■ 幕末の動向 ■ |
庄内藩の成立などを中心に紹介
■三方領地替え |
幕府は天保11年庄内・長岡・川越の三方領知替を命じ、酒井家は14万石から7万石に減封される事となり、その理由はさまざまな憶測を呼んでいるが、一説には表高14万石に対し実高40万石とも言われる庄内に川越松平家を領地替えする事によって松平家を救済する事にあったとして、それを知った庄内藩の領民は断固反対を唱え、老中への駕籠訴を実行、5万・10万人規模の抗議集会を行なうなどし、また4月末からは嘆願の対象を会津・仙台・米沢の近隣に広げて多くの同情を集めた。 家慶はその不可を知り中止にした。領民の反対の理由の一つとしては財政貧窮の川越藩が庄内藩に入れば、年貢などを厳しく取り立てられるのを恐れたといわれる。 |
■御家騒動 |
天保13年、藩主忠器は病気を理由に家督を長子の忠発に譲るが、勤皇派であった忠器と、佐幕派である忠発との間に対立が起こり藩内で、お家騒動が起こる。 |
■蝦夷地警備 |
文化4年蝦夷地警備を命じられ、325名を派遣するが、ロシア人の南下が見られなかった為、8月守備の任務を解かれ陸路庄内に帰還した。 |
■庄内藩と新徴組 |
文久2年、清河八郎の案にて上洛する徳川家茂の警備の名目で浪士が集められ、江戸伝通院を出発して京に向かい壬生にて宿陣した所、清河が言を翻し、将軍の護衛の為ではなく攘夷の先鋒として浪士組を集めた旨を宣言すると、近藤勇や芹沢鴨ら一部が離反会津藩の預かりとなり、のち新選組となる。 |
■薩摩藩邸焼き討ち |
薩摩藩西郷隆盛は、倒幕の為の口実を作る為に江戸に多くの浪人等を藩邸に匿い、江戸や関東各地で騒擾を起させ慶応4年12月になるといっそう激しくなり、23日夜、三田の庄内巡邏兵屯所に対し不意に30人もの人数で鉄砲を打ち込んだ。 |
■朝廷へ官位返上 |
慶応4年11月江戸で庄内藩を筆頭に六名の譜代が、朝廷から授かった官位の辞退を請い、菊の間詰諸大名・安部信発ら二十余名がこれまた、朝廷から出された京上りの召集命令を拒絶する文書を幕府に差し出し、宜しく朝廷に伝えてもらいたいと粘る。 |
参考文献:「幕末維新三百藩総覧」新人物往来社
「秋田・庄内戊辰戦争」新人物往来社/郡義武著
「戊辰東北戦争」新人物往来社/坂本守著
「庄内藩」吉川弘文館/斎藤正一著
「やまがた幕末史話」東北出版企画/黒田伝四郎著
「奥羽越列藩同盟」中公新書/星亮一著