■ 戊辰戦争  ■

庄内藩の戊辰戦争の動きを紹介

 ■庄内藩 〜秋田攻め〜

 薩摩藩は藩邸焼き討ちの恨みの為、庄内藩を討ちたいものの追討の理由がなく、秋田藩などに追討の宣旨を下すものの、追討の理由を問われ返答する事が出来なかったが、庄内藩は江戸市中取締りの手当てとして、幕府から寒河江・柴橋の7万4000石の幕領を拝領していたのですが、3月庄内藩がその年貢米を持ち出したことを取り上げ、西軍は幕領は西軍の支配となっているのに、そこから勝手に米を持ち出したとして理由を付け、庄内藩を追討対象に掲げた。

 庄内藩は慶応4年4月9日会津藩と同盟を組み、また翌10日には会仙米庄同盟を結びました。翌閏4月に奥羽諸藩は会津と庄内救解の為、連名で嘆願書を作成し会庄救解同盟として「奥羽列藩同盟」が結成され、また庄内藩は豪商本間家を通じて、シュネル兄弟から最新式の兵器を手に入れ、西軍との戦に備えた。


■進軍図■

<戊辰戦争戦歴>
-第一大隊・大隊長松平甚三郎-
-第二大隊・大隊長酒井吉之丞(玄蕃)-

7/8 白河口応援の為白河へ向けて出発。
7/10 昼、楯岡にて第一大隊より秋田藩離反の早馬が入り引き返す。
7/11 舟形到着。新庄藩離反を知る。
7/12 舟形にて西軍・新庄軍と戦闘。第一大隊は間に合わず第二大隊のみで闘い勝利を収める
(西軍戦死8名・手負い12名/庄内藩損傷無し)
7/13 第一大隊と第二大隊合流。
7/14 第二大隊の猛攻により新庄藩開城。
この戦いで第二大隊は小隊長の服部正蔵・大島武助等5名戦死・手負い11名)
7/28 銀山にて佐賀藩等西軍と戦闘。(二)
中村峠にて戦闘(一)
7/29 役内平野にて戦闘(一)
8/1 西軍は後退し、役内口より横堀へ入る(一)
8/2 雄勝峠を越え院内に入る(二)
8/3〜6 瀬上主膳等仙台藩主力と合流。
8/5 湯沢攻略
8/8 皆瀬川激戦。
8/11 横手城を落城させる。
8/13 角間川の戦い
8/23 大曲の戦い(一)
花館の戦い・夜襲(二)
8/26 角館攻撃、3日目ついに断念(一)
9/8 第四大隊・第二大隊の雄物川渡河。
9/11 刈和野占領(二)
酒井吉之丞風邪により寝込む。
9/12 第一・第二大隊合流
9/13 第一大隊食中り。
9/15 刈和野を守っていた松山・仙台藩兵の油断より刈和野を西軍に奪回される。
9/16 病床の酒井吉之丞は輿に乗り指揮をとる、それにより第二大隊は鼓舞され刈和野奪回する。
これが最後の戦いとなる。(この戦いで石原藤助等戦死)
9/17 刈和野を発ち、21日に第二大隊が22日に第一大隊が酒田に帰国する。


-第三大隊・大隊長酒井兵部(途中水野弥兵衛に交代)-
(支藩松山藩よりの来援隊も第三大隊に付属)
-第四大隊・大隊長(小隊長も兼務)水野藤弥-
(新徴組等諸隊付属)

7/13 進軍してきた亀田藩等西軍と三崎峠にて戦闘(三)
7/16 三崎峠の戦い(三)
観音森を占領されるも西軍の撤退で奪回する(三)
7/20 第四大隊編成。
7/28 鳥海山越え百宅の戦闘の末撃退(三)
矢島藩陥落(四)
8/5 亀田藩庄内藩へ降伏
8/6 本荘藩城を放棄。8日には第三大隊が本荘進撃。
第三大隊大隊長が酒井兵部より水野弥兵衛に交代する。
9/8 第二大隊と合流し雄物川渡河(四)
9/10 椿台の戦いの激戦(四)
9/11 椿台の激戦で敗戦(100名前後の死傷者を出し庄内藩戊辰戦争中最初で最後の大敗戦となる)(四)
9/12 長浜へ攻撃の末敗戦(三)

 9/26庄内藩鶴ヶ岡城開城。降伏後、征討軍参謀黒田清隆は26日清川を経て鶴ヶ岡に入り、藩校致道館に陣し、同夜、藩主酒井忠篤を引見して降伏を認め、翌27日鶴ヶ岡城の武器を点検し、武器弾薬は百姓の人馬によって越後新発田に輸送した。反逆首謀者は、当初「上下一体になりて事を謀りたれば、特に首謀と命名すべき者なし」と答えるも「有り得ぬ」と却下され、やむを得ず、新潟で戦死した家老石原倉右衛門ひとりにしぼり上申した。
 戊辰戦争における庄内藩の死傷者は734名、内訳は戦死322名、負傷412名であり、秋田藩の戦死者は461名であったという。

参考文献
「幕末維新三百藩総覧」新人物往来社
「秋田・庄内戊辰戦争」新人物往来社/郡義武著
「戊辰東北戦争」新人物往来社/坂本守著
「庄内藩」吉川弘文館/斎藤正一著
「やまがた幕末史話」東北出版企画/黒田伝四郎著
「奥羽越列藩同盟」中公新書/星亮一著