■ 庄内藩の成立  ■

庄内藩の成立などを中心に紹介

 ■庄内藩
現在:山形県鶴岡市
藩主:酒井忠篤(13代目)
石高:16万7千石
席次:溜間格
家紋:庄内片喰紋
最後の藩主:酒井忠宝

 

 庄内藩の成立

【庄内藩主酒井氏の祖】
 酒井氏は徳川氏と同祖の新田源氏の家柄で、室町幕府の命により関東管領上杉憲実が新田一族を厳しく探索したので、後裔の有親・親氏親子は難を避けて藤沢に身を潜め、父子共に剃髪して三河国額田郡坂井郷に移り住む。
 有親は1442年没したが、親氏は24歳、坂井郷の庄屋五郎左衛門の女婿となり一子をもうける。これが酒井氏の祖広親である。しかし、五郎左衛門の娘は産後間もなく亡くなり、同国松平郷の庄屋太郎左衛門の娘と再婚し一子もうける。これが泰親で徳川氏の祖である。
 1501年、忠善が泰親の曾孫松平長親に従い伊勢新九郎の大軍と戦い首級200余をあげた。長親はその功を賞すると共に、その功にあやかるため酒井氏の家紋であった葵の家紋を献上させ松平氏の家紋とし、その代わりに鳩酸草の家紋を酒井家の家紋とさせたという。
 しかし、応仁の乱の後、系図の売買や偽作が横行するようになり、徳川家康も最初藤原氏を称していたが、室町将軍の後継ぎを望んで関が原の戦いの後、源氏に変えている。それが事実であるとすれば、祖を同じくするという酒井氏の新田源氏も信じがたくなってくる。

【庄内藩の成立】
 元和8年、幕府は山形城主最上義俊52万石を藩内不統一を理由に改易に処し、新たに近江と三河に一万石を与え、同月最上氏の旧領を、山形22万石・上ノ山4万石・左沢1万2千石・白岩8千石・真室6万8千2百石・庄内13万8千石・その他幕領とし、庄内に酒井宮内大輔忠勝を配したが、忠勝は最初この命を受けた時、山形城の枝城とも見られる庄内への配置に不満であったが、老中から「庄内は亀ヶ崎・鶴ヶ岡と申す両城有之、其地縁海の国にして誠陸奥越後両国の間にあれば、今度の儀専ら外藩警備の御内意ニ而貴殿家柄格別の思召を以仰下されし儀なれば、彼両城御守護ありて永く天下の藩屏たるべし」と庄内の軍事的重要性を強調され、重責を感じて入部したと言われている。