内藩と新徴組

 文久2年、清河八郎の案にて上洛する徳川家茂の警備の名目で浪士が集められ、江戸伝通院を出発して京に向かい壬生にて宿陣した所、清河が言を翻し、将軍の護衛の為ではなく攘夷の先鋒として浪士組を集めた旨を宣言すると、近藤勇や芹沢鴨ら一部が離反会津藩の預かりとなり、のち新選組となる。
 残りの浪士組は幕府より「生麦事件」の影響により英国と兵端を開くかもしれないとの理由で江戸に帰ることになる。
 江戸に帰った後、清川は佐々木只三郎に殺害され、残った浪士組は庄内藩御預かりという事となるが、浪士組は庄内藩預かりになる前は幕府の直接支配であって「将軍直属」の誇りがあり、何かあれば直参に取り上げられないまでも、下っ端の御家人に拾い上げられたとしても、将軍直参の身分であり、それを夢見てきた浪士組にとっては、庄内藩預かりになるということは、その夢が絶たれ、またそれまで陪臣と軽蔑してきた庄内藩士の下に立たされる事になる為、彼等にとっては我慢の出来ない屈辱で、また庄内藩としても「よそもの」である彼等と壁を作り差別した。

 庄内藩は、浪士組とは別に浪士を募り、清河系統とは別の新徴組をつくり飯田町に住まわせ、のち浪士組も一緒に住まわせた。
 しかし派閥を異にし、犬猿の仲であり、散乱者が後を絶たず、まもなく庄内藩御預かりになった当時の人数のわずか4割のみとなっていた。
 この新徴組の主役となったのは松平権十郎で、清河追慕の者を見つけ次第追い出し、新規に浪人を拾い上げ、新徴組はそのため庄内藩にだけは牙を抜かれた猪のようにおとなしくなるのですが、庄内藩以外にたいしては餓えた狼の如く、町奉行の同心等としばしば衝突して斬り合った。

 

 ■薩摩藩邸焼き討ち

 薩摩藩西郷隆盛は、倒幕の為の口実を作る為に江戸に多くの浪人等を藩邸に匿い、江戸や関東各地で騒擾を起させ慶応4年12月になるといっそう激しくなり、23日夜、三田の庄内巡邏兵屯所に対し不意に30人もの人数で鉄砲を打ち込んだ。
 暴漢のうち2人を召し捕り、薩摩藩が扶養する浪人である事が明らかになると、家老松平権十郎は、不逞浪士の巣窟である薩摩藩邸をそのままにしておいては市中警備の意味が無いと主張し薩摩藩邸攻撃を決定させ、25日には庄内藩兵一千人を主力に鯖江・上ノ山など諸藩の兵力一千余名を加えて薩摩藩邸と支藩佐土原藩の両屋敷を包囲し焼き払った

 

 ■朝廷へ官位返上

 慶応4年11月江戸で庄内藩を筆頭に六名の譜代が、朝廷から授かった官位の辞退を請い、菊の間詰諸大名・安部信発ら二十余名がこれまた、朝廷から出された京上りの召集命令を拒絶する文書を幕府に差し出し、宜しく朝廷に伝えてもらいたいと粘る。
 庄内藩は江戸市中取締りということで、鳥羽伏見の戦いには加わらず、菅実秀等は西郷隆盛暗殺の為兵を派遣するも失敗に終わる

 慶応4年1月14日土佐新田藩主山内豊福夫妻が慶喜に公衆の面前で面篤され心中、その3日後の17日に朝廷より庄内藩に慶喜追討に加われとの朝命が下されるものの、庄内藩は江戸藩邸で合議の結果、「累代の主家に敵対致し候儀は如何にも難忍」と寛典の恩命を請う使者を派遣し、嘆願したが受理されなかった

参考文献:「幕末維新三百藩総覧」新人物往来社
「秋田・庄内戊辰戦争」新人物往来社/郡義武著
「戊辰東北戦争」新人物往来社/坂本守著
「庄内藩」吉川弘文館/斎藤正一著
「やまがた幕末史話」東北出版企画/黒田伝四郎著
「奥羽越列藩同盟」中公新書/星亮一著